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第六章:懐かしき面影(2)

その言葉に力強く頷き、私はモノクルの奥の目を妖しく光らせながら、不敵にニヤリと笑った。


「さて、それじゃ始めましょうか!」


覚悟を決めた私の声が、静まり返った本堂に凛と響き渡る。


重みを増していく右手の震えをギュッと握りしめ、私はあごを小さくしゃくって、正面に構える雲水住職へと合図を送った。


「うむ……!」


雲水住職は低く短い声で応じるや否や、凄まじい体躯たいくを揺らして一歩前に踏み出した。


今もなお恐怖でガタガタと震え続けている高日さんに向かって雲水住職の声が飛ぶ。


「高日さん、早く上着とシャツを脱いでください! 体内で蠢く妖の状態を正確に確かめるには、脱いでもらわねばならない!」


その高級そうなジャケットに手をかけようとした、その時だった。


「触るな! このスーツは高いんだ! 破れたらどうする、自分で脱ぐ!」


高日さんは雲水住職に向かってそう言い放つと、プライドを必死に保とうとするように、ガタガタと震える手で自ら上着を脱ぎ捨てた。


そこから彼があまりにも、もたついていた。


恐怖で指先が全く言うことを聞かないのか、シャツのボタンに手をかけたまま、いつまで経っても外すことができない。


その様子をじっと見ていた雲水住職の額に、ピキリと青筋が浮かぶ。


「――ええい、もどかしいっ!」


普段の穏やかさからは想像もつかないほどイラついた声を上げると、雲水住職は躊躇なく手を伸ばし、高日さんのシャツを一気に引きちぎって脱がした。


ブチブチブチッ! と虚しくボタンが激しく飛び散り、高日さんの上半身が露わになる。


「――っ!? なんてことをするんだ、雲水!このシャツがいくらすると思っているんだ!!」


半裸にされた高日さんは、取り乱しながら大声を上げて住職を怒鳴り散らす。


命が危ないというのに、どこまでも自分の見栄と金額のことしか頭にない。


 そんな彼の傲慢な罵倒が部屋中に響き渡る中、私はただただ呆れ果てた目でその様子を見つめていた。


(……この期に及んで、まだそんなことを言っている場合か?)


ハァ、と心の中で深くため息をつく。


しかし、高日さんの騒ぎ声とは裏腹に、彼の肌に浮かび上がる「異変」は一刻の猶予もないことを告げていた。


ここから先へ進むため、私は隣に立っている佐伯君に声をかけた。


「佐伯君、行くよ」


「了解です」


私と佐伯君は呼吸を合わせ、涼やかな鈴の音が微かに響く『風鈴の二重結界』の中へと同時に足を踏み入れた。


結界の内側は、外とは比べ物にならないほど濃密な妖気で満ちていて、肌がじりじりと焼けるような錯覚を覚える。


―― 一瞬、息を呑む。


私は左目にかけたモノクルで、上半身裸になった高日さんの「今の状態」を見極めようと高日さんへと歩み寄り目を凝らして確かめた。


見えてきたのは、予想を遥かに超える最悪の光景だった。


「思っていた以上に進行が進んでる……っ! 雲水さん!ここまで放置していたんですか!?」


すでに妖の身体は、彼の半分以上を侵食し尽くしている。


思わず声を上げ、雲水住職の顔を見て問い詰める。


だが、雲水住職は困惑したように首を振った。


「いいえ。進行を食い止めるため、私の法力を注いだ珠数を彼に渡し、肌身離さず身につけるよう伝えてあったのですが……」


「珠数……?」


私は弾かれたように高日さんの腕に視線を落とした。


しかし、そのたくましい両腕のどこを見回しても、それらしきものは見当たらない。


「高日さん。雲水住職から渡された珠数は、一体どうされたのですか?」


私の冷ややかな問いかけに、高日さんはバツが悪そうに視線を泳がせながら、悪びれもせずこう答えた。


「いや、数日は身につけていたんですよ? ですがねぇ……あんなゴツゴツした珠数、あまりにも不格好でしょう。お洒落なビジネススーツにはどうしても似合わないから、すぐに外して机の引き出しに入れましたよ」


