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第八章:帰ろう!ちょっとその前に(2)

「うえぇ……っ、にが……! もう絶対に二度と飲みたくない、これ……っ!」


涙目で器を突き返すと、小夜ちゃんは苦笑しながらそれを受け取り、何かを思い出したかのようにポンと手を打った。


「そうそう、詩樹さん。詩樹さんが気絶している間に、高日さんが目を覚まされたんですよ。それで、例の請求書の件なんですけれど……ちょっと一悶着ありまして」


「えっ!?」


私は口の中に残る最悪の苦味も忘れて、ガタッと身を乗り出した。


「まさか、値切られたとかじゃないよね!?」


ここで値切られては、私の流した血も、お父さんにぶちまけたアレやコレやの苦労も、すべてが文字通り水の泡になってしまう。


しかし、小夜ちゃんはフッと不敵な笑みを浮かべ、これ以上ないほど誇らしげに胸を張った。


「そこは、心配いりません!」


「……お、おう?」


「私たちが話を詰める前に、佐伯さんのお父様や住職の皆さんも、今回の件にかかった費用を高日さんにきっちり請求されていたんです。そうしたら案の定、高日さんの奴……あ、失礼、高日さんが『清算の時に最初の話と違う!』なんて見苦しい言いがかりをつけてきまして。なので――」


小夜ちゃんはキラリと瞳を光らせ、実になだらかなドヤ顔で言葉を続けた。


「詩樹さんが負傷したことへの慰謝料や、雲水住職が仰っていた数珠の件をこれでもかと追求して、ぐうの音も出ないほど完璧に全額支払わせておきました!」


(……っ!)


さすが、我が「古都 逢坂屋(塾)」の誇る敏腕びんわん事務員!。


これ以上ないほど頼もしすぎる。


 私は心の中で最大級の拍手を送ったが、同時に(……やっぱり、この子だけは絶対に敵に回しちゃダメだ!怒らせたら世界で一番恐ろしいタイプだわ)と、改めて背筋が寒くなるのを覚えるのだった。


「それと、本日はもう一泊、こちらの宿坊に泊まることになりましたので、まずはゆっくり休んでくださいね」


小夜ちゃんのその言葉に、私の脳裏を前回の『3人仲良し川の字』の記憶がよぎり、思わずヒヤッとした。


「へ、へぇ〜……。また、あの部屋で、3人仲良く川の字で寝るんだね〜……?」


探るように引きつった声を出す私に、小夜ちゃんは「まさか」と言わんばかりに首を振った。


「いいえ、今回は別々のお部屋ですよ。詩樹さんの怪我のこともありますし、佐伯さんもだいぶ力を使いすぎて、今は体が思うように動かないそうなんです。それを見かねた女将さんが気を利かせて、それぞれ別々のお部屋をご用意してくださいました」


その言葉を聞いた瞬間、私の心にすこぶる大きな安堵感が広がっていく。


(よかった……! 今日の今日で、難を逃れた私のプライベート(?)が露見して新たな黒歴史を作るわけには行かないっ!!)


(それに何より、お互いボロボロの状態で気を遣い合うのも嫌だし。 )


「そそっ、そっかぁ! いや〜、女将さんには本当にお礼を言わないとね!」


思わず満面の笑みをこぼす私を見て、小夜ちゃんも嬉しそうに微笑んでいる。


しかし、そこでふと、ある現実的な疑問が頭を過った。


別々の部屋を3部屋。


しかももう一泊。


宿坊とはいえ、これだけの急な延泊となると、相応の費用がかかるはずだ。


「ねえ、小夜ちゃん。ここで泊まる3人分の追加費用って、どこから出るの?……まさか、さっきの報酬の中から差し引かれる感じ?」


せっかく勝ち取った軍資金が減るのは痛いな、と思いつつ尋ねると、小夜ちゃんはどこかバツが悪そうに視線を泳がせた。


「いえ……それが。雲水住職と、佐伯さんのお父様が……直々に、高日さんに支払わせたんです」


「……そう」


 私は短く答えたものの、脳裏には、般若のような笑顔の雲水住職と、圧倒的威圧感を放つ佐伯君のお父さんが、高日さんを左右からじわじわと取り囲んで逃げ道を塞いでいる光景がありありと浮かんでいた。


(あの二人……絶対に、高日さんに何かしらの『エグい脅し』をかけたよね……?)


