偶像の葬列
洞窟の入り口から差し込む朝光は、希望を運ぶにはあまりに濁り、冷え切っていた。
昨夜の猛烈な雨は上がったものの、森の木々はたっぷりと水分を含んだ重たい沈黙を保ち、時折、大きな雫が岩肌を叩く音だけが空ろに響く。
私は冷たい石壁に背を預けたまま、エドモンが手際よく馬の脚を検分し、残りのわずかな糧食を袋に詰める姿を眺めていた。彼の動作には一切の無駄がない。だが、その背中には、昨夜浴びた返り血が乾き、黒い染みとなってこびりついている。
「……ねえ、エドモン。そのまま行くつもり?」
私はわざと冷めた声を出し、彼の胸元に鈍く輝く白銀の胸当てを指差した。
聖都の職人が精魂込めて鍛え上げたそれは、たとえ泥を被っても、一目で王国最強の近衛騎士団の証だと分かる気高さを放っている。
「この先には、聖都の息がかかった関所がいくつもあるわ。そんな仰々しい『缶詰』を着たままじゃ、一刻も持たずに包囲されておしまいよ。それとも、その鎧は私の命より重いのかしら?」
エドモンは動きを止め、自分の胸元に拳を当てた。
そこには彼が人生のすべてを捧げ、守り抜いてきた誇りと忠誠が刻まれている。一瞬、彼が躊躇ったように見えた。だが、彼は迷うことなく小手の金具を外し、床に放り投げた。
「……得策ではないな。騎士であることを捨てた以上、これはただの重荷だ。命を繋げぬ名誉など、今の私には不要だ」
重厚な金属音が洞窟に反響する。
彼は一つ、また一つと、自らを縛っていた名誉の象徴を剥ぎ取っていった。
鎧の下に隠されていたのは、幾多の死線を潜り抜けてきた男の、生々しい肉体。鎖帷子越しにも分かる、鋼のように引き締まった肩と、無数に刻まれた古い傷跡。
私は彼が鎧を脱ぐたびに、一人の「男」が剥き出しになっていくような感覚に襲われ、喉の奥が乾くのを感じて咄嗟に視線を逸らした。
「……ふん。中身は案外、傷だらけなのね。もっと綺麗な灰でも詰まっているのかと思ったわ」
「貴女に言われたくはない。……アンジェリカ、貴女もだ。そのドレスを脱げ」
エドモンは、私の足元に膝をついた。
彼はどこから調達したのか、薄汚れた粗末な麻の服を差し出した。逃亡中の農夫の娘が着るような、ザラついた布地だ。
「聖女の正装は、闇の中では白すぎて目立つ。それを着ていろ」
「……わかっているわよ。でも、脱がせてくれるわけじゃないんでしょ? 手首がこれ(枷)じゃ、一人で着替えるのも一苦労なんだから。……それとも、騎士様が着替えの手伝いでもしてくれる?」
私は枷をチャラつかせ、彼を挑発するように見上げた。エドモンは一瞬、眉を寄せたが、何も言わずに私を背負うようにして背を向けた。
私はボロボロになった聖女のドレスを、皮膚を剥ぐような思いで脱ぎ捨てた。繊細な絹の感触よりも、このザラついた麻の布地の方が、今の私の「汚れきった心」にはしっくりきた。
だが、最大の問題はまだ残っていた。
私の視界に、蜂蜜色の長い髪が入り込む。
「……エドモン。短剣を抜きなさい」
エドモンがゆっくりと振り返る。
私の髪は、民衆が「救いの光」として崇め、枢機卿が「奇跡の触媒」として執着した、聖女アンジェリカを象徴する最大の目印だ。
「……。いいのか。それは、貴女の……」
「いいわけないでしょ。手入れにどれだけ苦労したと思ってるの? ……でも、この髪を引きずって歩くのは、自分から『私はここにいます』って触れ回っているようなものだわ。……さあ、あんたのその鋭い剣で、私の過去ごと断ち切りなさいよ。それがあんたの、新しい『任務』よ」
私は彼に背を向け、うなじを晒した。
冷たい短剣の刃が、首筋に触れる。エドモンは一度だけ深く息を吐くと、迷いなく刃を滑らせた。
耳元で、髪が断ち切られる「ジョリり」という鈍い音が響く。
一房、また一房。黄金の残骸が、泥まみれの地面に音もなく落ち、濡れた土にまみれていく。
「……終わったぞ」
短く切り揃えられた髪。首筋に触れる空気は、驚くほど軽くて冷たかった。
私は足元の「黄金の死体」を見つめ、それから彼に向かって、最高に不敵な、そして惨めな笑みを浮かべてみせた。
「……あは。最高。これでやっと、私もあんたと同じ、薄汚れた野良犬ね。聖女様なんて、どこにもいないわ」
エドモンは、私の顔に付いた泥を、大きな親指で無造作に、けれど拭い去るように撫でた。彼の指先は硬く、節くれ立っていたが、その感触には昨夜の雨の中で感じたものと同じ、不器用な熱が宿っていた。
「……犬ではない。……ただの、アンジェリカだ」
「……。うるさいわよ。さっさと行くわよ、不忠の騎士様」
私たちは、かつての自分たちの死骸――白銀の鎧と黄金の髪――を洞窟の奥深くへ、祈りとともに捨て去った。
偶像であることをやめた二人の背中に、容赦のない朝日が、ただ等しく降り注いでいた。




