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奈落の底

耳を打つのは、激流の轟音ではなく、静止した世界のように冷ややかなさざ波の音だった。

肺に溜まった泥水を吐き出し、私は重い瞼を押し上げる。

視界に広がるのは、王国のものよりずっと濃く、どこまでも残酷に晴れ渡った蒼い空。

「……あ、は……。最悪。……本当に、最高に最悪だわ……っ」

私は砂浜に突っ伏したまま、乾いた喉で笑った。

生きていた。あんなに望んだ「終わり」は、今回も私を裏切った。

四年間、祭壇の上で数百万人の安寧を支える「部品」として心臓を動かし続け、ようやくすべてを投げ打って墜ちたはずなのに。神はまだ、私をこの泥まみれの現世に縛り付けておくつもりらしい。

全身の骨が砕けたような激痛。手首の枷は、先ほどの「暴走」で無惨にひしゃげ、肉に食い込んでいた。黄金の輝きは霧散し、今はただの、皮膚を裂く汚れた鉄屑かなぐずに過ぎない。

だが、自分の痛みなんてどうでもよかった。

「……エドモン。ねえ、エドモン……どこ……?」

引きずるような体で、砂を掻いた。

すぐ傍に、波に洗われながら横たわる、物言わぬ一塊の肉。

「……っ、あぁ……ッ!!」

それは、エドモンだった。

白かったはずの農夫の服はズタズタに裂け、その隙間から覗く肌は、岩に打ち付けられたのか、あるいはカイルの剣に刻まれたのか、正視に耐えないほど赤黒く腫れ上がっている。

彼の傍らに転がっていた愛剣は折れ、かつての騎士の面影を無惨に踏みにじっていた。

私は這い寄り、彼の胸に耳を当てた。

……動いている。

けれどそれは、今にも立ち消えそうな、風前の灯火のような鼓動だった。

「……ねえ、目を開けなさいよ、この堅物……っ! 私を連れ出すって、自由にするって……言ったじゃない!」

私は彼の胸板を、力の入らない拳で叩いた。

絶望が、冷たい海水よりも鋭く胸に突き刺さる。

どうして? どうして私じゃなくて、この人が死ななければならないの?

数百万人の見知らぬ誰かを救うために、私は四年間も心臓を削ってきた。神様、あんたはまだ足りないっていうの? 私の心だけでなく、私が初めて執着したこの男の命まで、生贄に捧げろというの!?

「……ふざけないで。ふざけないでよッ!!」

私は空を仰ぎ、声を限りに叫んだ。

神も、人も、秩序も、運命も。私のすべてを奪ってきたすべてが、憎くてたまらない。

もし、この男を救う代わりに世界が滅びるというのなら、私は喜んでこの手でその引き金を引いてやる。

「……地獄へ行くなら、一緒だって約束したでしょ。一人で行くなんて、許さない……絶対に許さないんだから……!」

私は、冷え切ったエドモンの首筋を抱きしめた。

彼の傷口から滲む血が、私の頬を汚す。けれど、その血の生臭さだけが、私がこの地獄で唯一求めた「真実」だった。

私は、彼の震える指先を、ひしゃげた枷の残る自分の指に絡めた。

背後に聳え立つのは、私たちが死を賭して飛び降りた王国の断崖。

そこにはもう、私たちの居場所も、聖女という名誉も、騎士という誇りもない。

あるのは、ただ、この壊れかけた男と、すべてを呪う私の、二人分の孤独な命だけ。

「……さあ、行きましょうか、エドモン。……あんたの望んだ『自由』がこれなら、私はどこまでも付き合ってあげる。地獄の底まで、引きずってでも連れて行ってあげるわ」

私は、エドモンの熱い吐息を確認し、未知なる異国の土を、呪詛とともに踏み締めた。

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