勝手ながらそんな恐ろしい推測をしてしまい、高日さんにほんの少しの同情を禁じ得なかった。


その時だった。 ――コンコン。


静かな部屋に、小気味よいノックの音が響いた。


「はーい、どなたですか?」


小夜ちゃんがパッと表情をビジネスモードに戻し、襖の方へと声をかけた。


「女将でございます。今、ちょっとよろしおすか?」


襖の向こうから聞こえてきたのは、おっとりとした女将さんの声だった。


小夜ちゃんが「どうぞ」と返事をすると、静かに襖が開く。


「詩樹さん、お目覚めになって本当に良かったわぁ」


女将さんはほっとしたように微笑むと、私と小夜ちゃんの側へと近づき、上品に腰掛けた。


どうやらわざわざ様子を見に来てくれたらしい。


その優しい心遣いに、心がじんわりと温かくなる。


「女将さん、急な延泊な上に、お部屋をそれぞれ別々に用意していただいて……本当にありがとうございます」


私は布団の中から頭を下げて感謝を述べると、女将さんは「いえいえ、滅相もない!」と、大慌てで両手を振った。


「お礼を言わはるなら、雲水住職と佐伯さん(お父さん)に言うてくださいね。さっきフロントでね、あの御二方が高日さんの両脇にがっしり立ちはって、もの凄い怖いお顔で支払いをさせてはったんですえ。ふふ、思い出すだけでも恐ろしいわぁ」


上品に口元を押さえてクスクスと思い出し笑いをする女将さん。


(……やっぱり。私の推測、あらかた間違ってなかったわ……)


 脳裏に浮かぶ、最強の怖顔の二人に挟まれて財布をむしり取られる高日さんの哀れな姿。


私は心の中で(南無阿弥陀仏……)と静かに手を合わせた。


すると、女将さんは少し表情を引き締め、しみじみとしたトーンで言葉を続けた。


「それにしても、今回の戦いは凄まじかったどすねぇ。この宿坊にまで、あの不気味な地鳴りのような声や振動が響いてきて……私らも生きた心地がしませんでしたよ。ようやく静かになったと思ったら、今度は小夜さんが血相を変えて『詩樹さんが大怪我をした!』って泣きながら走って来はるから、私らも慌ててお部屋の準備をいたしましたんえ」


「小夜ちゃんが……」


チラリと隣を見ると、小夜ちゃんは少し気まずそうに視線を下に落としている。


本当に心配してくれていたんだなと胸が熱くなる。


「お顔を真っ青にされた詩樹さんが運ばれてきて、これは大変や言うて、急いで秘伝の薬湯を作って、すぐに飲ませたんですえ」


女将さんのその言葉に、私の脳内のレーダーがピクリと反応した。 


 先ほど、小夜ちゃんに「誰が飲ませてくれたの?」と尋ねた時の、あのあからさまに不自然で、怪しすぎる言い逃れ。


どうしても引っかかっていた疑問を解き明かすチャンスが、今ここに転がり込んできた。


私は努めて自然に、にっこりとした満面の笑みを浮かべて女将さんに尋ねた。


「へぇ〜、そうだったんですね。じゃあ、女将さんが気絶していた私に、その薬湯を飲ませてくださったんですか?」


「ええ? 私やおまへんよ。――桃花住職がね、口移しで直々に飲ませはったんですよ。まぁ、その場にいた者たち全員、一斉にドン引きしてはりましたけどねぇ」


「……」


私がずっと気になっていた真実が、いま、白日の下に晒された。


それと同時に。


私の頭の中で、何かが、みしり……と音を立てて割れた気がした。


(佐伯君じゃ、なかった……。いや、佐伯君じゃなくて本当に良かったんだけど、良かったんだけど……っ!!)


 私は、引きつりそうになる笑顔をにっこりと『完璧に維持したまま』、首だけをゆっくり、ギギギ……と錆びついた人形のような動きで小夜ちゃんへと向けた。


声のトーンだけを限界まで落とし、ドスの効いたおさえた声で問いかける。


「ねえ、小夜ちゃん。……今の女将さんのお話、……本当なの?」


尋問を受ける容疑者のように、小夜ちゃんは「ひっ」と肩を震わせ、完全に白状したような顔でボソボソと喋り出した。


「そ、そうですね……。私が泣きじゃくっている中、どうにか詩樹さんに薬湯を飲ませようと、口元に器を当てようとしたんです。そしたら、横から桃花住職がぬっと入り込んできまして……『そんな生ぬるいやり方じゃ上手く飲ませられんぞ!』って言いながら器を奪い取って、自分の口に含んで……そのまま、詩樹さんの口に、ダイレクトに……」


