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第七章:帰ろう!ちょっとその前に(1)

「詩樹さーーーーーーん!!!」


遠ざかる意識の底で、仲間たちの必死に叫ぶ声が、ただ激しく響き渡っていた。


――体が、動かない。


底の抜けた暗闇を、どんどんと深く下へ落ちていくような感覚が私を支配していた。


(小夜ちゃん、今頃もの凄く心配しているだろうな……。泣いてなきゃいいけれど。 それにしても佐伯君、今回はあんまり役に立たなかったなぁ……あ、でもモノクルは上手くキャッチしてくれたっけ。 ……重力を失った体で、私はどこまで落ちていくんだろう。 意識が、もう、保て、な……い……。)


――。 ――――。


「……そろそろ、起きるのでは?」


「いや、まだであろう。これだけ無茶をしたのだ、もうしばらく寝かせておいてやれ」


フッと、何の前触れもなく意識が浮上した。


重苦しい闇は消え去り、気が付けば私は、どこまでも境界のない真っ白な空間に横たわっていた。


すぐ近くで、誰かが楽しげに会話をしている。


 ぼやける視界をどうにか動かすと、私の両脇に、それぞれ誰かが腰掛けて私を見下ろしていることに気が付いた。


(一体、なんの話をしているんだろう?)


 まだ完全に働かない頭で、私はぼんやりと二人の会話に耳を澄ませてみた。


「ふむ。こうして見ると、まだまだ修行が足りぬのではないか?」


「そうは言いましても師よ、この呪印は私でさえも完璧に使いこなすまでには、相当な時間がかかりましたから。よくやった方ですよ」


「はぁ〜……我が弟子よ、そんなことを言っていては甘やかしているのと変わらぬのだぞ。これでは先が思いやられるわ」


 何やら「呪印」やら「修行」やら、不穏で聞き捨てならない単語が頭上を飛び交っている。


すると、私の左側にいた、中年から初老の間の年齢とおぼしき男性が、悪戯いたずらっぽく目を細めて私を覗き込んできた。


「お主、とうに意識はあるようだな……」


――あ。


その声を聞いた瞬間、私の背中に電流が走った。

先ほど妖との戦いの最中、私の頭の中に直接響いてきた、あの楽しげで柔らかな声そのものだったのだ。


「あっ……」 声は、一応出るみたい。


私は掠れた声を絞り出し、真っ先に気になっていた疑問をぶつけてみた。


「……先ほどの戦いで、私の仲間を結界の外に弾き出したのは、あなたですか?」


「そうだ。あのままでは全員巻き添えを食らっていただろうからな。体調も良くない状況で、よくぞ最後まで持ち堪えた」


おじさんはそう言って優しく褒めてくれたが、すぐにふんぞり返って言葉を続けた。


「だが、やはりまだまだ修行が足りん! 剣術の腕は認めよう、さすがは武家の血筋と言っていい。しかし呪術の基礎がなっておらん。だいたいお主は普段から――」


……気のせいだろうか。


なんだか、初対面(?)の幽霊から説教じみた話しをされ始めている気がする。


私が内心で眉をひそめていると、右側に座っていたもう1人の人物――いつか夢に見た、懐かしい面影を持つ人が、苦笑しながら割って入ってくれた。


「師よ、もうその辺にしてはいかがですか? この子のことは私にお任せください」


私をそっと庇ってくれるその物腰は、どこまでも優しかった。


しかし、お説教おじさんはまだ納得がいかないようで、唇を尖らせる。


「――よ、そんなに甘くては、これからの先はどうするつもりだ?」


「そこはちゃんと考えております。まずはこの子の体力が回復しない限りは、何も始まりませんよ。ほら、もう時間です」


 促してくれる右側の人を見て、私は心の中で拍手喝采はくしゅかっさいを送った。


(この人、マジでいい人じゃん……! どっかのおじさんとは大違い……)


感謝の念を送ろうとしたその時、急に視界がぐらぐらと激しく回り始めた。


「……っ、何か、気持ち悪い……」


私が思わずそう呟くと、二人は寂しげに、けれど温かい笑みを浮かべた。


「そろそろ現実の世界へ呼び戻されはじめているようだな。話は一旦ここまでだ。最後に――本当によくやった。偉いぞ、詩樹」


最後にそう告げたおじさんは、もう1人の人と共に、煙のようにスッと空間へ溶けて消えていった。


それと同時に、猛烈な吐き気と目眩めまいが私を襲う。


( う、気持ち悪い……っ!)


