File01:雨宮愁染
アスファルトにぽつぽつと小さく黒い染みができていく。
見上げると暗い灰色の雲が広がっている。
雨か、と空を睨む。
次第に雨が強くなり、傘を持たない群衆が濡れまいと急ぎ足で駆けていく。
俺はそのまま動かず空を睨み続けた。
雨が嫌いだった。
雨は俺の全てを奪い去っていったから。
自分の足元を見ると、そこには妻の遺体が横たわっていた。
あぁ、またか。これだから雨は嫌なんだ。
首から流れる赤いオイルが雨と共に徐々に広がっていく。
すかさず、妻の傷口を押さえる。
「薫…」
雨が顔を伝う。
雨はだんだんと薫の体温を、命を奪っていく。
傷口を押さえながら何度も呼びかける。
そんな俺を見下ろす存在がいる。
黒いフードを深く被り、その手にはオイルに濡れたナイフが握られている。雷光で見えたフードの中には般若の仮面があった。
こいつが薫を俺の目の前で殺したのだ。
こいつは、こいつだけは、俺の手で―。
「兄貴~!」
一際明るい声が回想を途切れさせた。
群衆の間を縫って、1人の青年が閉じたままの傘を持って駆けてくる。
「兄貴、やっと見つけました!傘持ってないの知って慌てましたよ!」
「悪い。…悠仁、傘さしてくれば良かったじゃねぇか。ずぶ濡れだぞ」
「俺は別にいいんです。兄貴だけずぶ濡れなんて嫌ですから。さ、傘さして戻りましょう。風邪引いたら大変ですから...ぶえっくし‼」
「たくっ、俺より自分を大事にしろっていつも言ってるだろ。傘ありがとな。さっさと戻るぞ。」
「はい兄貴!」
俺の名は雨宮愁染。前は一般人だったが妻の薫を般若面の男に殺され、奴を追って今は篁組の極道として過ごしている。
隣ではしゃいでいるのは、舎弟の村雨悠仁。
俺が組に入ってまもない頃にやってきた。
下唇の左端にリングピアスをしており、極道にしては似合わない白いパーカーを着ていることが多い。
愛想が良く、人に好かれやすい。
復讐の邪魔になると悠仁が組に入ることを反対したのだが、篁の親っさんは口の上手いやつが1人いた方が情報も集まりやすくなるからと言って却下された。
お前さんは腕っぷしは良いが、交渉となると少し頼りないと余計な一言も付け加えられた。
図星を突かれて不満はあるものの、親っさんの言うことは絶対なので渋々了承した。
悠仁と会話を交わしながら、行き交う人々に視線を向ける。人類は脆い肉体を棄てて鋼鉄の身体を手に入れた。見た目は肉体の頃と変わらないものの、脳以外の臓器や筋肉、骨など身体の中は鋼鉄と薄く柔らかい頑丈なプラスチックだ。そのおかげで人類は病気もなく健康で永遠に近い人生を送れている。たとえ死んでも脳が無事であれば、新しい身体が手に入るからだ。
俺と悠仁は30代と20代だがまだ自身の死は経験していない。首を切られ、脳も毒に侵され完全な死を遂げた薫を除いて。側を通りすぎていく彼らはきっと死を微塵も恐れていないだろう。俺はかつての人類と同じだ。俺はたぶん誰よりも死を恐れている。
事務所に戻ってシャワーを浴びる。
今日も般若面の男についてめぼしい情報は得られなかった。
これまで何度も現れそうな場所に行ったり、
関わりを持っていそうな人間に「聞き込み」したものの案の定空振り。
そして、行き着けの店でやけ酒した帰りにこの土砂降りである。
最悪な一日だ。
時々思う。もしも奴を見つけて復讐を果たせるとして俺は奴を「殺せる」のか?
