名のない指輪
雨は土手の草を濡らし、やがて道の轍にも水を溜め始めた。
レインは後車の車輪へ肩を添え、御者の声に合わせて押した。泥から抜けた車が進むと、靴に粘る土を道の縁で落とし、遅れないよう歩いた。左腕の袖には血が固まり、肘を曲げるたびに傷へ擦れた。
前の荷台では、肩へ布を巻かれた赤毛の御者が横になっている。代わりに手綱を取った荷主は何度も空を仰いだが、雲は低く垂れたままだった。
セラが歩みを緩め、車列を見渡した。
「夜道には入らない。先の礼拝堂で休む」
「あとどのくらいなんだ」
荷主が尋ねると、彼女は濡れた前髪を払った。
「晴れていれば町まで歩いて2時間ほどだ。今の道を、この車で進む時間は読めない」
荷主は御者へ目を向け、手綱を握り直した。レインも前方の轍を見た。昼間より深く沈んだ車輪が、馬の脚を引き止めている。急がせて道から落とせば、明日も戻れなくなる。
セラとヴィーラが先へ出て、ほどなく林の手前から合図を送ってきた。道端の草地に、低い石造りの礼拝堂が残っていた。奥の屋根は落ち、壁際には葉のついた枝が積もっていたが、入口に続く前室には雨の当たらない床があった。
「奥には入るな。車は壁沿いに寄せる」
セラが濡れた床を踏んで確かめ、荷主を呼んだ。顎に傷のある団員が馬を繋ぎ、レインは荷台へ張り布を掛けた。母親と少年が先に中へ入り、負傷した御者は入口に近い場所へ寝かされた。
片耳の欠けた護衛は、その御者を運び終えると、母子から離れた壁に腰を下ろした。セラは男を見渡せる位置へ荷を置き、短剣を帯から外して自分の鞄へしまった。
レインは外へ戻り、馬の頭絡がきつくないか指を入れた。濡れた鼻面を押しつけられ、手袋の先に温かな息がかかった。首筋を撫でると、馬は地面の草へ顔を下げた。
「お前も休めよ」
ヴィーラが張り布の下から言った。水を含んだ黒紫の髪を絞りながら、まだ道の向こうへ耳を向けている。
「後ろは見てる。中を手伝ってこい」
レインは頷き、前室へ入った。母親が濡れた藁を寄せ、少年の座る場所へ乾いた布を敷こうとしていた。彼が手を貸すと、少年は膝を抱いて端へ寄ったので、手の届く所だけを片づけた。
藁に絡んだ布切れを引いた時、壁際で硬い音がした。掌に載るほどの金属の箱が、欠けた石片とともに床へ落ちていた。
壁の浅い窪みを覗くと、そこだけ雨水が細く流れ込んでいた。泥を含んだ布が小箱に被さっていたらしい。レインは箱を拾い、石の欠片を先にどけてから母子の方へ顔を向けた。
「そこは濡れる。もう少し入口側へ」
母親が布を引き直す間、彼は箱を持ってセラの所へ行った。
「壁の隙間に落ちていた」
黒ずんだ蓋を示すと、セラは土を落とし、留め金へ指を掛けた。傷んだ留めが外れ、中の布に包まれていた指輪が傾いた。鈍い銀色をしていて、縁に細い線が刻まれていたが、字なのか模様なのかレインには分からなかった。
セラは顔を近づけたものの、すぐに箱を水平へ戻した。
「どこの祭具かも分からないな。帰ったら、拾った場所と合わせて届けるぞ」
「窓口でいいか」
「まずそこへ持っていけ。預かっておけ」
レインは受け取った箱を乾いた布で包み、鞄の内側へ入れた。冷えた指先がわずかに楽になった気がしたが、濡れた手袋を外したせいだと思い、留め紐を結んだ。
入口の石敷では、小さな火が起こされていた。煙が外へ流れるよう扉を開けたまま、母親が携行食の干し肉と砕いた豆を鍋へ入れている。荷主は濡れずに残った薪を選び、割れた御者台から抜けた矢を、その隣へ置いた。
レインは矢を拾って見た。短い軸に欠けた羽根がついていたが、持ち主を示す印は見つからない。顔を見た襲撃者の服にも、所属を示す揃いのものはなかった。町へ戻ったら、林の位置と逃げた方向まで伝える必要があった。
「腹に入れたら、先に道を見てくる」
