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第五章:懐かしき面影(1)

フロントの前で待つこと数分。  


ようやく、少し遠い目をした佐伯君がこちらに向かってトコトコと歩いてやって来た。


「遅いぞ〜、佐伯君! 待ちくたびれてお腹と背中がくっつきそうだよ〜」


大袈裟に文句を言う私に対し、佐伯君は眼鏡の奥の目をジト目にさせ、深く重いため息を吐き出した。


「……誰のせいで遅くなったと思っているんですか。朝一番から特大の爆弾を脳内に落とされた気分だったので、処理するのに少々時間がかかったんですよ」


まだ「妖退治専門」の衝撃から立ち直りきっていないらしい。


そんな佐伯君の様子がおかしくて、私はケラケラと声を上げて笑った。


「あはは! ほらほら、早く荷物を預けて! ほ~ら、無口……っていうか『無顔』になってるぞ、佐伯君よ!」


「無顔ってなんですか。……というか、詩樹さん、あなたって人は本当にっ!」


なおも食い下がろうとする佐伯君を横目に、小夜ちゃんが「やれやれ……」と呆れたように首を横に振った。  


佐伯君が諦めてフロントに荷物を預けたのを確認すると、小夜ちゃんがパンと手を叩いて一同を促す。


「さて! 荷物も無事に預け終わりましたし、そろそろ古刹こさつへと繋がる渡り廊下へ向かいましょうか」


「おーっ!」


私たちは女将さんに案内された、宿坊の奥へと続く静かな回廊を進み始めた。


歩きながら、私はふと思い出して、前を歩く小夜ちゃんの手元へと視線を向けた。


「あ、そうだ。小夜ちゃん、佐伯君にも『結界の守り鈴』を渡してあげて」


「あ、そうでしたね。はい、今渡しますね」


小夜ちゃんは歩きながら、自身の鞄からちりん、と涼やかな音を立てる小さな鈴を取り出した。


それを少し不思議そうな顔をしている佐伯君の手へと手渡す。


手の平の上の鈴を見つめながら、佐伯君が首を傾げた。


「……結界の守り鈴、ですか?」


「そうなのだよ〜!」


私は待ってましたとばかりに、自分のことのように胸を張って、鼻高々に喋りだした。


「実はね、小夜ちゃんは『結界師』なんだよ〜! その鈴はね、今回の依頼のためだけにわざわざ作ってもらった特注の、超・特別仕様なのだよ〜!」


「結界師……!?」


本日二度目の衝撃事実に、佐伯君の眼鏡がまたしてもズレそうになる。  


得意げな私を見て、小夜ちゃんはふふっと悪戯っぽく微笑みながら釘を刺した。


「詩樹さん、そんなに持ち上げてくれても、びた一文まけませんからね?」


「えーっ!? ちょっとくらいまけてくれたって良いじゃないのさー! 私たちの仲でしょ〜?」


少し唇を尖らせてブーブーと文句を言う私に、小夜ちゃんはウインクをしながら容赦なくシャッターを閉ざした。


「ダメです。今回のは材料費もかなりかかってるんですから、きっちり請求させていただきますよ」


「トホホ……、小夜ちゃんは相変わらずビジネスには厳しいなぁ……」


肩を落とす私をよそに、佐伯君は手の中の鈴をそっと握りしめ、小夜ちゃんに向かって丁寧に頭を下げた。


「小夜さん、ありがとうございます。ありがたく使わせていただきます」


「はい、お役に立てば嬉しいです」


小夜ちゃんが柔らかく微笑む。


しかし、佐伯君はどうにも引っかかるものがあるようで、手の中の鈴と私を交互に見つめながら、真面目なトーンで尋ねてきた。


「……しかし、今回はいつもより装備も準備も厳重なんですね。何か具体的な情報でも掴んだのですか?」