 たまらずガッと勢いよく目を開けると――視界の真ん前に、心配そうにこちらを覗き込んでいた佐伯君のお父さんの顔があった。


「うわっ!?」


あまりの至近距離に驚愕し、条件反射で弾かれたように飛び起きた私の頭が、そのままお父さんの顔面へと一直線に向かっていく。


ゴッッッッ!!!


本堂の静寂をぶち破る、鈍く凄まじい衝突音が響き渡った。


お互いの額と鼻が完璧な角度で正面衝突し、激痛が脳天を突き抜ける。


「「ぬっおおおおおおおおおっっーーー!!?」」


私と佐伯君のお父さんは、同時に顔面を強打したまま、揃って絶叫を上げて転げ回った。


「この、小娘っ! いきなり飛び起きる奴があるかぁ!」


鼻をガチッと押さえた佐伯君のお父さんが、いつもの威厳はどこへやら、涙目でひっくり返った高い声を上げる。


私も鼻の奥にツーンと走る激痛に、何か文句の一つでも言い返してやりたかった。


だが、それよりも早く、お腹の底から強烈な破壊衝動を伴った吐き気がせり上がってくる。


「っ……、う、ぐ……っ」


物申したげな口を即座につぐみ、私はたまらず横を向いて胃の中のものを全てぶちまけてしまった。


「ゲホゲホ」と激しい咳が本堂に虚しくこだまする。


「はぁ……はぁ……、あー……気持ち悪いのが、少しは治ったかも……」


涙をねぐいながら、何気なく顔を上げてフリーズした。


視線の先。


 何ということか、そこには呆然と座り込む佐伯君のお父さんがいて、おまけに彼の上質な着物のすその上には、さっき私が放出したばかりのソレが、無残にも直撃していたのだ。


( あ、終わった。)