語られる、おぞましすぎる生々しい供述。


私の全身が、怒りと、屈辱と、強烈な拒絶反応でブルブルと激しく震え始める。


 あのクソ不味い漢方の苦味の奥に、何か別の禍々しい味が混ざっていたような気がしてきて、本気で鳥肌が止まらない。


「ふっ……やってくれたな……」


私は布団のシーツに爪が食い込むほどギリギリと握りしめ、怒りに満ちた表情で、地を這うような声を絞り出した。


「あの腐れ外道ジジイ……ッ!!!!」


部屋の空気を一瞬で氷結させるほどの怒号に、女将さんはあからさまに引きつった笑みを浮かべ、すっと腰を浮かせた。


「あ、あの……そろそろ夕食の準備をいたしませんと。ま、またお食事はお部屋にお持ちしますよってに、ゆっくり休んでおくれやすね!」


言うが早いか、女将さんは凄まじいスピードで襖を開け、滑り込むようにして部屋から逃げ去っていった。


 その見事な逃亡劇に便乗すべく、小夜ちゃんも「あ、私もお手伝いを――」と、そろりそろりと立ち上がろうとした、その瞬間だった。


ヌ〜〜〜〜ッ。


私の左腕が、まるで地獄の底から伸びる亡者の手のごとき這うような動きで、小夜ちゃんの頭上へと伸びた。


そして――ガシィッ! と、その綺麗な黒髪を頭頂部から容赦なく鷲掴みにする。


「ひゃいっ!?」 頭を固定された小夜ちゃんが、恐る恐る、ぎこちない動きで上を見上げた。


そこにあるのは、もちろん満面の笑み――などではなく、般若も裸足で逃げ出すような怒りに満ちた私の顔。


その瞳の奥には、地獄の業火がギラギラと生々しく燃え上がっている。


「お、お、落ち着いてください詩樹さん……! わ、私は、その、どうにかして、取り返そうと……っ」


あの有能で、普段ならどんな状況でも冷静沈黙を貫く小夜ちゃんが、珍しく言い逃れの一言も浮かばずにあわあわと震えている。


私は鷲掴みにした手にじわりと力を込めながら、怨念の籠もった声を耳元で叩きつけた。


「よくも、よくも黙っていたわねぇ〜〜〜〜……」


「女将さんのお話を聞いてさぁ〜、私が気絶している間、小夜ちゃんに もの凄く心配をかけてしまったなぁって、心の底から申し訳なく、かつ感動していたのにさぁ……ッ!!」


「ヒィィィーーーーーーッ……!!」


私の全身から放たれる凄まじい重圧感オーラの前に、小夜ちゃんは完全に蛇に睨まれた蛙状態になり、涙目でひたすら恐怖に耐えていた。


「どこよ、あの外道ジジイは今どこにいるの!? 偶然体が動いたぁ!? 腕が繋がってるだけでも儲けもんだぁ!? どの口がぬけぬけと言いやがったのよ!! 今度こそあのジジイを本物の極楽浄土へ葬ってやるわ!!」


怒りという名の不純なアドレナリンが脳内を駆け巡り、私は布団をバッと跳ね除けて勢いよく立ち上がろうとした。


――ズドンッ!!!


立ち上がった、と思った次の瞬間には、私の視界は天地がひっくり返り、そのまま元の布団へと無残に崩れ落ちていた。


「あ、あれっ!? な、何事……!?」


自分の体に一体何が起きたのか分からず目を丸くする。


足に全く力が入らない。


 それどころか、太ももからふくらはぎにかけて、まるで生まれたての小鹿のようにガクガク、ブルブルと小刻みに震え続けているのだ。


その様子を見た小夜ちゃんが、恐怖から一転して血相を変え、慌てた声を上げた。


「し、詩樹さん! 無茶をしないでください、まだ完全に回復していないんですよ! 失った血と体力はまだ戻ってない状態なんですから!」


「くっ……! はぁ、はぁ……っ、この、足め……! なんでこんな時に動かないのよ……!」


私は悔しさと怒りの行き場をなくし、敷布団をこれでもかと言わんばかりにバンバン! バンバン! と激しく叩きつけた。


「……動けるようになったら。この足がまともに動けるようになったら、あのジジイ……絶対にタダじゃおかない……! 覚えてろよ……ッ!!」


もはや呪詛のような執念を口にしながら布団を叩き続ける私を見て、小夜ちゃんはホッと息を漏らし、優しく私の体を支えにきた。


「はいはい、分かりましたから。ひとまず、今は休みましょうね」


そう言って、小夜ちゃんは私の暴れる腕をそっと宥め、重たい体をゆっくりと布団の中へと横たわらせようと、甲斐甲斐しくその小さな体で支えてくれるのだった。


―― 一方その頃。


本堂の裏手にある日当たりの良い縁側では、桃花住職がのんびりと湯呑みを手にしていた。


「は、ハックションッ!!!」


静かな境内に、およそ締まりのない大きなくしゃみが響き渡る。


桃花住職はズビズビと鼻を鳴らしながら、ふくよかな顔をご機嫌そうに歪めた。


「おやおや、ふぅ〜……。これはきっと、どこぞの可愛い子ちゃんがわしの噂でもしておるのかもじゃな〜。モテる男は辛いもんじゃて、ウフウフ、ウフフフフ」


自分が生み出した「被害者(詩樹)」が、いま宿坊の布団の中で般若と化し、自身を本気で極楽浄土へ送ろうと誓っていることなど露知らず、住職は実に満足げにお茶をすするのだった。


