あの日、あの場所にいた男
葦杭桟橋では、渡し船の綱が濡れた杭を擦って鳴っていた。
水際の作業台へ肘を掛けた男が、近づく荷車へ目を向けた。青黒い短髪と、よく働く者の厚い肩を持ち、水に強い上衣の下から灰緑の尾が川へ伸びている。サイムは尾鰭で水面を打ち、レインの抱えた荷を指した。
「それは先に降ろせ。人が乗ってから動かすなよ」
レインが箱を船の中央へ置くと、彼は綱を引き寄せ、板の傾きを確かめた。乗り口の片側が沈みかけていたので、レインも杭の縄を結び直した。
「そこは俺がやるつもりだった」
「緩んでた」
「見れば分かる」
サイムは黒褐色の目を細め、代金を受け取る手を出した。レインがリゼを振り返ると、彼は笑って手を引っ込めた。
「お前の財布がどこにあるか聞いたんじゃない。会計の人を呼べってことだ」
リゼが水際へ来て、車ごとの重さと料金を確かめた。サイムは人と荷の位置を変えさせ、馬を怯えさせないよう板へ布を敷いた。4台の車を順に渡す間、レインは対岸とこちらを行き来する綱を見ていた。
川の中央では岸が思うより遠ざかった。船縁へ寄りかけた女の子を、そばかすのある母親が袖で引き戻す。赤茶の髪を2つに結んだ子は、不満そうに膝を抱えたが、サイムが水中から尾を見せると口を開けた。
「魚なのに、服を着るの」
母親が慌てて頭を下げた。サイムは船の脇の台へ腕を掛け、女の子を見た。
「魚じゃないし、寒い日は寒いんだよ。お前も濡れたら分かるぞ」
女の子は自分の袖を見て、端を膝の下へ引き込んだ。レインは船縁に置かれたままの荷へ縄を回し、揺れた時も落ちないようにした。
対岸へ着くと、荷車が揃うまでに少し時間があった。セラへ声を掛けてから、レインはリゼと地図を見れる場所の地図館へ向かった。
石橋地図館の窓際には、開いた地図と乾かしている写しが並んでいた。作業用の眼鏡を掛けたエルフの女が、紙の端を重しで押さえている。焦げ茶の片編みの髪を肩へ回し、長い耳の先はわずかに外へ開いていた。
「東へ出るのね」
カヤは行き先を聞くと、琥珀色の目を細め、棚から細い筒を取った。
「公開の写しは買える。今朝までに届いた川の報告も書き込んであるわ。会員だけの調査記録は見せられないけれど」
レインは広げられた紙へ顔を寄せた。リード宿場から東へ伸びる道と、ルーゼ関門へ向かう線を指で追う。カヤは彼の指が止まる前に、川沿いの細い道へ別の紙を重ねた。
「ここは増水すると荷車を返しにくい。使うなら、入る前に現地を確かめて」
「こっちは通れるのか」
「最後の報告ではね。いまの道は、そこへ行った人が見るの」
リゼが日付を確かめ、料金を払った。レインが地図を巻こうとすると、カヤは重しをまだ外さなかった。
「帰る道も見た?」
彼は紙へ指を戻し、川を避けてベルカへ繋がる道を辿った。途中で細くなる場所へ印をつけてもらってから、ようやく筒を受け取った。
地図館を出ると、荷台の子供がこちらへ手を振っていた。女の子は船で見た尾の動きを両腕で真似し、母親に人へ当たると注意されている。レインは筒を車へ積み、傾きが出ないよう荷を押し直した。
ベルカの屋根が背後へ隠れると、道の両側へ刈り取りを待つ畑が広がった。歩く速さは馬の調子と車輪で決まり、剣を持つ者だけ先へ行くわけにはいかなかった。
昼の休みでオットーが馬の脚を見て、リゼが同行者の名前を確認した。薄い頬に顎髭を残した荷夫が、聞き取りにくい声で答える。隣では袖に染料の跡がある職人が家族の人数を告げ、女の子が自分の荷袋を抱え直した。
レインは名前を聞きながら顔を覚えた。誰が遅れ、誰が道の外へ出たか分からなければ、護衛の役には立たない。セラに何度も言われてきたことだった。
その日は道沿いの宿で車を止めた。染料の跡のある職人が、降ろした箱の下へ薄い板を挟んでいた。傾いたままだと中の瓶が当たると言うので、レインは反対側を持ち上げた。
