背徳のゆりかご
目が覚めた時、視界に入ったのは船底の低い天井と、エドモンの静かな寝顔だった。
昨夜、屈辱と引き換えに手に入れた薬が効いたのか、彼の呼吸は驚くほど穏やかだ。
「……生きてる。よかった……っ」
私は泥のような疲労感に沈む体を引きずり、彼の冷たい指先に触れた。
指一本動かすのさえ億劫で、魔力を絞り出した反動で全身の節々が軋むように痛む。けれど、エドモンの胸が規則正しく上下しているのを見るだけで、私の心は安堵という名の麻薬に侵されていく。
(生きていてくれさえすれば、私はなんだっていい……)
そう自分に言い聞かせなければ、正気を保てなかった。
だが、そんな束の間の平穏を、ガッサの足音が無残に踏み躙る。
今日の「仕事」へ向かう馬車の中。向かい側に座るガッサは、窓の外を眺めながら、針で刺すような声で私に微笑みかけた。
「ひどい顔だ、アンジェリカ。そんな死人のような顔で、客に夢を見せられると思っているのか?」
「……。黙って。やることはやるわ」
「ククッ。忠義だねぇ。だがあんた、分かっているのか? あんたがそうやって『聖女』を切り売りしてあいつを生かすたびに、あの男が命を懸けて守った『自由なアンジェリカ』は、砂の城みたいに崩れていっているんだ。あいつが目覚めて、自分の命があんたの屈辱で買い叩かれたものだと知ったら……一体、どんな顔をしてあんたを憎むだろうなぁ」
「……っ、やめて……!」
私は耳を塞ぎたかった。
ガッサの言葉は、私の胸の最も柔らかい場所を、毒を塗ったナイフで正確に抉ってくる。
私がエドモンを救おうとすればするほど、エドモンが私にくれた贈り物を、私自身が汚していく。この矛盾に、私は狂ってしまいそうだった。
やがて馬車が止まり、私は再びあの地獄へと引きずり出された。
ガッサの邸宅にある大広間は、むせ返るような安っぽい香水と、酒、そして男たちの脂ぎった体臭で満ちていた。
高い天井に吊るされたクリスタルのシャンデリアが、残酷なほどに私を照らし出す。
「さあ、よく見ておくがいい! この手首の傷、そしてこの神々しい魔力の揺らぎ! 北の聖教国が独占していた『奇跡の源泉』が今、ここにある!」
ガッサの哄笑が、私を突き刺す。
私は、肌を過剰に露出させた異国の薄絹に身を包み、まるで競売にかけられる奴隷のように、円卓の壇上に立たされていた。
眼下に並ぶのは、隣国の有力者たちだ。
そこにあるのは、私の魔力を吸い取って若返りを画策する老貴族や、私の「価値」をどう転売するか計算している肥った豪商たちの、濁りきった眼球だ。
「おい、その腕輪を外せ。もっとよく見せろ」
「噂では、聖女の涙を飲めば不老の命が手に入るとか……。ガッサ、今ここで泣かせてみせろよ」
一人の男が、酒で赤らんだ顔を近づけ、私のドレスの裾を汚れた指で弄ぶ。
かつては「聖女」として、触れることさえ禁忌とされていた私の肉体が、今や金と欲にまみれた豚たちの玩具に成り下がっていた。
(……汚い。殺してやりたい。こいつら全員、今すぐ呪い殺してやりたい……!)
喉の奥までせり上がった呪詛を、私は血が出るほど唇を噛んで飲み下した。
背後でガッサが、あの薬の小瓶を弄んでいるのが見えたから。
「……皆様、落ち着いてください。光を……お望みなのでしょう?」
私は死んだ魚のような瞳で、金の腕輪に隠された枷を握りしめた。
ひしゃげた鉄が、昨夜塞がったばかりの傷口を再び抉り、生温かい血が腕を伝い落ちる。その痛みだけが、私がまだ「人間」であることを、エドモンを愛する一人の「女」であることを思い出させてくれた。
「――っ、ああぁぁッ!!」
無理やり絞り出した魔力が、黄金の光となって部屋を埋め尽くす。
それは私の絶望と憎悪を燃料にした、冷たく、凍えるような奇跡の残骸だ。
貴族たちは、その光を浴びながら歓喜の声を上げ、私に縋り付いてきた。
彼らの脂ぎった手が、私の肩に、腰に、髪に触れる。そのおぞましさに吐き気がして、私は視界を真っ暗に塗りつぶした。
取引が終わり、屈辱のステージを下ろされた私の手に、約束の「命の対価」が握らされた。たった一瓶の、濁った液体。
私は、汚れきったドレスを引きずりながら、独り、船底の暗闇へと這い戻った。
エドモン。あんたが守ろうとした私は、もうどこにもいない。
私は今夜も、あんたを生かすために、私のすべてをこの豚たちに売り払った。
「……エ、ドモン……」
私は寝台に横たわる彼に、すがりつくようにして薬を流し込んだ。
彼の胸に顔を埋めると、そこにはまだ、わずかに騎士としての潔白な匂いが残っている。それが、今の私には何よりも辛く、自分という存在が不浄の塊であるように思えて、私は声も上げずに泣き続けた。
「……神様。もし……、もしあんたがいるなら……。今すぐ私を殺して。……けれど、エドモンだけは、この汚い私から……遠ざけてあげて……」
私の祈りは、もはや天には届かない。
ただ、船底に溜まった泥水のように、暗闇の中へと虚しく消えていった。