――ところ変わって、再び詩樹の部屋の前。


小夜ちゃんはようやくの思いで私を布団に沈め、どうにか落ち着かせることに成功していた。


「……失礼しますね」


文字通り「生きた心地がしなかった」と言わんばかりの、完全に魂の抜けた真っ白な表情で部屋を出た小夜ちゃん。


 パタンと静かに襖を閉め、廊下を歩き出した瞬間、胸に溜まっていた重たい空気をすべて吐き出すような、深〜いため息をついた。


「はぁぁぁ…………。本当に生きた心地がしなかった……」


まだ恐怖でバクバクと脈打つ心臓のあたりを手で押さえながら、小夜ちゃんはひそかに胸の内を思い返し、ガクガクと身震いする。


(桃花住職が口移しで飲ませた件だけは、何があっても、絶対に秘密にしておきたかったのに……! まさか女将さん、あんなにまんまと詩樹さんの誘導尋問に引っかかるなんて……っ)


先ほど部屋の中で見た、地獄の業火を宿した詩樹のギラギラとした目を思い出し、小夜ちゃんは涙目で頭を抱えた。


(これから詩樹さんの体力が戻ったら、一体どうなってしまうのか……。こ、怖い、怖すぎる……!)


敏腕マネージャーの明日はどっちだ。


主犯ジジイと共犯(自分?)にされてしまうのか、それとも主犯ジジイだけなのか、詩樹の執念深い復讐劇の幕開けを予感し、小夜ちゃんは密かに頭を悩ませるのだった。


――そして。


さらにところ変わって、同じ宿坊内の、それぞれ別々に用意された男二人の部屋。


 そこでは、日本屈指の実力を持つ呪術師の親子が、それぞれ絶望の淵に立たされていた。


「くっ……!? なんだこれは、何故この鼻水が取れんのだ……!?」


佐伯君のお父さんは、威厳に満ちた普段の面影などどこへやら、高級な着物を脱ぎ捨てて必死の形相で胸元をぬぐっていた。


 呪力をもってしても、物理的に引っ張っても、詩樹の涙と怨念(?)が凝縮された驚異の粘着液体は、まるで強力な接着剤のように着物の繊維にこびりついて離れない。


そして、隣の部屋の佐伯君もまた、同じ絶望を味わっていた。


「な、何なんだよこれ……! なんでシャツから剥がれないんだ……っ!」


自分の白いシャツの胸元についた「お父さんからの選別仕様のソレ」を必死に取ろうと、あわあわと指を動かしていたのである。


触れば触るほど指にベタベタと絡みつき、ビヨ〜ンと伸びては元に戻る謎の超強度。


 妖との命懸けの死闘ではあんなに格好良く力を使いこなしていた若き呪術師が、いま、一界の小娘の鼻水を前に、完全なる敗北を喫しようとしていた。


――再び、詩樹の部屋。


静かになった室内で、私は布団の中に潜り込みながら、あの外道ジジイをどう料理してやろうかと、あれやこれやと不穏な計画を練り上げていた。


(まずはあの自慢の髭を一本残らずむしり取って、いや、燃やしてやろうか、苦くて不味い薬湯に雲水住職いや、、オカマバーに行き私にした事を同じように…ふふっ…いや〜まだそれだけじゃ足りないわ…もっと何か…)


――コンコン。


そんな私のどす黒い妄想を遮るように、再び襖を叩く音が響いた。


小夜ちゃんが戻ってきたのかな、と思いつつ、私は布団から顔を出して声をかける。


「はーい、どうぞー」


……。


しかし、中に入ってくる気配も、何かしらの返事も返ってこない。


しーんと静まり返ったままだ。


(?? おかしいな……空耳?)


不思議に思った私は、どうにかゆっくりと体を起こした。


相変わらず足には力が入らないので、仕方なく、赤ちゃんのように両手両膝を床につけて、文字通りハイハイで這うようにして進んでいく。


ずりずり、ずりずり。


 我ながら情けない姿だなと思いながらも、ようやくの思いで襖の前へと辿り着き、手をかけて横にガラリと開けた。


「……あれ?」


思わず声が漏れた。


廊下を見回してみても、そこには誰もいない。


右を見ても左を見ても、静まり返った廊下が伸びているだけだった。


やっぱり気のせいだったのかな、と襖を閉めようとした、その時。


「あのー、すみません……」


突如、私のすぐ真後ろから、おっとりとした女性の声が聞こえた。


「はいっ!?」


心臓がドキンと跳ね上がり、反射的に返事をして勢いよく振り向く。


けれど、そこには誰もいない。


私の寝ていた布団がぽつんとあるだけだ。


(えっ、嘘、何……!?)


