川に描いた海
翌日の昼、車列は浅い流れのそばで休んだ。
オットーが馬を水へ近づける間、レインは荷台から降りる者へ手を貸した。指を傷めた荷夫は足から先に降り、残る手で車の縁を掴んだ。昨日より腫れた指をニナが確かめ、今日も荷を持たないよう言った。
空いた場所へ板を置くと、赤茶の髪の女の子が、その上で紙を広げた。短い木炭を指で挟み、流れに沿って線を引いている。
「何を書いてる」
レインが尋ねると、彼女は顔を上げずに紙の端を押さえた。
「川。こっちは、船に乗った所」
線の脇には、小さな箱のようなものが並んでいた。何かと聞く前に、女の子が人の顔を描き足したので、荷車だと分かった。
「この先も描くのか」
「行ってから決める。ここまでしか、まだ知らないから」
レインは少し黙って紙を見た。女の子は構わず線を伸ばし、端へ来ると木炭を止めた。
「もっと大きい紙なら、海まで描けるかな」
川の音が近づいた。レインの目にある紙の向こうで、別の小さな手が、紙の隅を押さえていた。
ミラはよく、父の作業場から紙の切れ端を拾ってきた。栗色の髪は耳の後ろで跳ね、頬には木炭がついていた。灰榛色の目を細め、染料で指を汚したまま、レインへ紙を差し出す。
その日も、座っていたのはレインの椅子だった。降りろと言うと、いま色を塗っているから動かせないと答えた。彼が背を押す真似をすると、紙を胸へ抱いて足を踏ん張り、余った紙ならあげるからと言い出した。
もともと、その紙を運んだのはレインだった。そう言うと、妹は端を少しだけ破り、彼の掌へ載せた。小さすぎて何も書けないと返したら、名前くらいは書けると真顔で答えた。
「海って、これ?」
故郷ハルネの家の土間で、レインは描かれた線を覗いた。市場へ来た船乗りから、川の先には岸の見えない水があると聞いたらしい。
「見たことない」
「兄さんなのに」
「兄さんでも、見てないものは知らない」
8歳の妹は口を尖らせた。紙を引き戻し、余った染料を少し水で延ばして、木炭の外側へ塗った。色が線を越えると、今度はそれを指で広げてしまった。
「エリオ兄さんなら知ってるかも」
「同じ家に住んでるだろ」
「レイン兄さんより、遠くへ行く」
言い返そうとすると、妹は紙を高く持ち上げた。そうしなければ、まだ濡れている色へ触られると思ったのだろう。
「じゃあ、見たら教えて。違ってたら直すから」
彼は面倒になって頷いた。ミラはそれで納得し、今度は地面へ膝をついて、紙のない所まで線を伸ばそうとした。
土間に残った色を誰が拭いたかは、もう覚えていなかった。絵の隅にどんな形を描いていたかも、思い出そうとすると曖昧になる。それなのに、その後で聞いた泣き声だけは薄くならなかった。
「ここ、持って」
袖を引かれ、レインは顔を下げた。いま目の前にいる子は木炭を置き、風でめくれる紙を押さえていた。
彼が端へ指を置くと、彼女は小石を探し、紙の角へ載せた。
「もういいよ」
指を退けた後にも、紙には彼の影が残っていた。女の子はその下で、川の線を少し曲げて描き足した。
「海を見たいのか」
尋ねてから、返事を待つ間が長く感じられた。
「大きい船を見たい。家が乗るくらいの」
彼女は両腕を広げ、すぐに紙が飛びそうになって押さえ直した。レインは近くの石をもう少し寄せ、折れないよう角へ置いた。
紙は娘のものだった。見知らぬ岸へ着いてから、まだ何かを描き足せる。そのことを確かめるように見ていると、母親が食事を持ってきた。
「先に食べな。指も洗って」
女の子は文句を言いかけたが、母親に木炭を受け取られ、流れへ手を出した。レインは紙を折らずに板ごと持ち上げ、荷台の乾いた場所へ移した。
その傍らで、ヴァイスが御者へ道を尋ねていた。日暮れまでに着く宿と、荷を雨から守れる場所を確かめている。
「子供の食事は取れますか。道中で熱を出されると、親も休めないでしょう」
