廃屋の微熱
潮風に晒され、腐食しかけた木材の匂い。
国境の断崖から数マイル。海岸線の外れに打ち捨てられた廃屋の隅で、私たちは重なり合うようにして横たわっていた。
穴の空いた屋根からは、王国のものよりずっと濃く、冷ややかに澄んだ異国の星空が覗いている。
「……ハァ、……っ、あ……」
寝かせた藁の上で、エドモンが苦しげに喉を鳴らす。
激流に揉まれ、岩に叩きつけられた彼の肉体は、もはや「王国最強の盾」と謳われた面影などなかった。熱は一向に引かず、傷口からは絶えず透明な液が滲み出して、彼を包むボロ布を汚していく。
私は、ボロボロになった自分のスカートを裂き、汲んできた冷たい水で彼の額を拭った。
魔力を使い果たし、枷がひしゃげた今の私の指先には、一欠片の光も宿っていない。
(……ああ、なんて自由かしら)
ふと、そんな思いが頭をよぎる。
四年間、私を縛り付け、数百万人の安寧という名の呪いを背負わせていた「聖女の力」。それが枯れ果てた今、私はようやく、ただの無力な女になれたのだ。
けれど、その代償はあまりに残酷だった。
自由と引き換えに、私は目の前で死にかけている男を救う術を失った。
「ねえ、エドモン……起きてよ。……皮肉よね。あんなに嫌いだった力が、今は欲しくてたまらないなんて」
私は彼の熱い大きな手を、自分の両手で包み込んだ。
かつては彼が、冷え切った私をその掌で温めてくれた。今は、私が彼の消え入りそうな命の灯を、必死に囲って守っている。
不器用で、堅物で、私のことを「荷物」だと言い放った男。
なのに彼は、私のために名誉をドブに捨て、仲間を斬り、自らの肉体をズタズタに引き裂かれてまで、私をこの場所へ連れてきた。
「……どうして。どうして私なんかのために、ここまでボロボロになれるのよ。……あんたが守ったのは、もう奇跡も起こせない、ただの空っぽな器なのに」
私は彼の胸板に顔を寄せた。
微かに、けれど懸命に刻まれる鼓動。
その音を聞くたびに、私の胸の奥が、締め付けられるような激痛を上げた。
これは「慈愛」なんて綺麗な言葉じゃない。もっと泥臭くて、自分勝手で、この男をどこへも行かせたくないと願う、執着という名の愛着。
(嫌よ。行かないで。……私を置いていかないで)
神に祈る言葉なんて、もう持っていない。
私はただ、彼の汗ばんだ首筋に額を押し当て、心臓が止まるほど強く、その腕を抱きしめた。
聖女としてではなく、アンジェリカという一人の女として、私は初めて「奇跡」を求めていた。国を救うためじゃない。ただ、私の隣でこの男が息をしてくれる、それだけのために。
「……愛してるなんて、絶対に言ってあげないんだから。……だから、起きて。起きて、また私を、不器用な顔で睨みなさいよ……」
静寂の中、私の涙がエドモンの傷口に落ちた。
絶望と、歪な愛着が入り混じる夜。私はいつの間にか、彼の震える指を自分の指に絡めたまま、深い闇の中へと沈んでいった。
「――おやおや、こんな掃き溜めに、えらく綺麗な『掘り出し物』が転がっているじゃないか」
夜明け前。
不意に響いた、低く、ねっとりとした声。
私は弾かれたように顔を上げた。
廃屋の入り口。
月の名残を背負って立っていたのは、派手な刺繍の外套を纏った男。その瞳に宿るのは、信仰でも慈悲でもない。金銭という名の重みを計る、商人の狡猾な光だった。
私はエドモンを庇うように立ち上がり、冷え切った指先で、ひしゃげた枷を強く握り締めた。




