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秤の上の聖女

「……あんた、何者よ。そこから一歩も動かないで」

私は、エドモンの体を庇いながら、床に転がっていた鋭い木片を掴んだ。

指先は震え、膝は今にも崩れそうなのに、背中に感じるエドモンの微かな鼓動だけが、私に獣のような闘争心を植え付けていた。

「おっと、怖いお嬢さんだ。安心しな、私は血を見る商売は専門外でね」

ガッサと名乗ったその男は、私の手首に食い込んだ「ひしゃげた銀の枷」をねめ回し、口元を歪めた。

「重傷だ。放っておけば今日の太陽が沈む頃には死体だろう。だが……私の船には、王国の宮廷医師ですら手に入らない秘薬と、清潔な寝床がある。……お嬢さん、あんたが私の商売に少しばかり『力』を貸してくれるなら、その男を助けてやってもいい」

男の言葉が、私の脳内で冷酷に響く。

……力を貸す?

それは、あの大嫌いな「聖女」に戻るということ。

誰かの病を治し、誰かのために奇跡を安売りする、あの便利な道具に。

(……そんなこと、できるわけないじゃない)

胸の奥が、焼けるように熱い。

エドモン。あんたがどんな思いで私をあの祭壇から連れ出したか、私は知っているわ。

あんたは、聖女という偶像を殺し、私を一人の「アンジェリカ」という女として解き放つために、騎士としての名誉も、仲間も、自分の体さえも、すべてを投げ打って戦ってくれた。

この傷は、あんたが私にくれた「自由」の代償。

この血は、私が「人間」として生きていくための洗礼。

それなのに……。

そのあんたを救うために、私はまた、あんたが命懸けで壊してくれたあの「檻」の中へ、自分から這い戻ろうというの?

あんたが守った私の自由を、私自身のわがままでドブに捨てるっていうの……?

「……、……っ」

私は、ひしゃげた枷を強く握り締めた。鉄の冷たさが、裂けた皮膚に食い込んで痛い。

これは裏切りだ。エドモンの、あの決死の覚悟に対する、最悪の背信だ。

もし彼が意識を取り戻して、私がまた「奇跡」のために誰かに傅いているのを見たら、彼はどんなに自分を責めるだろう。

けれど。

「……あ、……ぁ……」

背後で、エドモンが掠れた吐息を漏らした。

熱に浮かされ、死の淵で彷徨っている彼の指先が、力なく砂を掻く。

その絶望的なほど弱々しい動きを見た瞬間、私の葛藤は、濁流のような愛着に飲み込まれて消えた。

自由なんて、いらない。

あんたのいない自由なんて、ただの広すぎる牢獄と同じよ。

あんたが死んで、私一人が「人間」として生き残ることに、何の意味があるっていうの?

あんたが私を聖女から逃がしてくれたというなら、私は私の意志で、あんたを救うための「魔女」になってやる。

例え目覚めたあんたに蔑まれようと、恨まれようと……あんたが息をして、また私の名を呼んでくれるなら、私は喜んで地獄の鎖に繋がれてあげる。

「……わかったわ。その取引、乗ってあげる」

私は木片を捨て、震える声で告げた。

枷の残る右手を、商人の前に差し出す。

「この男を救いなさい。……そのためなら、私はなんだって演じてあげる。聖女でも、化け物でも、あんたの望む通りに。……その代わり、もし彼に何かあったら……その時は、あんたも、あんたの主人も、この国ごと焼き尽くしてあげるから」

「交渉成立だ、お嬢さん。……いや、『聖女様』とお呼びすべきかな?」

ガッサが下卑た笑みを浮かべ、合図を送ると、屈強な男たちが廃屋に入ってきた。

私はエドモンの手を離さないまま、朝靄に包まれた異国の港へと、自ら囚われの身となって歩き出した。

あんたがくれた自由を、私は今日、捨てたわよ。エドモン。

だから……死ぬなんて、絶対に許さないんだから。

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