私は引きつる顔を必死に動かし、消え入るような声で言い訳をかまそうと試みる。


「ご、ごめんなさい……どうしても、吐き気が抑えられなくて……っ」


カミナリが落ちるのを覚悟して身を縮めた。


しかし、お父さんから返ってきたのは、 「ふんっ! あいかわらず、けしからん奴だ」 という、どこか呆れたような、けれど驚くほど穏やかな響きを含んだ声だった。


予想外の反応に驚きを隠せない私の顔を見て、お父さんはフッと小さくため息をつき、真面目なトーンでこう告げた。


「小娘。戦いの前よりも、遥かに顔色が悪いぞ。唇も青紫のままだ」


言われて初めて、私は自分の異変に気が付いた。


私の体は、まるで鉛でも流し込まれたかのように重く、指先一つ動かすのすら億劫おっくうなほどだった。


それどころか、全身がガタガタ、ブルブルと震えて止まらない。


本堂の窓からは、ぽかぽかとした暖かな春の陽気が差し込んでいるというのに。


今の私にとっては、まるで極寒の雪山に放り出されたかのように寒く、歯の根が合わないほどに凍えていた。


しばらくすると、バタバタとこちらへ血相を変えて走ってくる複数の足音に気が付いた。


 重い首をどうにか回して振り向くと、そこには、今にも涙を決壊させそうな小夜ちゃんの顔があり、そのすぐ横には佐伯君がぴったりと付き添っていた。


二人は猛烈な勢いで私に駆け寄るなり、床に膝をつく。


小夜ちゃんは迷うことなく私に抱きついてきた。


私の肩口に顔を埋め、大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、掠れた声で愛おしそうに呟く。


「詩樹さん……っ、お疲れ様でした……! 無事で、本当によかった……っ」


泣きながらも、心の底からほっとしたような小夜ちゃんの優しい笑み。


私も「小夜ちゃん、佐伯君、お疲れ様」と、いつものように万感ばんかんの思いを込めて返したかった。


けれど、流石に今の体調では無理というもので、口元をピクピクと歪ませただけの、なんとも凄まじい引きつり顔を返すのが精一杯だった。


「お疲れ様でした、詩樹さん。……すみません、僕は、あまりお役に立てなくて……」


自責の念を滲ませ、申し訳なさそうに私を労ってくれる佐伯君。


私は残された最後の力を振り絞るようにして、感覚の麻痺しかけた右腕をどうにか持ち上げた。


そして、頼りなく宙を彷徨った手を彼の頭へと乗せ、ぽんぽん、と軽く優しく、叩いてみせた。


いたずらっぽい笑みを含んだ声をどうにか絞り出す。


「佐伯君……ホント……あんまり、役に立たなかったよ……」


すると佐伯君は、あからさまにガクッと肩を落とし、少しムッとしたような表情で言い返してきた。


「……詩樹さん、そこは普通『そんなことないよ、助かったよ』とか、もうちょっと別の労いの言葉が出ないんですか?」


眉をひそめて不満を訴えるその姿を見て、私は泥のような疲労感の中で、どこかホッとしている自分に気が付いた。


(あはは……いつもの佐伯君だ。よかった……)


「何ですか、その満足そうな顔は」


なおも文句を続ける佐伯君だったが、その瞳の奥には、いつもの調子に固執する私を見て「ああ、いつもの詩樹さんに戻ってくれた」と、心から安堵あんどしたような色が浮かんでいた。


それにしても、と私は自身の体をさらに小さく丸める。


「……ねえ、それにしてもさ。いくら春先だからって、この本堂の中、さっきよりも一段と寒くなってない?」


ガタガタと震えながら何気なく呟いた私に、抱きついたままの小夜ちゃんがガバッと顔を上げ、涙目のまま烈火のごとく怒鳴った。


「当たり前です!! 詩樹さん、さっきあれだけ血を流していたんですよ!?」


「え……? 嘘、私、そんな怪我してたの……?」


衝撃の事実に目を丸くする私に、すぐ間近で戦闘を見ていた佐伯君が、信じられないといった様子で眉を寄せる。


「……まさか、覚えていないんですか?」


「うーん……あのゲジゲジ芋虫に激しく吹き飛ばされたところまでは覚えてるんだけど、そのあとは意識が朦朧もうろうとしちゃっててさ。実を言うと、あんまり記憶がないんだよね〜……」


ポリポリと頬を掻きたいが腕が動かない。


 そんな私の告白を聞いた瞬間、その場にいた全員――佐伯君も、小夜ちゃんも、お父さんも雲水住職も、一斉に(そりゃあ……あの状況じゃそうか……)と納得したように、複雑な表情で沈黙してしまった。


「……で、結局私、どこをどう怪我したの?」


沈黙に耐えかねて尋ねると、佐伯君が私の体を気遣うように視線を落としながら、冷静に、かつ的確に負傷部位を告げた。


「右腕の上腕二頭筋じょうわんにとうきんに、妖の爪による深い裂傷。それから、左側の額に大きなたんこぶができています」


上腕二頭筋に、左の額……。


私はその言葉を手がかりに、意識が途切れる直前の、戦いの一連の流れを必死に脳内で手繰たぐり寄せた。


――あ。


「あ〜……。あそこか、なるほどね……」


点と点が繋がり、ようやく記憶のピースがまった。


(そうだ、思い出した……。結界がパリンと割れた一瞬の隙を突かれて、妖の奴、残った左腕の鋭い爪で私の右腕をもろに引き裂いたんだっけ。で、その凄まじい衝撃のまま、私は後ろの結界の壁に頭から派手にぶつかって床に倒れ込んだんだ……)


 己の負傷の理由にようやく納得がいったものの、同時に、だとしたらその後の「妖の完全封印?消滅?」を一体誰がやったのかという疑問が、私の胸にじわりと広がっていくのだった。