俺は本物の死を知っている。
心臓ではなく、脳を破壊すれば奴には本物の死が訪れる。奴の額に刃物を突きつける想像をする。あとは振り下ろせば良いだけ。それだけ。
それだけのはずなのに。振り下ろすことができない。突きつけたまま動けないでいる。
あの日を忘れたことは無いし、悲しみも憎しみもあの日のままだ。
何度も試したが、振り下ろすことはなかった。
想像をやめると視界にシャワー室の白い壁が戻ってくる。親っさんに報告しなければならないのを思いだし、考えを振り払うようにシャワーの出力を上げて頭から浴びた。
シャワーから上がって着替えると親っさんのいる部屋に向かった。
「親っさん、失礼します」
「おお戻ったか、愁染。収穫はあったか?」
「相変わらず、何も」
「そうか…。なかなか尻尾をつかませちゃあくれねぇな」
親っさんは心配そうに眉をひそめる。
「…お前さん、最近しっかり休めてるか?
顔色が悪い」
「すみません。土砂降りだったんでそのせいですね」
「そういえば、そろそろだな。奥さんの命日」
「…」
「お前さんと会って3年か。悠仁ももうすぐだな」
「もうそんなに経つんですね。親っさんに出会ってなかったら、俺は生きる気力を失ってこの世にいなかったかもしれない。警察に頼んでも奴の捜査もろくにせずに俺を犯人扱いでしたから」
「なに、儂よりずっと若いのが打ちひしがれてるのを放っておけなかっただけだ」
「本当にありがとうございます。篁の親っさん」
「礼なんざいらねぇよ」
するとドアの方から悠仁の声がした。
「失礼しまーす!親っさん、兄貴、温かいスープ持ってきました!すみません…ちょっと、手が離せないんで開けてもらっていいですか?」
「おう」
ドアを開けて悠仁を中に入れる。
お盆にはミネストローネが3つ載っている。
「ありがとうございます!お茶より、もっとしっかり栄養が取れるものが良いと思ったんでスープ作りました!」
明るい声が部屋を満たす。
正直、悠仁の明るさには助けられている。
親っさんと2人だけでは明るい空気には中々なれなかったと思う。
「美味そうだな。さて、報告ありがとな愁染。この後はしっかり休むんだぞ」
「はい。悠仁、スープは部屋で飲む。飲んだら台所に置いとくからな」
「兄貴、体調優れないんすか?なにかあったら言ってくださいね!」
「ああ、ありがとな。親っさん、俺はこれで」
「おう」
「そうだ、悠仁。いくつか確認したいことがあるんだが…」
2人の会話を背に部屋に戻る。
スープを胃に流し込んで橫になると、
疲れが溜まっていたようで、すぐに眠りに落ちた。
目を開けると、そこは自室ではなかった。
周囲を素早く確認する。
左手には街を一望できる大きな窓。
幾つもの無機質なビルがそびえ立ち、色とりどりのネオンが輝いている。
正面にはダイニングテーブルと椅子。
奥の壁には写真が飾られている。
俺とーー、
薫だ。
かつて2人で暮らしていた家だとようやく気付く。
まさかと思い右手にある台所の方を見る。
そこには、薫がいた。長い髪を後ろで纏めて、真剣な表情でレシピ本を見つめている。
ああ、これは夢だ。もう薫はいないのだから。
わかっている。
視界がじわじわとぼやけて、涙が頬を伝う。
すると、レシピ本から顔を上げた薫がびっくりした顔でこちらにかけてくる。
「え、あ、どうしたの⁉大丈夫?怖い夢でも見たの?」
薫がハンカチで俺の涙を拭う。
すかさず俺は薫を抱き締めた。
ただ薫を離すまいと強く抱き締める。
「…私が居なくなる夢でも見た?」
頷くと薫は怖かったねと子供をあやすような優しい声で囁いて、俺の背中に腕を回した。
「大丈夫よ。私はここに居る」
目を瞑って腕の中の薫を感じる。
ずっとこうしていられたら良いのに。
フッと腕の中の薫が消えたと同時に、目を開ける。
ぼやけた視界は朝日が差し込む自室の天井を映す。
今日の日付や天気、ニュースなどポップアップが視界に次々と湧き出てくる。
手で払って消すと重い身体を起こして、涙を腕でゴシゴシと拭った。
今日もやることは変わらない。
少しでもいい。奴の情報を掴まなければ。




