不完全な救済
納屋の隙間から差し込む朝の光が、埃の舞う空気の中で白く濁っている。
私は重い瞼をゆっくりと押し上げた。視界に飛び込んできたのは、見覚えのない低い天井と、鼻を突く湿った藁の匂い。
「……はぁ、……っ」
体内の魔力の逆流は収まっていたけれど、代わりに全身を泥のような倦怠感が支配している。
私は震える手で、自分のうなじに触れた。短く切り揃えられた髪の感触が、私たちがもはや「聖域」の人間ではないことを冷酷に思い出させる。
「……起きたか」
納屋の扉に背を預けたまま、低い声が響いた。
視線を向けると、そこには血と泥で塗りつぶされた男が座り込んでいた。エドモンの顔色は紙のように白く、膝の上に置かれた剣の柄は、固まった鮮血でどす黒く汚れている。
「……ひどい顔。死体と見間違えるところだったわ、エドモン」
毒を吐こうとしたけれど、自分の声が驚くほど掠れていた。私は這い出すようにして彼に近づき、その惨状を間近に見て息を呑んだ。
シャツの脇腹から肩にかけて、幾筋もの深い斬撃が刻まれている。布地は血を吸って重く張り付き、今もなお、新たな赤がじわりと滲み出していた。
「あんた、バカじゃないの……。あの人数を、たった一人で? 私を置いて逃げれば、こんな無様な姿にならずに済んだのに」
「……職務だと言ったはずだ。貴女を、生かして運ぶのが……」
「嘘おっしゃい。そんな死に損ないの顔で。……ほら、見せなさいよ」
私は忌々しげに顔を歪め、彼の傷口に手を伸ばした。
手首の枷が、私の動きに合わせてチャラリと冷たい音を立てる。
……今の私に、何ができる?
この男を「装置」の一部として守るためではなく、私を抱きしめたその「体温」を消さないために。
私は、彼が私のために緩めた、あの「沈黙の銀」の隙間に指を這わせた。
あふれ出す魔力を、無理やり手のひらに集める。大嫌いだった、私から自由を奪ったこの「力」を、今はじめて自分の意志で、目の前の不器用な男の傷口へと流し込んだ。
手のひらが黄金色に微かに発光し、エドモンの肉が、焼けるような熱とともに塞がり始める。
けれど、枷のせいで十分な力は出せない。致命的な出血は止まったものの、深い傷跡は残り、エドモンの呼吸も依然として荒いままだ。
「……はぁ、はぁ……っ。これが、限界。……せいぜい、感謝なさいな」
私が力尽きて腕を下げた、その時だった。
納屋の扉が小さく開き、昨夜の老人が一人の少女を連れて現れた。少女は老人の服の裾を握りしめ、怯えた瞳で私たちを見つめている。
「……昨夜の恩だ、これを食え。……それと、あんたたちの仲間かどうかは知らんが、今朝から村の周りを嗅ぎ回っている連中がいるぞ」
老人は硬いパンの切れ端を置いた。けれど、その視線はエドモンの傷ではなく、私の手首に光る「沈黙の銀」に釘付けになっていた。
「じいじ、お姉ちゃん……光ってる」
少女が指差したのは、私の手首だった。
治療の余波か、枷を緩めたことで漏れ出している魔力の波動が、無意識に周囲の生命力を活性化させていたのだ。納屋の隅に置かれていた、枯れかかった家畜用の干し草が、私の周囲だけ青々と芽吹いている。
「……っ、しまった」
私は慌てて枷を隠したけれど、遅かった。
老人の瞳に、警戒心とは別の、どろりとした「欲」が混じるのを私は見逃さなかった。この村は貧しい。不作と重税に喘ぐ彼らにとって、枯れ木に花を咲かせるような「力」を持つ女は、神の救済ではなく、文字通りの「金塊」に見えたに違いない。
「……あんた、まさか、聖女様……なのか?」
老人の声が震える。
エドモンは反射的に剣の柄を握り直そうとしたけれど、あまりの衰弱に腕が震え、鋭い金属音が空しく響いた。
「違うわよ、おじいさん。私はただの、呪われた逃亡者。……近寄ると、あんたたちも不幸になるわよ」
私は冷たく言い放ち、少女を遠ざけるように睨みつけた。
けれど、一度芽生えた強欲は、雨後の泥のように村人たちの間に広がっていくのが分かった。
老人が納屋を出ていく際の、せかせかとした急ぎ足。
それが、新たな追っ手を呼ぶ合図であることを、私は確信していた。
「……エドモン。すぐにここを出るわよ。あんたを、こんな掃き溜めで死なせたくないわ」
私は切り揃えた髪を乱暴にかき上げ、傷だらけの騎士の肩を逆に支えて立ち上がった。