冷や汗が背中を伝う。


恐怖にゴクリと息を呑み、恐る恐る、再び正面へと視線を戻した。


――瞬間。


さっきまで確実に誰もいなかったはずの目の前に、私とまったく同じように、ちょこんと正座をして座っている『誰か』がいた。


少しぽっちゃりとした体型の、見知らぬ若い女性だった。


「……ッッ!!!!」


私の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。


あまりの恐怖に声の出し方すら忘れ、喉の奥からひっくり返った悲鳴が飛び出す。


「ヒィぃぃぃぃぃーーーーーーッ!!!!」


腰を抜かして後ろへ飛び退こうとする私を見て、目の前のぽっちゃり系の女性は、慌てて両手をブンブンと激しく振り回した。


「わ、私っ、何もしないので! 決して怪しい者じゃありませんから! お願いですからそんなに驚かないでください〜っ!」


幽霊(?)のくせに、本気で焦りまくってあわあわと取り乱している彼女の姿に、私は恐怖の極限に達しながらも、どこか頭の片隅で「何だこの状況……」と混乱し始めるのだった。


「ふぇ……?」


思わずまぬけな声が漏れてしまう。


 恐怖がほんの少しだけ引いたおかげで、ようやく相手の『気配』を察知する心の余裕ができたのだが、どうにも妙なのだ。


このお姉さんから漂ってくる微かな残穢ざんえ――これ、ついさっき私が命懸けでブチ倒した、あのゲジゲジ芋虫と同じ匂いがする。


もしや、と思った私は、膝をガクガクと震わせながらも、核心に触れる質問をぶつけてみた。


「あ、あの〜、幽霊さん……。お聞きしますが、もしやあなた、さっき退治されたあの妖に、喰われたか、あるいは飲み込まれたりされました……?」


その瞬間、お姉さんはバッと顔を上げて叫んだ。


「そーなんです! 私、アイツに振られたんです!!」


「は……っ!?」


喰われたかどうかの質問に対して、まさかの「振られた」という斜め上のブーメラン。


思考が強制停止する私を置いてけぼりにしたまま、お姉さんは大粒の涙を流して激しく身振り手振りを交え始めた。


「どうしても振り向いて欲しくて、借金までして、ぽっちゃりバーで必死にバイトしたりして、彼に貢ぎ物をいっぱい、いっぱいしたのにぃ……っ! なのにアイツときたら、うっ、ううっ……ひどいのよぉぉ! 泣」


(……うん? ぽっちゃりバー? 貢ぎ物?)


なんだか話の全貌がまったく見えてこない。


だけど、強烈に嫌な予感と、ある一つのゲスな男の顔が脳裏にピキーンと浮かび上がった。


私は引きつった笑みを浮かべ、恐る恐る尋ねてみる。


「あの、お姉さん。その『アイツ』とやらのお名前、もしかして……高日たかひさん、だったりします?」


「ええ、そうよ! 高日よ、あのクソおとこ!!」


ビンゴ。


やっぱりあの成金男か。


そこでようやく、絡まった糸がスルスルと解けるように話の意図が見えてきた。


私は頭の中で情報を整理しつつ、お姉さんの言葉をなぞるように確認していく。


「ええと、つまり……お姉さんは高日さんに振り向いて欲しくて、バーでバイトして、必死にお金を稼いで貢いでいた。けれど高日さんの金銭的な要求がだんだん激しくなっていって、それでも振られたくないお姉さんは、ついには借金をしてまでお金やらブランド物やらを渡し続けた……。これで、合ってますか?」


「うん! 合ってる! すごい、お姉さん名推理ねっ!」


さっきまでの涙はどこへやら、お姉さんはパッと表情を輝かせて両手を叩いて喜んでいる。


対する私は、天井を仰ぎ見ながら「うーーーん……」と何とも言えない困惑の表情を浮かべるしかなかった。


 世の中、本当に都合のいい生霊にされる女もいれば、裏でガチの貢がせ詐欺を働いている男もいるらしい。


高日、やっぱりアイツ、ただの被害者じゃなくて相当な人間のクズだな。


私は再び視線をお姉さんに戻し、一番重要な質問を投げかけた。


「時に、お姉さん……。まさかとは思いますけど、高日さんに振られたショックで、自ら命を絶ったりしたんですか?」


もしそうなら、この事件の闇はさらに深くなる。


ゴクリと唾を呑んで答えを待ったが、どうやら真相は私の予想とは少し違っていたらしい。


「違うのよ〜! 私、もう一度人生をやり直したくてさ! ホストクラブが閉店になるまでじゃんじゃんお酒飲んで、ベロンベロンになって自宅に帰ろうとしたの!」


「は? ホスト……?」


「そしたらさぁ、帰り道に足がもつれちゃって、その弾みで派手に転んじゃって。運悪く車が来てたんだけど、酔っ払いすぎてて全然気づかなくて……あははっ」


頭を掻きながら、ちょっと気まずそうにテヘペロ風に笑うお姉さん。


「……」


なんだろう。


さっきまで「可哀想な被害者の幽霊さんなのかも」と思って芽生えかけていた同情心が、急速にシュルシュルと萎んでいくのを感じる。


高日さんに振られて、ホストへ行き、泥酔して自爆事故。


ツッコミどころが多すぎて、私の心の中に何とも言えないモヤモヤとした感情が、どす黒い霧のように立ち込めていく。


「と、言うことは……」


私はこめかみを指で押さえながら、精一杯声を絞り出した。


「お姉さんはそのまま不慮の事故でお亡くなりになり……。その腹いせに高日さんを呪おうとして、高日さんの背後にいたけど、偶然にゲジゲジ芋虫の妖に目をつけられ、受肉するための依代よりしろとして捕まってしまって……。さっき私たちが妖を倒したことで、ようやくそこから解放された。……これで、合ってますか?」