どうしても気になって仕方がなくなった私は、思い切ってその場のみんなに訊ねてみることにした。


「ねえ、ところでさ、一つ疑問なんだけど……あのあと、あのゲジゲジの芋虫をどうやって退治したの? 封印したの? それとも消滅させたの?」


さらに、記憶を遡るうちに湧き出てきた最大の違和感も、続けて口に突いて出る。


「それにそもそもさ。あの化け物の鋭い爪をもろに喰らっていたんだとしたら、私の右腕なんて、今頃跡形もなく吹き飛んでいてもおかしくなかったはずでしょ? なんでこれくらいの深傷ふかきずだけで済んでるの?」


 疑問が次から次へと溢れ出す私は、完全に周囲を質問攻めにしていた。


すると、結界の外で見守っていた桃花住職が、ふくよかな顔に穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。


「ゆきもちゃん、それはね、妖の攻撃がその身に届く直前、足元がふらついて体が少しだけ動いておったんじゃよ。偶然にもそれで直撃を免れて、深傷で済んだというわけじゃ。腕が繋がっているだけでも儲けもんじゃよ」


「偶然、体が動いた……?」


桃花住職は優しくそう言ってくれたけれど、私は心の中で(いや、絶対に違う)と首を振った。


(あの極限の戦闘速度の中だ。本当にただ足元がふらついて、わずかに動いた程度で避けられるような、そんな生易しい攻撃では決してなかったはず。)


あからさまに納得がいかないと言わんばかりの私の表情を見て、その場にいた全員たちの空気がわずかに変わった。


 これ以上この話題を掘り下げさせまいと、あからさまに話をそらすかのように、真っ先に先陣を切って立ち上がったのは、なんと佐伯君のお父さんだった。


「ふん……。何はともあれ、小娘の吐いたものが臭くて堪らん。私は先に宿坊に戻り、着替えることにする」


お父さんはぶっきらぼうにそう言い放つと、さっさと着ていた上着を脱ぎ捨てて背後のお弟子さんへと手渡した。


そして、鼻をひくつかせながらスタスタと大股で本堂を後にして行ってしまった。


そのあからさまな便乗エスケープに乗っかるように、雲水住職もまた、私を気遣うような優しい声を上げる。


「高日さんもまだ目を覚ます気配がありませんし、お財布と相談した倍額の請求書を出すのにもまだ少し時間がかかりそうです。詩樹さん、まずは一度宿坊に戻られてはいかがかな?」


 雲水住職のその提案に、私の体を支えていた小夜ちゃんが、我が意を得たりとばかりに勢いよく賛同した。


「そうですね! 一刻も早く、詩樹さんの右腕の手当と応急処置をしたいので!」


「うむ、その方がいい。高日さんが目覚めたらすぐに知らせよう」


雲水住職がそう言って微笑むと、彼に促されるようにして桃花住職もゆっくりと立ち上がり、二人は本堂を後にした。


皆が去っていくのを見送りながら、私は雲水住職が言った『倍額』という言葉で、ある重要なことを思い出した。


「……小夜ちゃん。今回の、高日さんへの依頼請求の件なんだけど……」


まだ完全に回らない舌でそう切り出すと、小夜ちゃんは「お任せください!」と言わんばかりに、自信満々の笑顔を輝かせた。


「詩樹さん、大丈夫ですよ! 抜かりはありません! 最初に予定していた報酬のほかに、当然ながら命の危険に対する慰謝料請求、それから今回の怪我によるスクール(塾)運営の三日間の損失分も、きっちり上乗せして請求するつもりです!」


小夜ちゃんはさらに手元のメモを確認しながら、さすがの有能さを滲ませて言葉を続ける。


「そうそう、スケジュール調整のために、生徒の皆さんには私からお休みの連絡を入れておきますね。今回は帰りの移動もゆっくり、静養しながら帰りましょう!」


あまりの頼もしさに、私は心の中で拍手を送った。


と同時に、ちゃっかりとした悪知恵が私の脳裏をよぎる。


すかさず私は、小夜ちゃんに向かってボソボソと提案を付け足した。


「……小夜ちゃん。三日分じゃなくて、五日分にして。で、生徒たちに配るお詫びの菓子折り代と……私たちの『休暇代』っていう名目も、運営損失代の項目に紛れ込ませておいて」


