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神への訣別

「――聖女を包囲せよ。その器を傷つけることは許さん。だが、不忠の徒は肉の一片も残さず、神の御名において裁け」

カイルの声は、霧の深淵から響く鐘の音のように冷たく、歪なほどに透き通っていた。

彼は私を一人の人間としてなど見ていない。ただの「奇跡を運ぶための容器(聖女)」としてのみ、その存在を定義している。

数人の騎士が、機械的な正確さで霧を割り、エドモンへと殺到した。

「――おおぉぉッ!」

エドモンが吠えた。

満身創痍、脇腹から溢れる鮮血が彼の視界を奪い、膝は笑い、立っていることさえ奇跡に近いその男が、鬼神の如き速さで最初の一人の喉元を斬り裂く。

だが、数は圧倒的だった。一人を斬れば二人が、二人を退ければ四人が、逃げ場のない断崖へと彼を追い詰めていく。

「エドモン……ッ!」

彼の肩に深く刃が食い込み、硬質な音が響く。鮮血が白い霧を無惨に赤く汚すのを見た瞬間、私の胸の奥で、何かが狂おしく軋んだ。

「なぜ抗う、エドモン・ド・ヴァランタン」

カイルが、一歩、また一歩と、死神のような足取りで近づいてくる。

「貴様はかつて、この聖女を守るための『盾』だったはずだ。それが今や、器を汚し、神の法を乱す最大の不浄となっている。聖女よ、聞くがいい。貴女がその男を庇うたびに、この男の魂は不忠の業火に焼かれ、救いなき地獄へと墜ちていくのだ」

「……黙りなさいよ」

私は、エドモンの背中にしがみつくようにして、カイルを睨みつけた。

「あんたたちの言う『地獄』がなんだって言うのよ。私を祭壇に縛り付け、心臓が止まるまで生贄として飼い殺す。……それ以上の地獄が、この世にあるっていうの!?」

「それは高貴なる犠牲だ。数百万の民を救うために選ばれた、神聖なる機能だ。聖女、貴女に拒否権などない。貴女の命は、貴女だけのものではないのだから」

カイルの瞳には、一切の迷いがない。その絶対的な「正論」という名の暴力が、私を窒息させようとする。

足元では、エドモンが再び膝をついた。彼の剣は折れ、吐き出された血が泥を赤く染めている。

それでも彼は、震える腕で私を背後に隠し、決してカイルに道を譲ろうとはしない。

(……ああ。なんで、なんであんたは。こんなにボロボロになってまで)

私を装置として、荷物として、道具として連れ戻しに来たはずの男。

それなのに、今は私という一人の女の「生」を守るためだけに、自分の魂さえも、騎士としての誇りさえも、すべてをドブに捨てて立っている。

「……アンジェリカ。……逃げろ。……下りろ……川へ……」

エドモンの掠れた声。私の名前を呼ぶ、その不器用な熱。

その時、私の中で、四年間ずっと冷え切っていた「心」という名の氷原が、爆発的な怒りと愛着によって粉々に砕け散った。

(いらない。そんな世界なんて、いらない!)

数百万人の安寧? 国の繁栄? 神の摂理?

そんな不確かなもののために、この、私の名を呼ぶたった一人の男が殺されるのを、黙って見ていろというのか。

「……いいわよ、カイル。あんたたちの望む『聖女の力』、今ここで、全部吐き出してあげる。……でも、それは救済じゃないわ。あんたたちへの、呪いよ!」

私は、自分の手首を繋ぎ止めていた「沈黙の銀」を、自らの魔力で内側から引きちぎるようにして力を込めた。

肉が裂け、血が噴き出す。だが、その痛みさえ心地よかった。

「な……っ、何を!? 聖女、やめろ! 枷を壊せば、貴女の肉体そのものが崩壊するぞ!」

カイルが初めて顔色を変え、激昂した。

だが、もう遅い。

私は、エドモンの血に染まった背中を抱きしめ、己の命の灯を燃料にして、禁忌の扉を蹴り破った。

「――ああああああああああッ!!」

視界が黄金色に爆ぜる。

それは柔らかな祈りの光ではない。触れるものすべてを焼き尽くし、因果を歪めるほどに苛烈な、叛逆の焔だ。

私の背後に立ち昇る光の翼は、もはや救済の象徴ではなく、すべてを拒絶する「魔女」の産声だった。

「カイル、あんたの信じる神様に伝えておきなさい。……アンジェリカは、今、自分の意志で堕ちたって。……もう二度と、あんたたちの道具にはならないわ!」

圧倒的な魔力の波動が、渓谷の霧を蒸発させ、カイルたちを後方へと弾き飛ばす。

私は、意識を失いかけているエドモンの首に腕を回し、その耳元で、甘く、冷酷な約束を囁いた。

「……エドモン。地獄の底まで、私と一緒に来てくれるわよね?」

「……ああ。……どこまでもだ。……アンジェリカ」

私たちは、王国の秩序が支配する大地を最後の一蹴りで拒絶し、逆巻く濁流が待つ奈落の底へと、二人で身を投げ出した。

黄金の光が闇を切り裂き、私たちはただの「男と女」として、世界の果てへと墜ちていった。

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