檻への帰還
商人の船の最下層。湿った海水の匂いと、安っぽい油の匂いが混じり合う、檻のような船室。
エドモンは、運び込まれた粗末な寝台の上で、未だに死の淵を彷徨っている。
商人が用意した薬師が傷口を縫い、何らかの薬を塗ってはくれたものの、彼の顔色は土色のままだ。呼吸のたびに、肺がひしゃげた笛のような音を立てる。
「……ねえ、起きてよ、エドモン」
私は彼の傍らに座り込み、ひしゃげた枷の残る手で、彼の冷え切った指先を握りしめた。
かつては大嫌いだった、手首を締め付ける鉄の感覚。
けれど今は、その枷がもっと強く私を縛り、あの忌まわしい黄金の光を無理やりにでも引きずり出してくれないかと、狂おしいほどに願っている。
(……おかしいわよね、私)
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
あんたは命を懸けて、私をあの祭壇から、聖女という名の装置から引き剥がしてくれた。
「一人の女として生きろ」と、そのボロボロの体で証明してくれた。この枷がひしゃげているのは、あんたが私の自由をこじ開けてくれた証拠なのに。
奇跡が欲しい。
誰のためでもない、この男一人のために。
あんなに汚らわしいと思っていた「聖女の輝き」が、今は世界中のどんな宝物よりも愛おしい。今の私にあの力があれば、あんたの傷を、熱を、一瞬で消し去ってあげられるのに。
「……お願い、エドモン。死なないで。……あんたを救えるなら、私は何度だって聖女になってあげる。あんたが壊してくれたこの檻の中に、自分から戻ってあげるから……!」
私は、彼の傷だらけの胸に額を押し当て、内側に残った魔力の残滓を必死にかき集めた。
ひしゃげた枷が、私の焦燥に呼応して肉に食い込み、血が滲む。
自由なんて、人間としての尊厳なんて、あんたが生きていてくれなきゃ、ただの空虚な言葉でしかないのよ。
「ひどい話だ。騎士様が命を懸けて守った『自由』を、当の聖女様が真っ先にドブに捨てようとしているとは」
背後で、ねっとりとした声が響いた。
いつの間にか扉の前に立っていたガッサが、肩をすくめてこちらを見下ろしている。
「……黙りなさい。あんたには関係ないわ」
「関係大ありさ。私は商人だからね。あんたがその男への執着で『聖女』に戻りたがればたがるほど、私の取り分は増える。……お嬢さん、いい顔になったじゃないか。国を思っていた頃の、あの死んだ魚のような瞳より、たった一人の男を生かそうと血眼になっている今のあんたの方が、ずっと『奇跡』を引き出しやすそうだ」
ガッサはゆっくりと近づき、私の震える手首の枷を、汚れた指先で愛おしげになぞった。
「あんたは今、その男への『愛』で、自分をまた檻に繋ごうとしている。……騎士様が目覚めたら、どう思うだろうねぇ? 自分が死ぬ気で剥がしてやった皮を、あんたが自ら縫い直しているのを見たら。……ククッ、これ以上の不忠はない」
「……っ、うるさい……ッ!!」
私は彼を突き飛ばそうとしたが、ガッサはその腕を軽くいなし、耳元で残酷な事実を囁いた。
「いいかい、聖女様。あんたがこの男を愛すれば愛するほど、あんたは聖女に戻り、この男の覚悟を裏切ることになる。……その矛盾に焼き切られながら、精々、私のために稼いでくれよ」
ガッサが去り際、床に一瓶の薬を転がした。
「そいつは一時凌ぎだ。本物が欲しければ……分かっているね?」
バタン、と重い鉄の扉が閉まる。
私は転がった薬を拾い上げ、気を失ったままのエドモンの胸に縋り付いた。
ごめんなさい、エドモン。
あんたがくれた自由を、私は今、あんたの命と引き換えに売ったわ。
この裏切りを、あんたが目覚めた時になんと呼ぶのか、私は怖くてたまらない。
それでも。
冷たくなっていくあんたを抱きしめるよりは、呪われながらあんたの熱を感じていたい。