私のその発言を聞いた瞬間、小夜ちゃんはパッと目を見開いた。


「詩樹さん……たまには良いことを言いますね! わかりました、追加の二日分も上乗せして計算し直します! それに、さっき予備の結界(道具)も使っちゃいましたし、その消耗品費の分も、特記事項に特大の文字で入れちゃいますね!」


キラリンと、小夜ちゃんの目が敏腕びんわん事務員のそれに変わる。


彼女の頭の中で、パチパチパチ……と小気味よく算盤そろばんを弾く音が、今にもこちらまで聞こえてきそうな勢いだった。


「ふふっ……頼んだわよ……」


私は思わず笑みがこぼれた。


「あ、私、先に宿坊の女将さんにお部屋の用意をお願いしてきますね。佐伯さん、詩樹さんを運んでいただけますか?」


小夜ちゃんがパッと立ち上がってテキパキと指示を出すと、傍らにいた佐伯君も真剣な表情で頷いた。


「わかりました。ひとまず、このままロビーに向かえば良いですか?」


 目の前でそんな事務連絡を話し合う二人の光景を視界に収めながら、私は(ああ、これで本当に終わったんだな……)と、心から安堵した。


――そして、張り詰めていた糸が完全に切れた。


再び急速に力が抜け、私の意識は暗闇へと没していく。


私の支えを失った体が、横たわっていた小夜ちゃんの方へと全体重をかけて倒れ込んだ。


「えっ!? 詩樹さん!? 詩樹さん、しっかりしてください!」


突然のことに小夜ちゃんが慌てて叫ぶ。


その様子を見た佐伯君が、瞬時に冷静な判断を下して声を張った。


「小夜さん! 詩樹さんは僕が運びますから、早く女将さんへ部屋の用意を頼んできてください!」


「わ、わかりました! 詩樹さんをお願いします!」


小夜ちゃんは私の体をそっと佐伯君の腕へと預けると、弾かれたように本堂を飛び出し、足早に宿坊の方へと走っていった。


ドタバタと遠ざかる足音が消え去り、静寂が戻る。


誰もいなくなった広い本堂には、気絶した私と、佐伯君の二人だけが取り残されていた。


佐伯君は床に伏した私の体を横抱きにしようと、そっとその細い体に腕を回し、抱き上げた。


その、瞬間だった。


「……詩樹、さん……」


耳元で、今まで聞いたこともないような、ひどく掠れた震える声が響いた。


 いつもどこか一歩引いて、崩さない距離を保っていたはずの佐伯君が、私の体をその腕の中に強く、きつく、壊れ物を扱うかのように愛おしく抱き寄せたのだ。


腕に伝わる彼の体温と、かすかな衣服の擦れる音。


佐伯君はしばらくの間、無言のまま私を愛おしそうに抱きしめ続けていた。


やがて、深く息を吐き出す気配がして、彼はゆっくりと立ち上がる。


そして、私の体をしっかりと腕の中に抱えたまま、一歩一歩、静かな足取りで宿坊へと向かって歩き出していった。


心地よい一定の揺れと、佐伯君の確かな体温を感じる中。


 私の耳元に、彼の低く小さな、どこかぼやくような独り言が微かに聞こえた気がした。


「……ここの渡り廊下って、こんなに長かったっけ」


いつもより少しだけ早鐘を打っているような彼の鼓動が耳元に伝わってくる。


佐伯君はさらに何かを呟いていた。


「それにしても、本当に――」


けれど、最後の方の言葉は風に溶けるようにして聞き取れず、私の意識は再び心地よい深い闇の底へと遠のいていった。


――。


――――。


再び、ハッと意識が覚醒した。


 ゆっくりと目を開けて周囲を見渡すと、そこは先ほどの冷え切った本堂ではなく、畳の香りが心地よい和室だった。


どうやら、小夜ちゃんが女将さんに頼んで用意してくれた宿坊の一室のようだ。


「ん……っ」


重い体をどうにか動かしてゆっくりと起き上がってみると、自分の内側から体温がしっかりと戻ってきていることに気が付いた。


「……あ、少し、体調が戻った気がする。あの酷い寒気も震えも、すっかり治まってるみたい……」


ひとまず最悪の危機は脱したのだと、胸を撫で下ろしたその時だった。


じっと、部屋の隅から向けられる強い視線を感じた。


嫌な予感がして、恐る恐る横を向いてみる。


――するとそこには、腕を組んでどかっと座り込んでいる、またしても佐伯君のお父さんの姿があった!!