「ん〜、どうなんだろうね? 具体的な何かがあるわけじゃないんだけど……今回は、私の『勘』がそうしろって告げるんだよね〜」


「……勘、ですか?」


私のあまりにもスピリチュアルな回答に、佐伯君は少し不安そうな、納得のいかないような表情を浮かべる。  


すかさず、隣を歩く小夜ちゃんが真剣な眼差しで言葉を添えた。


「佐伯さん。詩樹さんの勘は滅多なことでは外れませんから、信じて良いと思いますよ。普段はあんなに能天気ですけど、こういう時の野生の勘だけは、本物ですから」


「ちょっと小夜ちゃん!? 褒められてる気がしないんだけど!?」


そんな他愛のない会話を交わしながら進むうち、私たちは宿坊の最も奥深い場所へと辿り着いた。


――ここが、古刹へと続く『渡り廊下』の入り口だ。


薄暗い回廊の先、うっすらと階段が見える。


それはまるで、別の世界へと誘うかのごとく突き出た木製の渡り廊下だった。


その一歩に足を踏み入れた瞬間、それまでの和やかだった空気が、文字通りフリーズした。


びり、びり……っ。


肌を刺すような、異様なまでの冷気と圧迫感。


宿坊の快適な空気とは完全に遮断された、重く、よどんだ、それでいてどこか神聖で禍々しい「何か」が、空間そのものを支配している。


ゾクゾクと背筋を駆け上がる、強烈なまでの悪寒。


「うわっ……!! やばっ、鳥肌がすごいことになってるんだけど!」


私は自分の両腕をさすりながら、あまりの異常事態に思わず笑ってしまった。


緊張の裏返しと、妖退治専門としての血が、無意識に口元を歪ませる。


そんな私とは対照的に、佐伯君は一瞬にして顔を強張らせ、冷や汗を流しながら私を睨みつけた。


「……詩樹さん。この状況で、よくそんな風に笑えますね。私は生きた心地がしませんよ」


完全に引きつった顔の佐伯君と、どこか楽しげな私。


圧倒的な温度差を抱えたまま、私たちはついに、古刹へと続く長い長い渡り廊下へと、一歩を踏み出すのだった。


――が。  


その瞬間、思いもかけない展開が私たちを待ち受けていた。


廊下の奥からついさっき聞いたばかりの、あの聞き覚えのある威圧感たっぷりの声が近づいてくる。


「小娘。お前たちも、今から向かうのか?」


「ひゃいっ!?」


あまりのタイミングの良さに変な声が出た。


振り返ると、そこにはお弟子さんたちを引き連れた佐伯君のお父さん――当主様が、相変わらずの威厳を放ってこちらを鋭く見据えていた。


私は一瞬で直立不動になり、引きつった笑みを浮かべながら問いを逆返しをした。


「お、お、お父様も、今から古刹へ向かわれるのですか?」


「見てわかるだろう、小娘!」


ピシャリと言い放たれ、「ですよねぇ……」と苦笑いするしかない私。


そんな私をジロリと見つめたお父さんは、やれやれと言わんばかりにフッと小さくため息をついた。


「……フン。これから向かうというのであれば、一緒に行く他あるまい。これ以上、私に迷惑をかけるな」


まさかの同行許可。威厳はあるけれど、なんだかんだで面倒見が良いのだろうか。


そう思った瞬間、お父さんのあまりの威圧感に脳がバグった私は、心の声が完全にそのまま口から漏れ出てしまった。


「げっ、、」


静まり返った渡り廊下に、私の不吉な一言がぽつりと響く。


一瞬の沈黙。  


その一言を聞き逃さなかったお父さんの目が、何やらギラリと怪しく光りだした。


(あ、やば。詰んだ……!)


