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安息の死角

一歩、進むごとにエドモンの視界は爆ぜるように揺れた。

脇腹の傷が脈打つたび、命の熱が指先から逃げていくのが分かった。

それでも腕の中にあるアンジェリカの重みだけが、彼の意識をこの世に繋ぎ止める唯一のくさびとなっていた。彼女を失えば、自分を支える「不忠」という名の義理さえも霧散してしまう。

「……あ、あ……」

アンジェリカが、夢の中で苦しげに声を漏らす。

魔力枷の抑制を緩めたことで呼吸は幾分か楽になったようだが、代わりに彼女から漏れ出す波動は、夜空に放たれた篝火かがりびのように追っ手たちへ居場所を知らせ続けている。

今、この瞬間も、別の猟犬たちが血の跡を辿っているはずだった。

霧の向こうに、小さな灯火が見えた。

家畜の排泄物と、湿った薪を焼く匂い。地図にも載らない、貧しい開拓村だ。

「……誰だ、こんな夜更けに」

村の入り口。

錆びたくわを手にした一人の老人が、震える手で松明を掲げて立ち塞がった。

その瞳には、外の世界からやってきた異邦人に対する、剥き出しの警戒と恐怖が宿っている。深夜に血塗れの男が女を抱えて現れれば、それが「厄災」以外の何物でもないことは、教育を受けていない村人でも本能で察する。

「……行き倒れだ」

エドモンは、掠れた声で答えた。

かつて王宮の門前で、どんな大貴族に対しても臆さなかった鋼の声が、今はただの敗残者のように弱々しく震えている。

「連れの女が酷い熱だ。……宿を貸してくれ。金なら、これがある」

エドモンは、腰の小袋から騎士団の紋章が入った銀貨を数枚、泥と血にまみれた手で差し出した。

老人の目が、銀貨の鈍い輝きに一瞬だけ眩んだ。彼はエドモンと、その腕の中で死人のように青ざめているアンジェリカを交互に見やり、やがて重い溜息をついた。

「……納屋なら空いている。だが、騒ぎは御免だぞ。あんた、その傷……ただ事じゃないな」

「……分かっている。夜が明けるまででいい」

エドモンは老人の案内に従い、湿った藁の匂いが立ち込める小さな納屋へと滑り込んだ。

彼はアンジェリカを、少しでも清潔な藁の上に、壊れ物を扱うように横たえる。

自分のシャツを裂き、彼女の額に浮いた脂汗を拭おうとして、彼は自らの手が真っ赤に染まっていることに気づき、咄嗟に手を引いた。

(……汚れた手で、触れるな)

かつての彼が、彼女を「装置」として、あるいは「触媒」として見ていた頃、彼女の尊厳など一顧だにしなかった。

だが今、ボロ布を纏い、黄金の髪を切り、泥にまみれた彼女の寝顔を見ていると、自分が「正義」の名の下に犯してきた罪の重さが、斬られた脇腹よりも鋭く胸を抉った。

エドモンは、納屋の片隅で見つけた汚れた水桶から水を汲み、彼女の唇を湿らせた。

「……ん……っ、エド、モン……」

彼女の唇が、うわ言のように彼の名をなぞる。

それは呪詛でも皮肉でもない、ただの弱々しい縋りの声だった。

エドモンは、自分の血が彼女の頬に付かないよう細心の注意を払いながら、その細い手を握り締めた。

「……ああ。ここにいる。……アンジェリカ」

彼女を祭壇へ連行するために鍛え上げたこの掌で、今は彼女の体温を懸命に守ろうとしていた。

外では、雨が再び降り始めている。

村の静寂は、死を待つ間際の安息に似ていた。

エドモンは納屋の扉を背にして座り込み、闇の中へ剣を構えた。自分の傷の手当など、二の次だった。

(あと一日。……あと一日、彼女が目を覚ますまで、私の命が保てばいい)

意識が遠のく中、彼は自分が騎士であったことも、不忠の臣であることも忘れ、ただ、腕の中の温もりだけを信じて、朝を待った。

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