あまりにも身勝手すぎるその言葉に、私は思わず頭が痛くなった。


「……呆れた」


ぽつりと、乾いた一言が口から漏れる。


モノクル越しに見える侵食の速度は、今この瞬間も高日さんの命を蝕み続けているというのに、この男は。


私はわざと重苦しいトーンに声を落とし、彼の目を見据えて告げた。


「高日さん。ここまで進行していたら……最悪の場合、もう妖を引き剥がせられないかもしれませんよ?」


「ひ、引き剥がせない……っ!?」


 私の軽い脅し文句に、高日さんの顔から一気に血の気が引き、ガタガタと全身の震えを激しくさせながら、今度は私の足元にすがりついて叫ぶ。


「た、助けてください! お金ならいくらでも、倍額払いますから! だから、助けて下さい!頼みます!!」


倍額、ときた。 命の値段までお財布と相談できると思っているらしい。


(……はぁ。ますます嫌になってきた)


心の中で深いため息をつきながら、私は縋りつく高日さんから一歩身を引き、背後に控える佐伯君へ、スッと目で合図を送った。


――佐伯君、準備を。


言葉にせずとも、私の視線だけで全てを察した佐伯君が、音もなく一歩前へと踏み出す。


 彼は私と面と向かい合うように位置を変え、私の正面へと着いた。いつでも私のサポートに入れる、完璧な間合いだ。


私はすぐに視線を戻し、雲水住職へと指示を飛ばした。


「雲水さん! これ以上、妖が体内に入り込まないよう、法力で奴を身体から炙り出してください!」


「わかりました!」


雲水住職が力強く応じ、高日さんの身体へ容赦なく純度の高い法力を流し込む。


その瞬間だった。


高日さんの背中の肉が、まるで生き物のようにボコボコと大きくうねりを上げた。


皮膚の裏側を何かが激しく這いまわっている。


あまりの激痛と、自身の肉体が変貌していく恐怖に、高日さんは鼓膜を突き刺すような悲鳴を上げた。


「ヒィぃぃぃーーーーーーっ!!」


「ソレ」が現れたのは、彼の右肩から肩甲骨の間のことだった。


――ギチ、ギチギチギチ……。


肉を引き裂くような不気味な音がこだまし、どす黒い形あるものが皮膚を押し上げて這い出てくる。


「あ、あ、ひぎぃっ……!」


自身の背中から現れたおぞましきモノを間近で目撃した高日さんは、恐怖と衝撃のあまり、そのまま白目を剥いて床へと崩れ落ち、気絶した。


ドサリと倒れた高日さんを見下ろし、私は感情の消えた声で冷たく言い放った。


「……やれやれ。静かになって助かったわ」


その瞬間、傍らにいた佐伯君と雲水住職の背筋に、冷たいものが走る。


先ほどまでの、どこか抜けたところのある彼女の雰囲気は完全に消え失せていた。


二人の肌をヒシヒシと刺すのは、詩樹の全身から立ち上る、異様なまでの圧倒的な威圧感。


それは、目の前にいる妖に対する恐怖とは全く別の、肌を粟立たせるような「何か」だった。


すっと据わった詩樹の瞳には、冷徹な、いや、それ以上の何かを思わせるような凄みが宿っている。


(……誰だ?)