顎に傷のある団員が言い、母親から受け取った椀を急いで空けた。レインは彼の分を鍋の片側へ寄せ、荷主がもう椀を伸ばしかけたところで止めた。
「戻ってくる分を残してくれ」
「ああ、そうか。悪かった」
荷主が椀を引くと、母親は鍋の脇へ木の匙を置いた。レインも自分の分を受け取り、ようやく火の近くへ座った。温かい汁が喉を通り、空腹だったことを思い出した。
「人の血は拭くくせに、自分のはそのままか」
外から戻ったヴィーラが、彼の袖へ目を落とした。
レインは椀を置き、巻いていなかった布を取り出した。傷へ張りついた袖を水で湿らせ、ゆっくり剥がすと、浅い切り口からまた血が滲んだ。痛みで眉を寄せた彼を見て、ヴィーラが自分の水袋を置く。
「そこ、泥がついてる」
言われた所を洗い流し、布を巻きつけた。結び目をきつくしすぎて指が動かしにくくなり、少し緩めて結び直した。ヴィーラはそれを見届けると、レインの隣に腰を下ろした。
「明日、水鐘堂だろ。予約はいつだ」
「午後だ」
「朝に出れば間に合うな。何が欲しいか、考えてるのか」
18歳になって教会へ行けば、神から力を授かる。レインより先に授与を受けた団員は、戻ると皆に何ができるか尋ねられていた。その輪へ加わって話を聞くことはあっても、自分なら何と答えるかまでは考えたことがなかった。
「強くなるものなら」
ヴィーラは椀を口へ運びかけ、そのまま少し止めた。
「剣は、まだ足りないか」
レインは左腕の結び目へ目を落とした。昼間の男の刃は避けきれなかった。けれど、思い浮かんだのはその顔ではなかった。覚えている声があり、忘れられない手がある。今の剣がどこまで届くのか、試せたことはなかった。
「もっと要る」
ヴィーラは返事をせず、椀の底に残った豆を掬った。彼女の口元の古傷が、噛む動きに合わせてわずかに引かれた。
少しして、向かいから母親が布を差し出した。
「お借りした水袋です。拭いておきました」
受け取ると、濡れていた口の周りまで乾いていた。少年は母の肩に顔を寄せて眠っている。唇の腫れが見えたが、呼吸は静かだった。
レインは水袋をしまい、鍋の残りが冷えないよう火の位置を直した。外から帰ってきた団員へ椀を渡すと、交代して道へ立った。雨の向こうでは、馬が草を食む音と、滴が張り布を叩く音が続いていた。
ヴィーラに肩を叩かれるまで、レインは道を見ていた。
「今度はあたしが見る。寝とけ」
前室へ戻り、剣を手の届く側へ置いて壁に背を預けた。鞄を枕代わりにしようとして、箱の角が頬へ当たる。中の布包みを出し、荷のそばへ移してから目を閉じた。
妹の声が聞こえた。
「兄さん、待って」
伸ばされた手が見えたので掴もうとしたが、指が曲がらなかった。熱が頬へ押し寄せ、何かの爆ぜる音がする。息を吸うほど胸が苦しくなり、もう少しで触れるはずの手が、煙の中へ消えていった。
レインは身体を起こし、剣の柄を掴んだ。鞘ごと膝へ引き寄せたところで、頭上から雫が落ちた。
「雨だよ」
入口に座ったヴィーラが、外を見たまま言った。
石壁が見えた。近くでは御者が眠り、母親の布靴が火の脇に並んでいた。レインは濡れた頬へ触れ、指先を見た。煤はついていなかった。
吸い込んだ空気には、冷たい土と豆の煮汁の匂いがした。剣から指を離して息を吐くと、昼間の切り傷がようやく痛んだ。ヴィーラは振り返らず、彼が落ち着くまで何も尋ねなかった。
眠り直す気になれず、レインは荷の位置を直した。その手が布包みへ触れた時、掌にかすかな温かさが残った。
火からは離れている。濡れた鞄も、包んでいた布も冷たかった。箱を膝へ載せ、留めの外れた蓋を開くと、指輪が布の窪みに収まっていた。
縁へ触れただけでは分からなかった。内側へ指の腹を当てた途端、誰かの肌に触れたような温度が伝わってきた。
レインは指を離し、しばらく待った。もう1度触れても、指輪の内側だけは、まだ誰かの指にはまっているように温かかった。