お姉さんは、我が意を得たりとばかりに首がもげそうなほど大きく縦に頷いた。


「そうなの! 本当に助かったわぁ!」


「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」


私は本日何度目になるか分からない、地球の裏側まで届きそうなほどの盛大なため息を吐き出した。


 そして、どうしても抑えきれなくなった胸のモヤモヤとした本音が、そのまま容赦なく口から飛び出してしまうのだった。


「あのね、お姉さん! そんな男に騙されて可哀想だとは思いますけど! 振られたからと言って、その腹いせに相手に取り憑いて呪うなんてアホですよ、アホ!」


「え? ええっ……?」


あまりの剣幕に、さっきまで泣いていた幽霊のお姉さんの方がドン引きして引き気味になる。


しかし、一度決壊した私のモヤモヤ大洪水は誰にも止められない。


「おまけに、リセットして人生をやり直したいからって、ホストクラブに行ってどうするんですか!? やり直しの第一歩がホストだなんて、どう考えてもおかしいでしょう! そんなに可愛いお顔をされているんだから、ホストじゃなくて、居酒屋とか、街コンとかに行けば、また全然違った素敵な出会いがあったはずです! そしたらこんな……こんな形で妖に利用されて都合よく操られるなんて、そんなの悲しいじゃないですか……っ!」


気がつけば、私の目にはいっぱいの涙がたまっていた。


騙されて、貢がされて、命を落として、死んで成仏できず妖に利用されて……。


 自業自得な部分もあるけれど、あまりにも報われないお姉さんの人生が、悔しくて悲しくてたまらなかったのだ。


そんな私の涙ながらの猛抗議を見て、幽霊のお姉さんはぽかんと目を見張った。


やがて、その瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出す。


「……私のために、こんなに涙を流してくれるんだね。ふふ、ごめんね、お姉さん。……それから、私をあの化け物から救ってくれて、本当にありがとう」


お姉さんは、心からの泣き笑いの表情を浮かべた。


その優しげな顔を見て、私の涙もさらにボロボロと溢れてくる。


「私、次に生まれ変わったら、絶対に幸せになるね!」


お姉さんが満面の笑みをこぼした瞬間、その輪郭がすうっと透明に透けていった。


 ぽっちゃりとした体がおびただしい数のキラキラとした美しい光の粒子へと変わり、部屋の天井へ向かってゆっくりと昇っていく。


それは、彼女の魂が完全に救われ、未練をなくして成仏していった証だった。


光の残像が消えた空間を見つめながら、私はぽつりと呟いた。


「……お姉さん。次の来世では、絶対に、変な男にだけは騙されないでくださいね」


なんだか、お姉さんに言いながらも、どこか自分自身に言い聞かせているような、不思議と切ない気持ちが胸に広がっていく。


――よし。


良いことをした。


お姉さんも成仏したことだし、私も大人しく布団に戻ろう。


そう思って方向転換しようとした、次の瞬間だった。


私の下半身を、かつてないほどの激痛と違和感が襲った。


「ッ~~~~~~!?!?」


声にならない悲鳴が上がる。


ずっと慣れない正座をしていたこと、そして足の感覚が麻痺していたことが災いした。


両足がこれ以上ないほど限界突破して痺れまくっている。


ハイハイどころの騒ぎではない。


「ぬおおおおおおおっっ!!! 痺れる、痺れるぅぅぅぅ!!」


私は痛みのあまり、廊下の床に文字通り引っ繰り返り、イモムシのように身体をよじらせてジタバタと大暴れした。


手足をバタバタさせながら「あだだだだ!」と涙目でのたうち回る。


スッ。


その時、廊下の向こうから聞き馴染みのある足音が近づき、私の頭元でピタリと止まった。


(……え?)


