復讐の女神
水鐘堂の入口には、川の湿気を避けるための石段が続いていた。
レインは段の下で靴の泥を落とし、扉を押した。外の荷車の音が細くなり、代わりに水の落ちる音が聞こえた。奥の壁に据えられた浅い水盤へ、細い管から雫が落ちている。
受付の女祭司は灰色の髪を襟元で結び、白い上衣に青い細帯を締めていた。手首に年齢の皺があり、名簿を押さえる爪は短く切られている。
予約を告げ、拾得品の控えと箱を見せると、彼女は箱の蓋を開いた。
「古いものね。どこの堂の品かは、私には分からないわ」
細い刻みへ光を当てたが、読める名はないという。温かく感じたことを話すと、いまも続くかと尋ねられた。レインが触れて首を振ると、彼女は記録へ書き足し、申告先への返答が要るなら後で控えを出すと言った。
「ひとまず包んでおいて。授与の間は、荷を脇へ置けますから」
案内された席の前には、6つの灯が円を作っていた。剣、杖、差し出された掌、目、槌、穂を刻んだ台座があり、その中央に膝をつくための布が敷かれている。
レインは剣を腰から外し、鞄とともに手の届く脇へ置いた。武器なしで背を向けることに、身体がわずかに抵抗した。女祭司はそれを急かさず、彼が座るのを待った。
「名前と、18歳になった日を」
答えると、彼女は名簿の印を確かめた。
「目を閉じて、これからどんな働きをしたいか考えてください。授かった名や感覚が分かったら、後で聞かせてもらいます」
女祭司は灯の間を歩き、順に短い祈りを唱えた。その声を聞きながら、レインは膝の上へ手を置いた。
強くなりたいと考えるのは簡単だった。誰より強くなればいいのかを考えた時、昨日斬った男ではなく、別の顔が浮かびかけた。
掌が熱くなった。
目を開けると、鞄の脇に置いた箱の留めが外れていた。布へ触れた指先から、温かさが手首まで上がってくる。指輪を持ち上げた時、灯の向こうへ人影が立った。
黒い衣が幾重にも重なり、墨色の長い髪の端が暗い紅へ変わっていた。血色の薄い顔にある灰の瞳は金の縁を帯び、こちらへ向けられたまま動かなかった。
レインは立ちかけ、膝に力を戻した。女祭司は少し離れた台で記録を整えている。目の前の女へ視線を向ける様子はなかった。
「誰だ」
声に出そうとした言葉が、喉を通る前に届いたと分かった。
「ヴェルナ。あなたに渡す力を持ってきたの」
女の唇が動いた。声は近くにあるのに、女祭司の祈りも、水盤へ落ちる雫も、そのまま聞こえていた。
「神なのか」
「復讐を司っているわ」
6つの台座を見ようとすると、彼女はわずかに首を傾けた。
「そこには、わたしの灯はないけれど」
指輪の縁が掌へ食い込んだ。握り込んでいたことに気づき、レインは指を開いた。
「何ができる」
「あなたが憎む相手に、自分の大切なものを失わせる。奪われる間も、その人は全部分かっている。けれど、自分の手を止められない」
女の声は、泣く子をあやす時のように静かだった。
「失わせた後は」
「死ぬわ」
水の落ちる音が、ひどく大きく聞こえた。
レインは指輪から目を上げた。背中を押してくる力も、膝を縫い留めるものも感じない。立てば扉まで歩ける。それでも、手の中の輪を置こうとは思わなかった。
「どう使う」
「まず、なぜその人へ復讐したいのかを説明して。わたしを納得させられたら、その人への承認ができる。その後で、本人と話すの」
「話すだけか」
「短い返事でもいい。承認の後に会話が成立したら、呪いは動き出す」
レインは、宿で何気なく交わす挨拶を思い浮かべた。そこへ別の相手を立たせかけ、顔が形になる前に目を伏せた。
「話してから、止めることは」
「できない。発動させるかどうかを、その時に選び直すこともできないわ」
「手を縛って止めたら」