あまりの変貌ぶりに、佐伯君と雲水住職は同時に、目の前の詩樹がまるで見知らぬ他人のような錯覚に陥り、思わず息を呑んだ。


そんな張り詰めた空気を切り裂くように、高日さんの背中から巨大な芋虫のような形をした妖が這い出てきた。


どす黒い粘液を滴らせながら身を震わせた。


『げひっ、げひひひひっ……!』


耳障りな甲高いうめき声が、部屋の中にこだまする。


『あと少し……あと少しで、この人間の肉体を喰らい尽くして、完全体になれたのによぉ……!』


妖はねじ切れたような首を動かし、不気味に笑いながら詩樹を睨みつけた。


対する詩樹は、眉一つ動かさずにその異形を見据える。


「それは残念。だけど……素直にその身体を返して、大人しく引き下がるって感じではなさそうね?」


静かに、しかし有無を言わせぬトーンで妖に問い詰める。


すると、妖は一瞬その動きを止め、犬のように鼻をピクリと動かした。


『……? げひっ、げひっ……、貴様に言われたくないなぁ。その匂い、あやつと同じ匂いだ……』


妖の細裂けた口元が、さらに醜く吊り上がる。


『あぁ〜……分かったぞ。お前、あやつの子孫かぁ? 魂に染み付いた、あの忌々しい『陰陽の呪印』の匂い……げひっ!』


ニヤリと、確信に満ちた邪悪な笑みを浮かべた瞬間――妖の全身の毛が逆立った。


『死ねぇいっ!!』


凄まじい咆哮とともに、妖は詩樹に向かって跳躍ちょうやくする。


空気を引き裂くような鋭い爪が、容赦なく詩樹の身体を引き裂こうと迫り狂った。


眼前に迫る、おぞましき異形の凶刃。


しかし、詩樹の瞳に怯えの色は微塵もなかった。


それどころか、詩樹の口元は、獲物を捉えた肉食獣のようにニヤリと吊り上がる。


「ゲジゲジの芋虫め、相手してやるよ」


低く鋭い、容赦のない声。


次の瞬間、詩樹の手元に握りしめていた鞘から霊刀がするりと音を立てて解き放たれた。


キィィィィィィン――!!


部屋の空気を一変させるほどの、澄み渡るような、しかし圧倒的な殺気を孕んだ金属音が響き渡る。


私は一歩も引くことなく、恐るべき踏み込みで霊刀を真っ直ぐに構え、迎え撃った。


ガギィィィィィィンッ!!!


火花が激しく飛び散る。妖の硬質な爪と、詩樹の放つ霊刀が正面から激突し、凄まじい衝撃波が宿坊まで行き渡りガタガタと震わせた。


人間一人を容易く両断できるはずの一撃を、詩樹の細い両腕に完璧に受け止められ、妖が驚愕の声を漏らす。


『ギ、ギギッ……!?』


詩樹は刀身にさらなる力を込め、妖の巨体を力任せに押し戻した。


「さぁ、這い出てきたことを後悔しなさい」


弾き飛ばされた妖は、憤怒ふんど咆哮ほうこうを上げながら、再び猛然と詩樹へと襲い掛かる。


目にも留まらぬ速さで繰り出される凶爪の嵐。


しかし、詩樹は最小限の動きで、その猛攻を霊刀の刃で正確に、いとも容易く受け流していく。


キィン、ガギィン、と激しい火花が薄暗い本堂を照らす。


(……待って。私、どうしてこの攻撃を『知って』いるの?)


戦いながら、詩樹の脳裏に奇妙な既視感デジャヴ去来きょらいした。


それは、左目にかけたモノクルが映し出した、いつかどこかの戦いの光景。


(一度、過去に戦ったことがある。だから、この妖の攻撃パターンが手に取るようにわかるっ!!)