 嫌な予感がして、涙で濡れた目でそろりそろりと視線を上へ向ける。


そこには、着替えたばかりの佐伯君が信じられないものを見るような冷ややかな目線で私を見下ろしていた。


なんという最悪のタイミング。


氷点下の冷たさを孕んだ声が、廊下でジタバタと芋虫化している私に向かって、容赦なく言い放った。


「……詩樹さん。あなた、一体全体何をしているんですか?」


思わず言葉が詰まり、「え〜っと……」と声を濁した、次の瞬間だった。


スッと私の横に立った佐伯君の手が伸びてきたかと思うと、視界がぐわんと一回転し、急に身体が宙に浮いた。


「ひゃっ!?」 なんと、佐伯君は床でのたうち回っていた私を、まるでお米の袋か何かのようにひょいっと肩に担ぎ上げたのだ。


「え、ええっ!? さ、佐伯君、なんで担ぐのよ!? そこは普通、お姫様抱っこじゃないのっ!?」


体勢の悪さにジタバタしながら抗議すると、下からこれ以上ないほど冷徹な声が返ってきた。


「なんで私が、あなたをお姫様抱っこしないといけないんですか?」


大真面目に逆質問され、私は担がれたままぐぬぬと唸る。


「そこは……物語の定番じゃないのっ?」


「いいえ、違います」


キッパリと秒で否定され、そのまま容赦なく布団へとボフッと放り戻された。


「なんか、違う……。私の想像してた看病イベントと決定的に何かが違う……」


 私が布団にひっくり返ったまま不満を漏らすと、佐伯君は呆れたようにため息をつき、冷ややかな視線を投げかけてきた。


「それなら、ご自分の彼氏にでも頼んだらいいじゃないですか」


「……は!?」


予想だにしない単語が飛び出し、私は布団から勢いよく顔を跳ね上げた。


「彼氏なんていませんけどっ!!」


思った以上に大きな声が部屋に響き渡る。


「……え?」


「……あ」


――ガチガチの、変な沈黙が二人の間に流れた。


佐伯君は一瞬だけ驚いたように目を見開き、私は私で「なんで初恋もまだな私がこんなところで全力のフリー宣言をしてるんだ」と恥ずかしさで顔がカッと熱くなる。


佐伯君は気まずそうにふいっと視線を逸らし、部屋の空気は急速に妙な生暖かさを帯びていった。


(気まずい。死ぬほど気まずい。誰か助けて。)


神様仏様小夜ちゃん様。


――コンコン。


絶妙すぎるタイミングで、再び襖を叩く音が響いた。


「詩樹さん、入りますよ」


ガラリと襖を開けて入ってきたのは、お盆に夕食を載せた小夜ちゃんだった。


 しかし、小夜ちゃんは一歩部屋に足を踏み入れた瞬間、私と佐伯君の間に漂う、何やら言葉にできない不穏かつ微妙な空気感を敏感に察知したらしい。


「……ゴホンッ!」


わざとらしいほど大きな咳払いをして、小夜ちゃんはビジネススマイルを浮かべた。


「佐伯さん、夕食の準備ができましたので、広間の方へ移動してください」


「あ……。わかりました、ありがとうございます」


佐伯君はどこか救われたような顔で立ち上がると、そそくさと私の部屋を後にしていった。


パタン、と襖が閉まる。


嵐が去ったような静けさの中、小夜ちゃんはお膳を床に置きながら、ジト目で私を覗き込んできた。


「……詩樹さん。もしかして、喧嘩でもしたんですか?」


「そうじゃないよぉ……」


私は布団に突っ伏し(つっぷ)たまま、消え入りそうな声で溢した。


「佐伯君がさぁ……急に、彼氏の話をしてきたんだよ」


その言葉を聞いた小夜ちゃんは、頭の上に特大の疑問符を浮かべ、実に不可解そうな表情になった。


「はい? 詩樹さん、彼氏いませんよね? どうしてそんなところで彼氏の話になるんですか?」


「……」


それは私が一番聞きたい。


これ以上喋ると私のライフはゼロになる。


私は布団に顔を埋めたまま、頑なに沈黙を貫いた。


「はぁ……。まぁ、いいですけど」


やれやれと言わんばかりに深いため息をついた小夜ちゃんは、ゆっくりと立ち上がった。


「とりあえず、ご飯ご飯食べてください。ここに置いておきますので、後で下げにきますね」


「うん……ありがと……」


静かに小夜ちゃんが部屋を出ていく。


 残された私は、なんだか自分がものすごく悪いことをしたような、奇妙な罪悪感(悪者になった気分)を抱えながら、ぽつんと置いてかれた温かいご飯を寂しく食べ始めるのだった。


――その頃、広間では。


すでに佐伯君のお父さんや、お弟子さんたちが一堂に会し、先に夕食を進めていた。


遅れて広間に入ってきた佐伯君は、自分の前にお膳が置かれている席へと静かに着き、無言で箸を動かし始めた。


一見するといつも通りのすました顔。


しかし、日本屈指の呪術師であり、父親でもある男の目は誤魔化せない。


何やら息子の様子が、いつもと違ってどこか落ち着かない、妙にトゲトゲした雰囲気を醸し出していることに気がついた。


「朔弥」


お父さんは湯呑みを置き、意地の悪い笑みを浮かべてニヤリと問いかけた。


「あの小娘と、何かあったのか?」


「……何も」


佐伯君は視線すら上げず、一言だけで冷たく返す。


だが、そのあまりにも早すぎる拒絶に、お父さんは心の中で確信した。


(ふてくされているからには……間違いなく、あの小娘と何かあったな)


