残された椀
翌朝、飼料の袋を下ろすと、リゼは口を開いて中を見た。
「オットー、これで足りる?」
呼ばれた彼は草の匂いを確かめ、指で束をほぐした。粗い茎を数本取り除き、売り手の男へ何か尋ねる。頬の落ちた男は、袖へ手を拭きながら倉の方を指した。
「細かいのは残りが少ない。船が遅れてるんだ。検査が増えたらしい」
レインは次の袋を抱えたまま待った。朝の市場にはほかの車も止まり、値段を聞き返す声があちこちで上がっていた。
リゼは買う量を変えず、別の支出の欄へ目を落とした。安い草へ替えれば馬が同じように歩くとは限らず、ここで日数が増えれば宿代も増える。
「前金の残りは、これだけになる」
彼女は紙の端をレインへ見せた。
「まだ足りるか」
「予定どおりなら。でも、予定が変わっても食べないわけにはいかないでしょう」
レインは袋を持ち直し、荷台の奥へ積んだ。金額の並びを見ているより、重さの方が分かった。団が帰ってから払う宿代も、誰かの家へ送る金も、いまはこの袋と同じ前金から出ている。
市場の端では、ニナが薬包を開いていた。荷夫の手を診るのに使った分を補い、汚れた布と新しい布を分けている。レインが水の樽を寄せると、彼女は礼を言い、指で残りを示した。
「帰りにも使います。詰める場所を分けてもらえますか」
レインは濡れない場所へ箱を置き、荷の下へ埋まらないよう向きを変えた。人が倒れてから開ける荷なら、その前の積み方が要る。後車を離れる時、今度は近くの団員へ声を掛けた。
午前のうちに書類の不足も確かめることになり、彼はリゼの荷札整理を手伝った。手の使えない荷夫は隣で袋の印を読み、積んだ数を教えていた。
「この焼き印、昔もよく見た」
男は指の使える方の手で荷札を押さえた。
「公国にいた頃は、似た印の袋が川沿いの倉へ来た。途中から全部、軍の方へ持っていかれたが」
レインは紐を結ぶ手を止めた。
「どこの倉だ」
荷夫は旧公国の川沿いにあった村の名を挙げた。レインの家からは離れていたが、市場へ荷が届いていたことは覚えている。
「俺は運ぶだけだった。何番だったか、部隊の記号も袋へ書かされた。終われば返すと言われたんだがね」
男は笑いかけてやめた。壊れた工房と戻らなかった代金の話へ続きそうになったところで、ヴァイスが卓の向こうへ来た。
「今度の書類に、何か不足がありましたか」
リゼが確認中だと答えると、男は荷夫へ目を向けた。
「こちらの方のお名前は、同行の控えにもありましたね」
姓を確かめられ、荷夫は頷いた。ヴァイスは覚えておくと言い、薬代のことなら後でまとめてよいと付け加えた。
誰も、いま薬代の話をしていなかった。
レインは男の顔を見た。ヴァイスはリゼへ別の紙を差し出し、通行の際に役立つはずだと説明した。その声は昨夜と変わらなかったが、話す前に周囲の席へ目を向けたのを、レインは見ていた。
紹介状には軍の印があった。リゼは差出人と、誰を保証する文書かを確かめ、荷の控えと別の束へ入れた。
「ここの名前と日付を、こちらにも写してくれる?」
頼まれて紙を引き寄せると、末尾にハーゲンという名があった。兵站を扱う者の肩書と、ヴァイスを以前の部下として扱う文面が続いている。
「この人は、いまも軍にいるのか」
「そう書いてあるわ。だから、どこでも通れるという意味ではないけれど」
リゼは印のある場所を示した。
「身元を保証しているだけ。荷を検査しないとか、人の行き先を変えていいとか、そこまでは書いてない」
レインは文字を写した。ゆっくり書かなければ、別の名に見える字になりそうだった。ここに名前があることと、あの町で何をしたかは別だと分かっている。それでも、その名を覚えずに紙を返すことはできなかった。
昼を過ぎると、車列は市場を離れた。空が曇り、オットーは次の水場まで馬を急がせないよう御者へ頼んだ。レインは荷夫の座る場所へ布を敷き、揺れた時に肘が当たらないよう荷を寄せた。