その時の記憶が、今、パズルのピースがまるように目の前の戦闘と重なり始めていた。


一方、それは妖の側にとっても同じだった。


 どれだけ鋭い一撃を繰り出しても、目の前の詩樹にはかすりもしない。


それどころか、無駄のない洗練された刀捌かたなさばきに、忘却ぼうきゃく彼方かなたにあった恐怖の記憶が呼び覚まされていく。


『ぐ、ぬぅ……! この小娘……あいつの影が、重なる……っ!?』


妖の醜い顔に、徐々に焦りの色が混じり始める。


それでも、生き残りをかけた妖の攻撃は、より狂暴で激しいものへと変じていった。


激化する猛攻を霊刀で受け流しながら、私はそれを見よがしに、さらに妖を煽るような言葉を投げかけた。


「あらら〜? 随分と顔色が悪くなっているわよ、芋虫さん!」


言い放った瞬間、私は一瞬の隙を突き、妖の脳天へ向かって重い一撃を容赦なく喰らわした。


ガギィィィンッ! と鈍い衝撃音が響き、さすがの妖も一瞬、大きくふらつかせる。


しかし、奴はすぐに怒り狂ったように吠え、さらに狂暴さを増した攻撃を次々と繰り出してきた。


私は紙一重でそれをかわしながら、わずかな横目で背後の佐伯君たちの状況を確かめた。


少しでも彼らの作業の時間を稼がなければならない。


(佐伯君、早く……! このまま長引けば、本当に限界に達してしまう……!)


不敵な態度を崩さない私だったが、その心の内では、体力の限界が今まさに間近にまで迫っていることに、激しい焦りを感じてやまなかった。


その頃、背後では雲水住職と佐伯君が、気絶した高日さんの身体から妖の残滓ざんしを引き離すべく、必死の攻防を続けていた。


「思っていた以上に根が深い……! どうにかしなければ、詩樹さんの負担が増してしまいます!」


普段の冷静さを失い、焦りを露わにする佐伯君。


雲水住職もまた、額から滝のような汗を流し声を荒らげた。


「分かっている! 焦らすな……っ! これでも全力を注いでいるのだ! どういうわけか妖の『尾』が見えてこん! 一体どうなっているんだ!?」


雲水住職の怒号どごうに近い焦燥しょうそうの声が響く中、佐伯君は作業を進めながらも、前線で一人妖と戦い続けている詩樹のことが心配でならなかった。


激しい金属音と風切り音が絶え間なく鳴り響く方へ、彼はわずかに頭を上げ、必死に前方の様子を伺った。


その瞬間、佐伯君の目に見るからに危うい光景が飛び込んでくる。


激痛に耐えるような歪んだ表情、そして何より、激しい猛攻をさばく詩樹の足元が、一瞬ガクリと大きくふらついたのだ。


(くっ……! 思っていた以上に、詩樹さんの体力が……!)


限界を隠して時間を稼いでくれているのだと察し、佐伯君の胸に焦りが突き刺さる。


一刻の猶予もない。限界が近い。


そう判断した佐伯君は、鋭い眼光で高日さんの身体を見据えた。


「――私の呪力も貸します。住職、合わせてください!」


佐伯君は自身の呪力を一気に練り上げ、住職の法力へと注ぎ込んだ。


 二つの異質な力が混ざり合い、高日さんの身体を包み込む。


その強大な呪力の波動に、詩樹と戦っていた妖が弾かれたように振り返った。


『――ッ!? 小癪こしゃくな、呪術師がおるのか!! げひぃぃぃーーーーーーっ!!』


邪魔者を先に排除すべく、妖は詩樹から標的を変えた。その巨体を翻し、無防備な佐伯君たちへと向かって、空気を爆破ばくはせんばかりの勢いで鋭い爪を振り下ろす!


「危ないっ!!」


雲水住職の悲鳴が響く。


間に合わない――そう誰もが思った、その瞬間。


斜め後ろから、空間ごと切り裂くような速度で詩樹が飛び込んできた。そして大気を激しく引き裂く風の音が轟く。


「よそ見をするもんじゃないよっ!!、ゲジゲジの芋虫ーっ!!」


ズバァァァァァァンッ!!!