「ぶっ……!?」


デジャヴなんてレベルではない!。


私の脳内の思考回路は、本日何度目か分からない完全停止を迎えた。


まさか、着替え終わってここで待機していたのだろうか。


私がパチクリと目を丸くしたまま、お互いに無言でしばらく見つめ合う。


沈黙を破ったのは、お父さんの方だった。


「……体の具合は、どうだ?」


驚くほど、低く、優しい声だった。


お父さんは静かに立ち上がると、布団の脇に腰掛け、大きなてのひらで私の頭をそっと撫でてくれた。


その掌の圧倒的な暖かさに触れた瞬間、私の視界がじんわりと涙で滲み始める。


「……っ、本堂の時より、だいぶ……マシに、なりましたよ……」


今にも決壊して泣き出しそうな声を、どうにか絞り出す。


すると、お父さんはさらに私の方へとジリッと距離を詰め、その大きな体で私を優しく包み込むように抱きしめてくれた。


そして、もう一度、ぽんぽんと私の頭を大きな手で撫でながら、静かに語りかけてくれたのだ。


「小娘、今までずっと……誰にも弱音を吐くことなく、一人で突っ走ってきたのだろう。あのギリギリの状態の中、よくぞ今まで堪えたな」


――その言葉は、私の胸の奥にずっとしまい込んでいた、一番触れられたくない、けれど誰かに気づいてほしかった寂しさを、綺麗に見透かしていた。


誰の目から見ても「明るく、能天気な詩樹」でいなければならなかった日々。


誰も頼れず、ただ前を向くしかなかった孤独。


 お父さんの腕の中で、今まで必死に張り詰めて我慢してきた「何か」が、音を立てて木っ端微塵に弾け飛んだ。


「う、あ……っ、うわあああああああん……っ!!」


私はもう、体裁もプライドも何もかもを投げ出して、お父さんの着物の胸元に顔を埋めたまま、まるで小さな子供のように大声を上げて泣きじゃくった。


佐伯君のお父さんは、私の背中を大きなてのひらで優しく叩きながら、静かに言葉を紡いだ。


「今のうちに、たくさん泣いておくがいい。……あの二人が戻ってくるまでの間だけだ。今のうちだけ、いくらでも甘えておけ」


 その言葉に甘えさせてもらい、私はこれまでの人生の分まで泣き叫ぶように、ただただ涙を流し続けた。


しばらくして、ようやく心が落ち着いて涙が引いた私は、お父さんの胸元に顔を埋めたまま、ふと思いついた疑問を口にしてみた。


「……あの、佐伯君のお父さん。さすがに『お父様』って呼ぶのは、私の柄じゃないので、……普通に『お父さん』って呼んでも良いですか?」


私のぶしつけな質問に、お父さんは「ふむ……」と言わんばかりに少しだけ視線を泳がせたが、やがて短く応じた。


「まあ、良いだろう。小娘の呼びやすいように呼べ」


ぶっきらぼうだけど、確かに許してくれたその言葉に私は無性に嬉しくなってしまい、本当に実の父親に甘える子供のように、もう一度ギュウッとその体に抱きついた。


すると、お父さんは小さくため息を漏らし、私の頭上でぽつりと呟いた。


「……わしにも、もし娘がおったら、小娘のような、生意気で騒がしい娘に育っていたのかも知れんな」


どこか遠い目をして、寂しげに微笑むお父さん。


(……ん? 生意気で騒がしいって聞こえた気もするけど……でも、今の言葉、なんだかちょっと意味深だな……?)


その言葉の裏にある何かに、私は微かな違和感を覚えた。


「……少しばかり、甘やかしてくれて、ありがとうございました」


私は気恥ずかしさを隠すように、ゆっくりとお父さんの体から離れた。


――その、瞬間だった。


べちょっ……びよ〜〜〜〜〜〜〜ん。


 世にも恐ろしい、そして驚異的な粘着性を伴った「透明な液体」が、私の鼻からお父さんの高級な着物の胸元に向かって、綺麗な放物線を描いて伸びていた。


(嘘でしょ!?)