男はさっきの話を続けなかった。代わりに、初めて運んだ荷を川へ落としかけた失敗を話し、そばの職人が笑った。レインも声を聞いていたが、軍の印と、周囲を見たヴァイスの目が、ときどきその間へ戻ってきた。
夕食の支度をする頃、先に見張りへ出た団員が、今日は遅く戻ると告げた。道の分かれ目に車が止まっており、行き先を確かめるという。
レインは食事を分ける手を止め、鍋の底へ肉と豆を少し寄せた。匙が鍋を擦る音を聞くと、かつて台所で同じ音がしていたことを思い出した。
母のエナは、家計が苦しい日ほどよく喋った。暗い茶の髪を後ろで結び、青い織り紐で袖を留めていた。洗濯仕事で荒れた手を前掛けへ拭き、薪を使いすぎるな、靴を濡らしたまま入るなと、戸を開けた子供たちへ続けて言った。
「父さんに、代金はきちんと貰えと言っておいて」
「自分で言えばいいだろ」
子供のレインが答えると、母は鍋から顔を上げた。
「言ってるでしょう。それでも待ってやるから、あんたからも言うの」
温かな茶色の目は怒っているように見えたが、その手は彼の椀へ具を足していた。レインは返事を面倒に思い、口いっぱいにパンを詰めて話を終わらせようとした。
夜、兄のエリオが遅れて帰ると、母は空だったはずの鍋から具を掬った。背の伸びた兄は、栗色の髪へ戸の上の埃をつけ、頭を擦りながら椀を受け取っていた。
自分の分はないのかと聞かれ、母は先に食べたと答えた。食卓に残っていた母の器には、汁しか入っていなかった。レインはそれを見たが、何を言えばいいか分からず、食べ終えた自分の椀を重ねた。
翌朝、いつものように小言を言われると、そのことも忘れたふりをした。忘れていなかったのだと分かったのは、ずっと後になってからだった。
「これ、もう分けていいか」
ヴィーラに声を掛けられ、レインは匙を鍋から上げた。見張りへ行った者の名前を伝え、その分は残しておくよう頼んだ。
リゼが隣へ座り、昼に買い足した物を帳面へ移した。指先のインクを気にせず紙を押さえ、数字の合わない所へ小さな印をつける。
「荷夫の薬代は、荷主の個人負担だったな」
レインが確かめると、彼女は別の紙を開いた。
「ええ。商会の基本料と混ぜないようにしてある。本人へ確認してから受け取るわ」
書かれた名の脇に、軍紹介状とは違う印があった。レインはそれを見て、ヴァイスが指輪をつけた手で現金箱を確かめていたのを思い出した。
リゼは紙を閉じ、明日の朝に必要な支払いだけを小袋へ移した。レインが残りの荷札を集めると、彼女は濡れた端を先に乾かすよう頼んだ。傷んで読めなくなれば、後で同じ品を運んだ証明が難しくなるという。
彼は火から離れた板へ紙を並べ、風で飛ばないよう匙を重しにした。自分の覚えた名前なら、紙がなくても失わない。だが、団の仕事には、覚えていると言うだけでは済まないものが多かった。乾きかけた紙へ手を伸ばしかけ、まだ湿っていると気づいて引っ込めた。
食事を終え、交代の見張りへ向かう途中、レインは宿の外壁に沿って歩いた。裏の門には灰色の上着を着た細身の男が立ち、短く刈った顎髭を指で擦っていた。
ヴァイスが戸口へ出て、封をした紙を渡した。
「返事は、明日でも受け取れるようにしてほしい」
男は頷き、紙を上着の内側へ入れた。荷を受け渡す担当として、昼に挨拶へ来ていた者だった。
レインは歩みを変えず、馬のいる方へ向かった。封書の中は見えていない。商会の正式な指示かどうかも、まだ分からない。それでも、ヴァイスがリゼのいない場所を選んだことは見えた。
道の分かれ目から団員が戻り、遅い食事があるかと尋ねた。
「鍋に残してある」
レインは答え、相手が宿へ入るのを見送った。灯のある窓の下で、さっきの男が道を曲がった。彼はその後ろ姿を覚え、巡回の道へ足を向けた。