『ギャガァァァァァーーーーーーーッ!?!?』


鼓膜が破れんばかりの絶叫が本堂や宿坊にまで響き渡った。


詩樹が放った渾身の一太刀は、襲い掛かろうとした妖の右腕を跡形もなく吹き飛ばしていた。


豪快に宙を舞う妖の腕が、ドサリと床へ落ちる。


残された切り口からドス黒い霧が噴き出す中、詩樹は霊刀を鋭く振り抜き、妖の巨体を冷徹に見つめていた。


 右腕を失った妖は、激痛と恐怖に狂ったようにのたうち回り、そのまま出口を求めて結界の壁へと何度も激しく体当たりを始めた。


ドスン、ドスンと本堂全体が揺れるほどの衝撃が走るたび、限界を知らせるように、結界の風鈴がカララン……とよどんだ鈍い音を立てて鳴り響く。


結界の崩壊は、もう時間の問題だった。


「はぁ、はぁ……っ!」


 激しく上がる息を抑えきれず、私の額からは止めどなく冷や汗が滲み出て、視界を遮るように流れ落ちる。


妖の猛攻を受け止め続けている右腕は、すでに鉛のように重く、感覚が麻痺しかけていた。


握り締めた霊刀がガタガタと頼りなく音を立てて震える。


私の身体は、もはや完全に限界を迎えていた。


一度でも判断を間違えれば、即刻あの世行きだ。


一瞬の油断も許されない。 背後の高日さんの状況をこの目で確かめたい衝動に駆られたが、私はすぐにそれを否定した。


振り返って目視するだけのわずかな動作すら、今の私にとっては致命的な隙になりかねない。


これ以上、無駄な行動で体力を削りたくはなかった。


 私は妖から一切視線を外さないまま、口頭で状況を把握しようと、背後の佐伯君へ声を張り上げた。


「今の高日さんの状態は!? すぐにでも引き離して、結界の外に連れ出せそう!?」


私の問いかけに、すぐさま後ろから悲痛な佐伯君の声が返ってくる。


「すみません……! まだ、時間がかかりそうです……!」


妖がまだ結界に体当たりを続けている。


冷たく見据えたまま、詩樹の口から容赦のない言葉が突き放すように漏れ出た。


「……あなた達、時間かけ過ぎ、邪魔。早く切り離して、結界の外に出て」


その氷のように冷徹な声に、高日さんの身体へ必死に呪力を注ぎ込んでいた佐伯君が、悲痛な表情で視線を上げた。


「詩樹さん、あと少し……あと少しだけ時間を下さい!」


わずかにピリッとした冷めた空気が漂い、詩樹がため息を少し漏らした。


「あと五分だけ。それ以上は無理、結界が持たない」


詩樹は視線を変えないまま、左目に触れた。


 そして、かけていたモノクルを躊躇なく外すと、背後の佐伯君に向かって正確に投げ渡した。


カツン、と佐伯君が両手で宙を舞ったモノクルを完璧にキャッチする。


「詩樹さん、これは……?」


「妖は、核の根元から力を注がないと切り離せない。――それで『視点』を合わせなさい」


一言そう添え終えた瞬間には、詩樹の身体は再び、狂い暴れる妖の懐へと向かって深く踏み込んでいた。


手渡されたモノクルを左目にかけた瞬間、佐伯君は息を呑んだ。


(――っ!? これが、詩樹さんの視ている世界……!)


肉眼で視る景色とは全く違う。


モノクル越しに映る世界は、淀んだ霊気の流れが緻密ちみつな線となって暴き出されていた。


(詩樹さんは常に、これほどおぞましく、かつ膨大な情報量を持つ世界と対峙していたのか!?)


一瞬だけ詩樹の背中に畏敬いけいの視線を向けた佐伯君は、すぐに高日さんの身体へと目を戻した。


 モノクル越しに凝視すると、右肩の奥深くに、ドス黒い紫色の澱んだ「モヤ」が蠢いているのが見えた。


「これだ……! 雲水さん! 右側の肩甲骨のやや斜め下です! そこに妖の核があります、法力で一点集中してください!」


「――応ッ!!」


雲水住職の気迫に満ちた鋭い一喝とともに、指示された一点へ純白の法力が容赦なく突き刺さる。


同時に佐伯も自身の呪力を一点に注ぎ込み、くさびのように打ち込んだ。


「ぬおおおおおおおおっーーーー!!」


二つの力が核を捉え、激しい光とともに、ついに高日さんの肉体から妖の根元がベリベリと引き剥がされた!