「身体を押さえることはできるわ。呪いが消えるわけではないけれど」
レインは荷車を押す時に使った縄を思い浮かべた。縛られたまま、止められない自分の手を待つことになるのか。浮かんだ考えを、その先までは追わなかった。
ヴェルナが指先を持ち上げた。黒い袖の向こうに石壁が透け、触れたわけでもないのに、レインの掌の温度が少し変わった。
「だから、承認を求める前に考えるの。使いたくない相手の話を、わたしへしなければいい」
「相手が大切にしているものは、選べるのか」
「選ぶのはあなたではないわ。その人自身が、最も大切にしているものよ」
貨幣の入った袋なら、奪うことはできる。武器なら折れる。レインはそこまで考え、喉を動かした。
「人だったら」
女はすぐには答えなかった。彼の手元から顔へ目を戻し、その変化を確かめるように見つめた。
「その人を、自分で殺すことになる」
「仇が大切にしているだけで、関係のない相手もか」
「そうよ」
レインは息を止め、やがて指輪を膝へ下ろした。輪の内側に灯が映り、わずかな動きで暗くなった。
かつて自分が見ていたものを、別の誰かに見させる力だった。仇の顔を思えば喉が熱くなるのに、そこへ誰の顔を置くかと考えると、手が冷えた。
「本人だけを殺せばいい」
「剣があるでしょう。あなたはもう、使える。でもあなたはそれで満足なの?」
女は彼の脇へ置かれた剣を見た。
「力を渡すことと、あなたが何を選ぶかは別よ」
彼は立ち上がらなかった。目の前で何もできずにいた時の手を、いまも覚えていた。そしてあの日自分の目の前で起こったことも。
ヴェルナの口元が、わずかに緩んだ。
「名前は怨環というの」
その音が、耳よりも先に胸の内へ収まった。レインが繰り返す前に、何を指す名なのか分かった。
「呪いで死んだ相手の技能は、あなたへ残る。いま持っているものと重なれば、その扱いが深まるでしょう。でも、その人の身体や、全ての記憶になるわけではない」
「理由を説明すると言ったな。間違っていたら」
「わたしが納得するかどうかよ」
「嘘でもいいのか」
「納得させられたならね」
レインは女を見た。正しさを保証する声ではなかった。そう思った時、彼女は否定せず、柔らかい表情のまま待っていた。
背後で女祭司の衣が擦れた。レインは顔を動かしそうになり、その前に膝の指輪へ視線を落とした。
「いまは、誰の話もしない」
「ええ。まだ聞いていないわ」
掌を返すと、指輪は思っていたより重くなかった。レインは右手の中指へ通し、節に触れた縁を少し回した。銀色の輪が根元へ収まると、周囲の灯がもとの明るさへ戻った。
目の前にいた女の輪郭が薄れた。消えた場所の向こうで、女祭司がこちらを見ていた。
「何か分かりましたか」
レインは手を膝の下へ引き、首を振った。
「まだ、うまく言えない」
彼女は台座の印と記録を見比べ、細い筆で欄を分けた。どの灯への反応かが揃わず、改めて確かめる必要があるという。知らない名を言い当てられることも、胸の中を覗かれることもなかった。
拾得品についての控えを受け取り、必要があれば再び相談するよう言われた。レインは礼を返し、鞄と剣を持って立った。
扉の外へ出ると、眩しさに目を細めた。石段の下では赤い頭巾をつけて桶を運ぶ女が道を譲り、レインも脇へ寄った。さっきまでと同じ町なのに、人の声が耳へ入るたび、誰と何を話しているのかを確かめそうになった。
まだ承認を得た相手はいない。そう思い直して、右手へ手袋をはめた。
「忘れられたら、こんなに苦しまないのでしょうね」
耳元ではなく、言葉を考える場所に声が届いた。レインは振り返らず、手袋の中で指を曲げた。握った拳の内側に、指輪の縁だけが残った。




