慈悲なき揺藍
「アンジュ!」
背後で、女将さんの悲鳴に近い声が上がった。
桟橋に倒れ伏した私を、港の連中が遠巻きに囲んでいる。彼らの手には、使い古された銛や魚捌き用の包丁が握られていた。
「おい、その手を離せよ。その娘はメルセールの看板なんだ」
「騎士様か何か知らねえが、この町にゃこの町の掟があるんだ。……消えな」
粗野な漁師たちが、一歩、また一歩と詰め寄る。
彼らは私が「聖女」だから守ろうとしているのではない。ただ、四年も一緒に泥を啜ってきた、口の悪い「アンジュ」を奪われるのが癪なだけだ。
だが、私の手首を掴んでいるエドモンの手は、微塵も揺るがない。
彼は視線すら動かさず、空いた左手で腰の剣の柄に指をかけた。
「……退け。これ以上の公務執行妨害は、この港一帯を叛逆の共犯と見なす理由になる」
その声には、脅しではない「事実」としての冷酷さが宿っていた。
エドモンが放つ、戦場特有の硬質な殺気が伝播し、漁師たちの足が止まる。
この男は、本当にやる。自分に従わない命を、路傍の石を退けるように処理するだろう。
「……やめなさいよ、無駄死にが趣味なの?」
私は喉を鳴らし、掠れた声で住人たちを制した。
「この男は、心臓の代わりに鋼鉄を詰めて生まれてきた欠陥品よ。あんたたちの温かい血を通わせる隙間なんてないわ。……さっさと網でも繕ってなさい。私は、少し高いところへ行って、この男が地獄に落ちるまでを見届けてくるだけだから」
「アンジュ……」
彼らが絶句する中、エドモンは私を引きずり、黒塗りの馬車へと放り込んだ。
鉄格子のついた窓。内張りは厚く、防音性に優れている。それは貴族の乗り物というより、生きたまま魂を運ぶための「棺」だった。
馬車が動き出す。
石畳を叩く車輪の音が、私の平穏な四年間を轢き潰していく。
向かいの座席には、エドモンが彫像のように座っていた。
彼は剣を膝に置き、ただ一点、私の喉元に残った自分の指跡を見つめている。
「……趣味が悪いわね。自分のつけた傷を鑑賞して悦に浸るタイプだった?」
私は、乱れた蜂蜜色の髪を指で梳き、椅子の背にもたれかかった。
首はまだ熱く、拍動に合わせて痛みが走る。
「治癒の力を使え」
エドモンが、感情の欠落した声で言った。
「貴女の『奇跡』なら、その程度の内出血は瞬時に消せるはずだ。聖女アンジェリカの象徴である純白の肌を、汚したまま聖都へ入れるわけにはいかない」
「お断りよ。これは、あんたという男の品性を証明する唯一の勲章だもの。一生消さずに、聖都の連中に見せびらかしてやりたいくらいだわ」
「……」
「それに、勘違いしないで。私の力は、神様からの配給制なの。あいにく、あんたみたいな無礼な男に触られた傷を治すために使うような、安い在庫は切らしているのよ」
エドモンは、わずかに眉を寄せた。
「貴女は変わったな。四年前、聖堂で見た貴女は、足の不自由な浮浪児のために、自らの生命力を削ってまで祈りを捧げていたはずだ」
「あら、そんな昔の自分、死体と一緒にメルセールの海に捨ててきたわ」
私は口角を上げ、エドモンに向けて身を乗り出した。
至近距離。潮の香りと、彼の鎧から漂う冷たい鉄の匂いが混ざり合う。
「エドモン。あんたが運んでいるのは、中身の腐り落ちた『聖女の抜け殻』よ。無理やり祭壇に戻して祈らせても、出てくるのは祝福じゃなくて、あんたの家系を三代先まで呪い殺す毒言だけ。……それでも、聖都へ連れて行く?」
エドモンは逃げなかった。
彼はその鋼の瞳で私を真っ向から射抜き、私の顎を強く指で掬い上げた。
「毒だろうと、呪いだろうと構わん。貴女がそこに『存在』し、奇跡という名の現象を起こしさえすれば、民は縋り、王権は維持される」
「……救いがないわね」
「世界に救いなどない。あるのは、役割だけだ」
彼はそう言い捨てると、窓の外へ視線を転じた。
馬車は、メルセールの豊かな緑を抜け、灰色の荒野へと差し掛かろうとしている。
「これからの道中、食事は一日一回。排泄以外で外に出ることは許さん。……逃げようとすれば、今度はその『綺麗な足』に鉄釘を打ち込むことになる。覚えておけ」
「ええ、忘れないわ。あんたの葬儀に贈る花束のリストに、しっかり書き加えておくから」
私は窓の隙間から見える、遠ざかる海を見つめた。
踊り子の靴は脱ぎ捨てられ、手元に残ったのは、首の痛みと、この冷酷な騎士への尽きることのない殺意だけだった。