「早く高日さんを連れて結界の外へ!」


「うむ!」


雲水住職は力強く頷くと、気絶した高日さんを巨体で抱え上げ、一目散に結界の外へと躍り出た。


それを見届け、佐伯君は叫ぶ。


「詩樹さん!、引き剥がし完了です!」


「……時間かけ過ぎ」


詩樹は相変わらず冷徹な声を返したが、その直後だった。


鈍い音と共に、周囲を囲んでいた二重結界の一つが、ガラスのようにパリンと派手に割れて霧散むさんした。


「――っ」


詩樹の視線が、わずかに結界の崩壊へと向く。


妖はその刹那の隙を見逃さなかった。


狂ったように残された左腕を振りかざし、鋭い凶爪で詩樹の肉体を強襲きょうしゅうする。


「しまった……!」


わずかな油断。


回避は間に合わず、詩樹の身体は激しい衝撃と共に弾き飛ばされ、残された結界の壁へと強く打ち付けられて床へ倒れ込んだ。


凄まじい衝撃的光景に、佐伯君と小夜ちゃんの悲鳴が重なる。


「詩樹さんっ!!!」


佐伯君が駆け寄ろうとした瞬間、妖の獰猛どうもうな視線が彼を捉え、次なる一撃を繰り出そうと牙を剥いた。


「うぅっ…………!」


床に伏した詩樹が、苦痛に喘ぎながらもゆっくりと頭を上げた。


視界が歪む中、私は声を振り絞って後方へ叫ぶ。


「小夜ちゃんっ! 予備の結界を……!」


「わ、分かりましたっ!」


涙目で声を震わせながらも、小夜ちゃんは自身の役割を果たすべく、隣に立つ佐伯君のお父さんへと視線を飛ばした。


「お願いします!」


「うむ、任せなさい」


佐伯君のお父さんが重厚な声で頷くと、彼と弟子たちが一斉に印を結び、予備の結界へ怒濤どとうの呪力を注ぎ込み始める。


 本堂の床に敷かれた円形の陣がゆっくりとフワフワと浮き上がり、『リーン、リーン』と清澄な音を立てながら、バチバチと青白い火花を散らす力強い結界が発動した。


その光景を見届け、詩樹は結界の壁を背にゆっくりと立ち上がった。


「往生際が悪いわよ、芋虫め」


不敵にニヤリと笑ってみせる。


だが、彼女の身体はすでに限界を迎えていた。


(くそ……もう、身体が持たない。佐伯君にバトンタッチしたいけど、相手は妖……呪霊とはワケが違う……!) 内心の焦りが、じわりと詩樹の表情に広がる。


それを見た妖は不気味に顔を歪めた。


『げひっ、げひひっ! 所詮はあやつの子孫、爪が甘いわぁ!!』


妖が勝利を確信して再び私へと突進してきた、佐伯君が「詩樹さん!」と走り出そうとした、その時だった。


突如として、不可視の巨大な波動が部屋中を吹き抜けた。


「――え?」


佐伯君も、二重結界の外にいた桃花住職や雲水住職、そして高日さんまでもが、何者かの不可思議な力によって身体が宙に浮かされ、一気に新しく展開された円形結界の外側へと弾き飛ばされたのだ。


唖然とする一同。


一体、何が起きているのか。


私自身でさえも、事態が飲み込めずに目を見開いていた。


だが、最も激しく動揺したのは妖だった。


何者かの圧倒的な気配を肌で感じ取り、ソワソワと周囲を怯えるように見回す。


『お、おん、陰陽師の……気配……っ!?』


その瞬間、私の脳裏に、直接響く声があった。


『何をぼんやりとしておる。いつもの威勢いせいはどうした?』


からかうような、楽しげな笑みを含んだ柔らかな声。


 私はハッとして横目を向けると、そこには、いつか夢で見たような、懐かしき面影を持つ人物が立っていた。


その人物は口元に人差し指を当て、悪戯っぽく『しーっ』と微笑みかけている。


(まただ……胸が、締め付けられる……)