いつになく余裕のない息子のレアな姿を、お父さんは内心で実に愉快そうに眺めていた。


そこへ、少し遅れて小夜ちゃんが広間へと部屋に入ってきた。


佐伯君の隣の席へと静かに腰掛け、「いただきます」と小さく手を合わせてご飯を食べ始める。


咀嚼そしゃくの音だけが響く広間。


しかし、やはりどうしても気になって仕方がなかったのだろう。


佐伯君は箸を持ったまま、隣の小夜ちゃんへとボソリと声をかけた。


「……あの、詩樹さんは、大丈夫なんですか?」


「何が大丈夫なんですか?」


小夜ちゃんはご飯を口に運ぶ手を止めることなく、極上のビジネススマイルのまま、冷徹なトーンで逆に問い返した。


予想以上の切れ味に、佐伯君は一瞬気圧されながらも言葉を続ける。


「いや……その。一人で、ちゃんとご飯を食べられているのかと思いまして」


担いで布団に放り捨ててきた自覚はあるらしい。


そんな佐伯君に対し、小夜ちゃんはパチリと箸を置き、まっすぐに彼を見据えて言い放った。


「今は、一人にしてあげてください」


「……」


「それから、佐伯さん。――もう少し、デリカシーというものを勉強された方がいいですよ」


有能な小夜ちゃんによる、容赦のない痛烈な一喝いっかつ


あの頑なな若き呪術師が、小夜ちゃんの放つ圧倒的な正論の重圧の前に、小さく肩をすくめた。


「す、すみません……」


蚊の鳴くような声で素直に謝る息子の姿を見て、お父さんは深〜いため息を心の中でつくのだった。


(どうやら朔弥の奴、致命的にやらかしてしまったのだな……。本当に呪術以外は不器用な男だ)


しばらくして、一同が食事を終える頃、女将さんがお盆に載せた新たな薬湯を小夜ちゃんの元へと持ってきてくれた。


「小夜さん、詩樹さんの具合はどうどすの?」


女将さんが心配そうに尋ねると、小夜ちゃんは小さくかぶりを振った。


「ええ、まだ足に力が入らないようで。本人もかなり困惑しているみたいです」


「そうですかぁ……。明日には、ちゃんと動けるようになると良いどすな。お可哀想に」


「お気遣いありがとうございます。この薬湯、詩樹さんのところに持って行きますね」


食べ終えた小夜ちゃんはすうっと立ち上がり、温かい薬湯の器を持って、静まり返った宿坊の廊下を歩いて詩樹の部屋へと向かった。


――コンコン。


「詩樹さん、入りますよ」


声をかけながら襖を静かに開けて部屋に入ると、そこには綺麗に食べ終えられたお膳がぽつりと置かれていた。


「詩樹さん?」


小夜ちゃんがゆっくりと布団を覗き込む。


そこには、すっかり疲れ果ててしまったのか、小さな寝息を立てて健やかに眠っている私の姿があった。


昼間の激戦、お父さんとの大号泣、そして桃花ジジイへの怒りと、感情の起伏が激しすぎたせいで限界を迎えたのだろう。


小夜ちゃんはふっと優しい笑みを浮かべ、私の寝顔を見つめた。


「ふふ、おやすみなさい、詩樹さん」


そっと呟き、新しく持ってきた薬湯をお膳の横に置き、空っぽになったお膳を持ち上げて部屋を出た。


襖を閉め、回れ右をした小夜ちゃんは、思わず「おや」と足を止めた。


薄暗い廊下。


私の部屋のすぐ近くに、ポツンと佇んでいる人影があった。


佐伯君だった。


「佐伯さん。どうされたんですか、こんなところで」


 尋ねる小夜ちゃんに、佐伯君は気まずそうに視線を泳がせながら、消え入りそうな声で答えた。


「いや……詩樹さんに、さっきのことを少し、謝りたくて……」


「あー……」


小夜ちゃんはお膳を抱えたまま、やれやれと困ったような、しかしどこか呆れたような視線を彼に向けた。


「残念ながら、もう寝ていますよ。お詫びなら、また明日にしましょう」


「……そうですか」


完全にタイミングを逃した男は、目に見えて分かりやすく肩を落とした。


「では、私はお膳を置きに広間にいきますので。おやすみなさい」


促すようにそう告げると、小夜ちゃんはお膳を持って広間の方へと戻っていった。


静まり返った廊下に、一人残された佐伯君。


彼は閉まったままの襖を一度だけ寂しげに見つめ、それから重い足取りで自分の部屋へと歩き出した。


(僕は、一体どうしてしまったんだ……。いつもうるさくて、嫌気がするほどだったのに、どうしてここまで……)


胸の中に渦巻く、今までに感じたことのないイライラと、モヤモヤと、奇妙な焦燥感しょうそうかん


自分はいったいどうしてしまったんだろうと、答えの出ない自問自答を延々と繰り返しながら、若き呪術師は暗い廊下をトボトボと自室へ帰っていくのだった。


第八章をお読みいただきありがとうございました!


ツッコミどころ満載ではある回になりましたが、佐伯君のデリカシーのなさ…ぽちゃりお姉さんの恋事情など…

なんとも言えぬ「うーん…」となりましたが!


次回、ボロボロな状態の詩樹の足は無事に動くようになるのか……!?

それでは、次回の更新でお会いしましょう!

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