孤高の盾
魔力の奔流が収まった後には、耳が痛くなるほどの静寂と、雷に打たれたような焦げた大気の匂いだけが残っていた。
エドモン・ド・ヴァランタンは、腕の中でぐったりと項垂れるアンジェリカの体を、その逞しい両腕でしっかりと抱き止めていた。
先ほどまで彼女から放たれていた異常な熱は、今は嘘のように消え去っている。代わりにその肌は、夜露を浴びた石のように冷え切っていた。
「……アンジェリカ。すまないが、もうしばらく冷たい地面に耐えてくれ」
エドモンは低く呟き、彼女の体を最も深く、最も暗い岩の隙間へと慎重に滑り込ませた。
自らの、泥にまみれた麻のシャツを脱ぎ捨てて彼女にかけ、その上からさらに折れた枝や枯れ葉を無造作に被せる。聖女の魔力の残滓が、まだ彼女の肌から微かに立ち昇っている。追撃者――王国の「猟犬」たちの鼻を誤魔化すには、あと数分、時間が足りない。
カサリ、と森の奥で乾いた音が響いた。
エドモンはゆっくりと立ち上がり、一振りの長剣を抜き放った。
月光を反射するその刃には、もはや王国の紋章も、近衛騎士団の誇りも刻まれていない。ただ、一人の女を生かすためだけの、無機質な鉄の塊がそこにあるだけだった。
「……いたぞ! 北西の谷間に魔力の反応だ!」
「エドモン・ド・ヴァランタン、覚悟しろ! 貴様の不忠、その首で贖ってもらうぞ!」
樹々の隙間から、松明の火が血のような赤色を覗かせた。
現れたのは十名。かつてエドモンが訓練をつけ、共に肩を並べて王宮の門を守った精鋭の部下たちだ。
「エドモン卿! なぜだ! なぜ貴方のような高潔な御方が、その毒婦のために国を売る!」
先頭に立つ若き騎士、アルベールの悲痛な叫び。
だが、その言葉はもはやエドモンの心には届かなかった。彼が信じていた「正義」という名の幻影は、あの地下室で、彼女の蜂蜜色の髪が泥に落ちた瞬間に死に絶えたのだ。
「……私はもう、卿と呼ばれる男ではない。ただの、一人の女の番人だ」
「狂ったか! 全員、突撃! 叛逆者を討ち取り、聖女を奪還せよ!」
騎士たちが一斉に襲いかかる。
銀色の甲冑がぶつかり合い、夜の静寂を切り裂く暴力的な金属音が響く。
鎧を脱ぎ捨てたエドモンの体は、かつてないほど軽かった。だが同時に、一撃でも受ければ致命傷になりかねない生身の恐怖が、鋭い針となって彼の肌を刺す。
エドモンは最短の動きでアルベールの突進をいなし、その死角から剣を突き立てた。
肉を断ち、骨を砕く鈍い感触。
かつての仲間の悲鳴が鼓膜を打つが、彼の思考は冷徹なまでに冴え渡っていた。
(あと一歩も、ここから先へは通さない)
一人が、アンジェリカの隠れている岩場に気づき、剣を振り上げた。
エドモンの視界が、怒りで一瞬だけ白く染まる。
回避を捨て、彼はその男の懐に直接飛び込んだ。脇腹に冷たい剣先が食い込むのを感じたが、構わずその喉元を斬り裂く。
「ぐっ……、あ……」
熱い鮮血が、エドモンの顔を汚した。
肩から、脇腹から、自らの血が溢れ出し、冷たい夜の土を濡らしていくのが分かった。意識が遠のきそうになるたびに、背後の闇に眠る彼女の、微かな吐息を思い出す。その存在が、彼の四肢に無理やり力を引き戻した。
「……させん。ここから先は、死者の道だ。私が、貴様らを地獄へ送る」
血を吐きながら、エドモンは低く笑った。
それはかつての「王の猟犬」が見せていた冷徹な仮面ではない。
絶望の底で、初めて自分の意志で「守るべきもの」を選び取った男の、狂気にも似た歓喜だった。
最後の一人が崩れ落ちた時、エドモンは剣を杖代わりに、その場に膝をついた。
白かったはずのシャツは、返り血と自らの血が混じり合い、赤黒い塊となって肌に張り付いている。
肺が灼けるように熱い。それでも、彼は震える足で立ち上がり、岩陰へと歩み寄った。
「……アンジェリカ。安心しろ。……一匹も、通してはいない」
泥と血に塗れた手で彼女を抱き出したその瞬間、エドモンは自分の中に残っていた「騎士」としての何かが、完全に消滅したのを感じた。
代わりに残ったのは、腕の中に残るこの確かな重みだけ。
彼は血に塗れた顔を歪ませ、静かに、一歩一歩、深い霧の中へと消えていった。