ボロ泣きした代償が、今、最悪の形で具現化している。


(さすがにこれは、本堂でのやらかし(嘔吐)を遥かに凌駕りょうがするレベルでヤバすぎる!! )


「えっ、あ、ちょっ、ティッシュ!! ティッシュどこ!?」


私が青ざめてあわあわと空間を引っ掻いていた、まさにその時。


ガラッ! と景気よくふすまが開いた。


「詩樹さん! 目が覚めましたか!?」


元気よく入ってきた小夜ちゃん。


そしてそのすぐ後ろには、お盆を持った佐伯君の姿。


次の瞬間、二人の目に飛び込んできた「お父さんの胸元と私の鼻が、一本の太い鼻水で固く結ばれている」というサイコホラーな光景に、本日何度目になるか分からない二人の思考回路が完全停止した。


お父さんは自分の胸元と私の顔を交互に見つめ、ワナワナと全身を怒りで震わせ始めた。


「お、お主……っ! この小娘ーーーーっ!! 一度ならず二度までも、わしの着物を汚しおってからにぃぃぃ!!!!」


宿坊の天井が落ちんばかりの大怒鳴り声が室内に響き渡る。


 お父さんは怒髪天どはつてんく勢いでガタッと立ち上がったが、驚くべきことに、その「びよ〜ん」と伸びた鼻水は全く切れる気配がない。


お父さんが立ち上がったことで、さらにその長さと張力を増し、ピンと張り詰めたまま二人を繋ぎ止めている。


「ぬうっ!? なんだこの強度は! 小娘、お主の鼻水は妖の類いか何かなのか!? ええい、ティッシュだ! ティッシュはないのか!!」


自慢の呪力でもちぎれない(?)鼻水を前に、完全にパニックになりながら部屋の周りをキョロキョロと見回すお父さん。


シリアスな大物呪術師の見る影もないその大慌てな姿に、私のツボが完全にぶち壊れた。


「あ、あははははは! ひーっ、お父、さん、、ご、めん、あははははは!!」


お腹を抱えて大爆笑する私に、お父さんの顔が真っ赤に沸騰する。


「笑い事か! けしからん、もう部屋に戻るっっ!!」

お父さんは鼻水を繋げたまま、怒り狂って襖の方へと猛突進した。


その迫力に恐怖した小夜ちゃんが「ひゃいっ!」と悲鳴を上げて横に避ける。


その後に続いていた佐伯君も、慌てて避難しようとした――その時だった。


ベチョッ。


お父さんは、すれ違いざま、佐伯君の胸元へ向かって「これを受け取れ」と言わんばかりに、自分の着物についていた鼻水の根元をバシッと叩きつけた。


完全なる嫌がらせ(選別)である。


「――え?」


 フッと佐伯君が自分の胸元を見下ろした瞬間、お父さんの力強いステップによって、限界まで伸びきっていた鼻水がようやくパチンと綺麗に切れた。


お父さんはそのまま「ふんっ!」と鼻を鳴らして廊下の奥へと去っていく。


残されたのは、部屋で涙を流して爆笑している私と、唖然とする小夜ちゃん。


そして、自分の白いシャツの胸元に、詩樹の鼻水(お父さんからの選別仕様)をビッタリとくっつけられたまま、石のように硬直している哀れな佐伯君の姿だけだった。


爆笑が止まらない私をよそに、小夜ちゃんが恐る恐る、ぎこちない動きで佐伯君の方へと振り向いた。


 見れば、佐伯君が両手で持っているお盆が、ガタガタガタガタ……と小刻みに激しく揺れ始めている。


怒りか、それとも絶望ゆえの震えか。


慌てて小夜ちゃんが「さ、佐伯さん……! 私がお盆を持ちますね」と、彼の固まった手からサッとお盆を掠め取った。


お盆という重しを奪われた佐伯君は、胸元のソレを凝視したまま、怒りで震える声を絞り出す。


「こ、これは……一体どういう……」


完全に言葉に詰まりながら、彼は殺意の籠もった視線をのたうち回って爆笑している私へと向けてきた。


向けられた私はといえば、もう限界だった。