切ない感情が押し寄せるのと同時に、私の意識とは無関係に「誰か」が、肉体を勝手に動かした。


 霊刀を滑らかな動作で鞘へと納め、右腕を真っ直ぐに伸ばす。


ドクン、と熱い拍動はくどうと共に、右手の『呪印』が爆発的な輝きを放って発動した。


激しい霊気の嵐が巻き起こり、私の髪や衣服が狂おしく風に舞う。


色濃く浮き上がった呪印が、皮膚の底で異様な熱を帯びていく。


間髪入れず、私は小夜ちゃんの方へと左手を伸ばした。


その瞬間、小夜ちゃんが肩に掛けていた鞄がカタカタと激しく暴れ出す。


「ひゃっ!?」と小夜ちゃんが慌てて鞄を開けた瞬間、中に眠っていた『封の鈴』が目も留まらぬ勢いで飛び出した。


鈴は結界の壁をすり抜け、一直線に私の左手の前へと躍り出る。


『チリン……チリリリン……!』


宙を舞いながら清らかな音を鳴らし、鈴はゆっくりと、熱を帯びる右手の呪印の直上でピタリと静止した。


私の左手が口元で滑らかに印を結び、そのくちから、自然に呪文がつむがれる。


『ぐっ……!』


妖は言葉を詰まらせ、完全に恐怖に染まった表情で叫んだ。


『あやつの子孫ごときがぁぁぁーーーーーーっ!!』


最後の悪あがきのように雄叫びを上げ、詩樹へと突っ込んでいく。


その突進を正面から見据え、私の口元が冷徹に、ただ一言を呟いた。


「――『ばく』」


その瞬間、呪印の上に浮かぶ封の鈴、そして周囲に残された最後の結界と、円形結界に配置されたすべての風鈴の音が、完全に同調して一斉に鳴り響いた。


『チリリリリリリリン!!!!』


凄まじい音響と共に、空間から伸びた光の鎖が一気に妖を取り囲み、その巨体を雁字搦がんじからめに縛り上げる。


『ぎゃあぁっ!? 小娘ごときにぃぃっ!!』


もがき苦しむ妖。しかし、詩樹の容赦ない執行は止まらない。


「――『ふう』」


二言目の呟きと共に、封の鈴が猛烈な引力を放ち、暴れる妖の巨体を強引にその極小の器の中へと吸い込んでいった。


静寂が戻り、妖は完全に封印される。


しかし、それでは終わらなかった。


 誰かの意思を宿した詩樹の肉体は、完璧に『滅絶』を求めていた。


最後の仕上げと言わんばかりに、私の唇が動く。


「――『めつ』」


刹那に右手の呪印から、この世のモノとは思えない漆黒の炎が立ち上った。


 黒炎は封の鈴ごと、中に囚われた妖を容赦なく包み込み――次の瞬間には、灰すら残さず、チリとなって空間ごと燃やし尽くした。


完全なる消滅。


役割を終えたかのように、詩樹の右腕がブランと勢いよく下がる。


 詩樹の口元は、まだ何かをブツブツと呟いていたが、次の瞬間には全身の力が完全に消え失せた。


糸が切れた人形のように、詩樹の身体が後ろへと倒れ込む。


「詩樹さーーーーーーん!!!」


遠ざかる意識の底で、仲間たちの必死に叫ぶ声が、ただ激しく響き渡っていた。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

バトルシーンをもう少し臨場感が溢れるように書きたかったのですが、まだまだ未熟だなと痛感の思いです。

次回、限界を迎えて倒れてしまった詩樹の容態、そして残された仲間たちの反応は……?


面白いと思っていただけたら、ぜひ評価や感想で応援よろしくお願いします!

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