御者は、粥を頼めるはずだと答えた。ヴァイスはそれならよかったと頷き、レインの持った板へ目を向けた。
「絵を描いたんですか」
「あの子が」
「旅の間にも、覚えることがあるんですね」
男が紙へ触れる前に、レインは荷台の内側へ置いた。ヴァイスは気づかなかったように、御者との話へ戻った。
レインは車の縄を引いた。普通に暮らす人の声だった。名前を呼ばれて振り向き、休みを確かめ、家族へ手紙を書く。そうしたものを、あの男だけが持っていていい理由はなかった。
足元で草が揺れ、彼は指の力を抜いた。縄を切りそうなほど握っていたわけではない。それでも、ほどく必要もない結び目へ、長く手を置きすぎていた。
出発の声が掛かると、女の子は自分の紙を抱えた。母親が折り目のつかない所へ入れ、職人の夫が箱の隙間を空けた。
レインはその家族を荷台へ乗せ、後ろへ下がった。車が動き始めた時、板の端が滑り、彼は手を伸ばして受け止めた。荷台の子は紙を落とさず、母親と話し続けていた。レインは板を置き直し、彼女の足が挟まれないことを確かめてから手を離した。
夕方の宿では、ヴィーラと外の見張りを交代した。彼女はレインの横へ腰を下ろし、剣の柄を肘で押さえながら顔を覗いた。
「眠れてるか」
「少しは」
「少しってのは、寝てるうちには入るのか」
レインは返事をせず、宿の窓を見た。灯の下でリゼが紙を並べ、ニナが荷夫の指へ布を巻き直している。背後を横切ったヴァイスが、机の端を少し空けてもらい、筆を出した。
「あの荷主、前から知ってたか」
ヴィーラの声に、レインは視線を戻した。
「なぜ」
「合流してから、肩が上がってる」
彼は肩を動かした。そう言われなければ、固くなっていたことにも気づかなかった。彼女の目は、まだ何かを聞くように向いていた。
「見張りが増えただけだ」
「昼の番と夜の番は分けてる。勝手に増やすなよ」
ヴィーラはそれ以上尋ねず、脚を伸ばした。膝へ剣を載せ、鞘の留めを直し始める。その静けさが、説明を求められるよりも気になった。
留めの革が細く裂けていた。レインは自分の道具袋から予備の革紐を出し、隣へ置いた。彼女は古い紐を引き抜いて並べ、長さを比べた。
「お前の分は残るか」
「もう少しある」
「なら、借りる」
彼女が片手で押さえる所を、レインは剣先へ触れない位置から支えた。新しい紐が通り、鞘がずれなくなるまで、2人とも窓の中を見なかった。ヴィーラは引いて強さを確かめ、彼の手が離れるのを待ってから膝へ戻した。
「さっきも、それくらい返事をすればいいんだよ」
レインは彼女を見たが、何を指しているか聞き返さなかった。ヴィーラは口元をわずかに曲げ、道を通る馬の方へ耳を向けた。
レインは手袋の下へ親指を入れ、輪の縁へ触れた。誰かの顔を浮かべても、それだけで呪いが動くわけではない。自分から理由を送り、承認を求める段階が残っている。
「指、痛めたのか」
ヴィーラに言われ、彼は手を下ろした。
「何でもない」
「なら、そろそろ中へ戻れ。食う時間まで見張りに使うな」
彼女が立ち上がったので、レインも腰を上げた。土で汚れた外套の裾を払ってから、窓際を通る。
ヴァイスは書いた文を読み返していた。行の途中へ何かを足し、書き直した文字を指で乾かす。レインが通るのに気づくと、紙から顔を上げた。
「今日、あの子の絵を守ってあげていましたね」
レインは足を止めた。ヴァイスは柔らかく目を細め、机の紙を伏せた。
「子供の頃のああいうものは、親の方が長く覚えていることもあります」
笑った顔を、レインは見た。
レインは返事の代わりに顎を引き、明かりの届く場所から離れた。あの場にもう少しでもいたら自分が何をするかわからなかった。廊下の先まで歩いてから、ようやく右手を開いた。そして小声で言った。
「なぜあんなことをしたやつが笑って家族の話をするんだ」
身体の震えが止まらなかった。