「あはは、っ、だ、め……っ、あははは! 笑いが、ひっやぁはっ、止まらな……ッ! い、息が……あははは! っはははは、あは、は……っ!!」


とうとう完全に笑い上戸じょうごのスイッチが入ってしまい、酸欠で涙を流しながら畳を叩き続ける。


そんな私を、佐伯君は北極の氷よりも冷たい目線で見下ろしながら、ボソッと、けれど地を這うような低い声で言い放った。


「……そのまま笑い転げて、極楽浄土へ行ってください」


それだけ言うと、佐伯君は向きを変え、凄まじい足取りで部屋を出て行ってしまった。


パタン、と襖が閉まる。


小夜ちゃんは深いため息をついて、呆れたように私を見た。


「詩樹さん、いくら何でも笑いすぎですよ」


そう言いながら側へとやってきて、私の隣に静かに腰掛けた。


彼女が持ってきたお盆の上には、小さな器に入った薬湯が載っている。


そこから立ち上る、なんとも言えない独特で強烈な漢方の匂いが私の嗅覚を容赦なく刺激し、そのあまりの不味そうな悪臭に、ようやく私の爆笑がピタリと止まった。


「はぁ〜……。た、助かった……。あのまま本当に、笑いながら極楽へ旅立つところだったよ……」


ゼェゼェと息を切らしながら胸を押さえる私に、小夜ちゃんは小首を傾げ、実になだらかな聖母のような笑顔でこう言った。


「ふふ、笑いながら極楽に行けるなんて、とっても幸せなことだと思いますよ?」


「……っ」


 ふんわりとした笑顔のはずなのに、なぜだろう、今の小夜ちゃんの言葉には妙な、底知れない怖さを感じて背筋がゾクッとした。


「そ、そうだね……ははは……」


引きつった笑みを返す私に、小夜ちゃんは待ってましたとばかりに、その薬湯を目の前へと差し出してきた。


「さあ、冷めないうちに飲んでください」


目の前に突きつけられた液体の、あまりにも異様なドス黒さと匂いに、私は思わず顔をしかめる。


「ねえこれ、本当に人間が飲めるものなの……?」


「はい、大丈夫ですよ。女将さんのお手製の薬湯で、さっきまで気絶していた詩樹さんにこれと同じものを飲ませましたから」


さらりと、何でもないことのように言う小夜ちゃん。


私はその言葉に引っかかりを覚えた。


――飲ませた?


「……小夜ちゃん。気絶してた私に、これ飲ませたの?」


「え?」


「いや、だからさ。意識がなかった私に、小夜ちゃんが付きっきりで飲ませてくれたの?」


そう尋ねると、小夜ちゃんは一瞬だけ目を泳がせ、「え、ええ……まあ……」と、あからさまに歯切れの悪い返事を返してきた。


「……怪しい」


私は目を細め、ジト目で小夜ちゃんをじっと見つめる。


(意識のない人間に液体を飲ませるのって、結構大変なはずだ。まさか小夜ちゃん、私に無理やり流し込んだのか、それとも……まさか、さっき怒り狂って出て行った『誰かさん』が体を張って手助けでもしたのだろうか。)


「ほら、怪しくありません! 冷める前に早く飲んでくださいっ!」


私の視線から逃げるように、小夜ちゃんがぐいぐいと器を押し付けて催促してくる。


私はこれ以上の追及を諦め、渋々と息を止めながらその激苦な液体を口へと運んだ。


(……解せん!!)


喉を焼くような苦味に悶絶しながら、私は心の底からそう愚痴をこぼすのだった。


第七章をお読みいただき、ありがとうございました!

前章までの命がけのシリアスな死闘から一転、ようやくいつもの(?)空気感が戻ってまいりました。

――が、戻ってきた結果がこれです(笑)。


ちなみに、気絶している詩樹に一体「誰が」「どうやって」あの激苦な薬湯を飲ませたのか……?

小夜ちゃんの意味深な笑顔の理由は…??

次章からその意味深な理由が明かされます!

ぜひ次回もお楽しみに!

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