「割れるものか」
「染めの試料です。向こうで色を見せなきゃ、口で言っても注文にならない」
男は箱を押して動かないことを確かめた。近くでは、妻が女の子の靴へ布を詰め、痛い所はないかと聞いている。
「ここには、もう仕事がないのか」
レインが尋ねると、職人は指についた染みを擦った。
「注文はある。ただ、代金が来る前に次の布を出せと言われる。軍へ回す分だから待てと。それを待っていたら、こっちの薪が尽きる」
彼は箱の角を撫で、留めの具合を見た。移住を喜んでいる顔には見えなかったが、箱の中の物を捨てるつもりもないらしい。
レインは持っていた板の切れ端を差し出した。
「道が悪ければ、もう少し挟める」
職人は礼を言い、箱の紐へ結んだ。女の子が靴を履いて立ち、その場で数歩歩く。母親は足元を見届けてから、自分の荷を背へ戻した。
レインは見張りを終えると寝台へ入り、隣の部屋の咳が静まるのを聞いていた。右手の指輪を外しかけたが、置き場所を変えると気になりそうで、そのまま手袋だけを脱いだ。
翌日の昼過ぎ、リード宿場の厩へ入った時には、靴の踵へまた薄い土が重なっていた。
荷車を並べる場所には、先に送りの小さな車が停まっていた。御者台に痩せた年配の男が座り、短く刈った白い髪へ帽子の跡がついている。その傍らで商人服の男が、布包みの紐を結び直していた。
「灰狼の方々ですね」
声が聞こえた瞬間、レインの足が止まった。
男は顔を上げた。整えた茶髪の生え際に白髪が混じり、薄茶の瞳の上には細い眉があった。口元は柔らかく結ばれ、こちらを見た時にはもう微笑んでいた。
あの男だった。
母の手首を靴で押さえていた顔が、目の前の顔と重なった。火の明かりで片側だけ照らされていた眉も、誰かの泣き声へ振り返った時の目も、忘れたことはなかった。
ヴァイスが布包みから手を離した。
レインの右手は、まだ剣の柄へ触れていない。触れれば抜ける。宿の入口までの短い距離に、邪魔する者はいなかった。
「お待たせしました」
バルドが歩み寄り、商人と印を確かめた。リゼが書類を開き、依頼を出した商会と同じ印があることを確認する。
男が名乗った。ヴァイスという音を、レインは口の内側で繰り返した。顔と声だけでは足りないはずだと、長く自分へ言い聞かせてきた。いまは、その最後の余地もなくなっていた。
「私の分は、この箱と布だけです。車へ積ませてもらえますか」
ヴァイスが小さな現金箱と布の包みを指した。レインは動かず、彼の指を見ていた。爪の間はきれいで、袖口にも汚れはなかった。
「レイン、そちらを持ってくれ」
バルドに呼ばれ、彼は自分の名を聞き直した。
手を伸ばすと、箱の取っ手は冷たかった。持ち上げるため指を曲げた瞬間、母を呼んでいた自分の声が、荷車の音へ混じった。
息を吸う。いま、そこには誰も倒れていない。女の子が母親の服を引き、厩の水桶を指している。レインは箱を荷台へ置き、角がずれないよう縄を通した。
「若いのに、しっかりしている」
ヴァイスの声が背中へ落ちた。
レインは縄を引いた。締めすぎて箱の縁が軋み、指を緩めてから結び直す。そばへ来たセラが、縄と彼の足元を見た。
荷を渡し終えた小車の御者は、受取の控えを貰うと、宿の裏から来た道へ戻っていった。
「そこは通路だ。荷を寄せろ」
頷き、レインは身体を動かした。右手の指輪へ言葉を送らなかった。まだ、誰にも何も説明していない。それだけは、はっきり分かっていた。
バルドが団員を紹介し、ヴァイスは順に目を向けた。レインへ来た時も、ほかの者と同じように軽く頭を下げただけだった。
「旅の間、頼りにしています」
レインは男の薄茶の目を見て、頷いた。腰の剣は、鞘の中へ収まったままだった。




