霧の渓谷
視界のすべてが、乳白色の霧に溶けていく。
絶壁に挟まれた狭い渓谷。足元を流れる急流の轟音だけが、世界の終わりのように響いていた。
私の肩に預けられたエドモンの体温は、今や恐ろしいほどに熱い。傷口が開き、彼の歩みは一歩ごとに重く、引きずるような音を立てていた。
「……ハァ、ハァ……。ここまでだ、アンジェリカ。……この先は、断崖だ。もう、道はない」
エドモンが、膝をつくようにして壁に背を預けた。
その手は、自分の血で滑って、もはや剣の柄を握り直すことさえ困難そうだった。
「……道がないなら、作ればいいじゃない。あんた、騎士なんでしょう?」
私は虚勢を張りながら、霧の奥を睨みつけた。
だが、返ってきたのは私の言葉ではなく、霧を切り裂いて響く、整然とした甲冑の擦れ合う音だった。
カツン、カツン、と。
村人たちの無様な足音とは違う、死を運ぶプロフェッショナルの足音。
霧の向こうから、十数人の黒い甲冑を纏った騎士たちが、静かに、そして確実に私たちを包囲するように姿を現した。
「――そこまでだ。叛逆者エドモン」
列を割り、一人の男が前に出た。
かつてエドモンと並び称された、王国最強の双璧の一人。冷徹な魔導騎士、カイルだった。
「……カイルか。わざわざ、自ら出向いてくるとはな」
エドモンが、壁を支えに無理やり立ち上がる。
彼の全身から、黒ずんだ血が滴り落ちて、白い霧を汚していく。
「エドモン、貴様の無様な姿は見ていられん。その女に何を吹き込まれた? 国家の安寧を捨て、一人の女の毒言に溺れたか。……聖女、貴女もだ。その枷を外せば、貴女の命はあと数日も持たない。大人しく戻り、祭壇で聖なる役割を終えなさい」
カイルの声には、怒りも慈悲もなかった。
あるのは、ただ「秩序」という名の巨大な歯車を回し続けるための、冷酷な論理だけ。
私はエドモンの前に一歩踏み出し、カイルを正面から見据えた。
「役割……? 笑わせないでよ。あんたたちの言う『秩序』なんて、私の叫びの上に築かれた砂の城じゃない。私はね、あんたたちの綺麗な世界を壊すために、地獄から戻ってきたのよ」
「……ならば、力ずくで連れ戻すまでだ。全軍、構えろ。エドモンは殺しても構わん。聖女は……四肢を砕いてでも生かして連れ帰る」
カイルの合図とともに、騎士たちが一斉に抜剣した。
銀色の刃が、霧の中で不吉な光を放つ。
「……アンジェリカ。私の背中に、隠れていろ」
エドモンが、震える手で剣を正に構えた。
傷口から噴き出す鮮血が彼の視界を奪おうとしても、その瞳だけは、飢えた狼のような鋭さを失っていない。
「……バカね。一人で格好つけさせないって、言ったでしょ」
私は、自分の手首を繋ぐ鉄鎖を、右手に強く巻き付けた。
枷から溢れ出す黄金の光が、私の怒りと共鳴し、激しく脈打つ。
これは、国を救うための祈りじゃない。
私と、この愚かな男を阻むすべてを焼き尽くすための、呪いの焔だ。
「……来なさい、王国の飼い犬ども。聖女の奇跡がどんな味がするか、その身で確かめさせてあげるわ!」