嫌な予感しかしない私は、お父さんが口を開くより一瞬早く、全力の作り笑顔を張り付けた。


「あ、アハハ……! お、お先ですぅ〜〜っ!」


口から言葉が飛び出すと同時に、私はお父さんの脇をすり抜け、足早に一人で渡り廊下の先へと逃亡を図った。


しかし、呪術界のトップがその不敬を見逃すはずがない。


お父さんは即座に振り返ると、廊下全体を震わせるような声で言い放った。


「小娘! 待ていっ! お前には一度、きっちりとお灸をすえてやらねば気が済まん!」


「ひぇぇぇ〜〜〜っっ!?」


恐怖で完全に顔を引きつらせた私は、なりふり構わず全力で走り出した。


 すると、あの威厳の塊のようなお父さんも、着物の裾をひるがえしながら、私を追いかけるようにドタバタと猛烈な勢いで走り出したのだ!


「待てと言っているのが聞こえんのか、小娘ー!」


「聞こえてるから走って逃げてるんですよーーっ!」


薄暗く神聖なはずの渡り廊下に、二人の足音と怒号が激しくこだまする。


嵐のように去っていったその光景を前にして、残された小夜ちゃん、佐伯君、そしてお父さんに付き従っていたお弟子さんたちは、全員口をポカーンと開けて唖然と立ち尽くしていた。


しばらくの静寂の後、お弟子さんの一人がハッと我に返り、冷や汗を拭きながら小夜ちゃんと佐伯君に向かって頭を下げた。


「あ、当主が大変失礼いたしました……。いつもはもっと厳格なお方なのですが、どうにもあのお嬢さんが相手だと、調子が狂うようで……」


お弟子さんは苦笑いを浮かべると、懐かしむような温かい目を佐伯君へと向け、続け様に告げた。


「それにしても、お坊っちゃま。お久しぶりですね。お元気そうで何よりです」


その言葉に、すかさず小夜ちゃんが反応した。


「……お坊っちゃま?」


小夜ちゃんが、不思議そうな、そしてどこか面白がるような視線を佐伯君の顔へとじっと見つめる。


すると佐伯君は、一瞬にして耳の裏まで真っ赤に染め上げ、恥ずかしさのあまり口元を片手でギュッと隠した。


「……っ、外でその『お坊っちゃま』という呼び方はやめてください……!」


プライドを傷つけられた佐伯君は、それ以上追及されたくないと言わんばかりに、スタスタと早足で渡り廊下を歩いて行ってしまった。


明らかに照れ隠しの逃亡である。


そんな彼の普段は見られない可愛らしい姿を見て、小夜ちゃんは思わず口元を押さえてクスッと優しく笑った。


(ふふ、佐伯さんもやっぱり、家に戻れば可愛い『お坊っちゃま』なんですね)


小夜ちゃんは微笑ましそうにお弟子さんたちに向き直ると、爽やかに声をかけた。


「さて、私たちも行きましょうか。あの二人、放っておくと古刹に着く前に大惨事になりそうですから」


「あ、はい! 急ぎましょう!」


小夜ちゃんはお弟子さんたちを従えるようにして、賑やかに走っていった詩樹たちの後を追うように、楽しげな足取りで歩き出すのだった。


――その頃、私と佐伯君のお父さんはというと。


長い長い渡り廊下をノンストップで爆走し、古刹まであとほんのひと息、という場所に差し掛かったその時だった。


「――そこまでだ、小娘っ!」


「あぐっ!?」


背後から伸びてきた大きな手に、ガシッと襟元を後ろから掴み上げられ無念の捕獲である。


佐伯君のお父さんは「この、跳ねっ返りめ……!」

と、さすがにゼハゼハと肩で激しく息を切らしながら、私の首根っこをがっちりとホールドしたまま離さない。


「う、うぅ〜〜……! 私、猫じゃないんですから、首根っこ掴まないでくださいよぉ……!」


私も完全に息が上がって真っ白になりながら、ジタバタと手足を動かして抗議する。


しかし、呪術界のトップの握力は伊達ではなかった。


お父さんは乱れた着物をあっさりと整えると、ギラリと目を光らせた。


「えぇーい! 黙れ小娘! 往生際が悪いぞ、そこに座れ!」


「ひゃんっ!?」


問答無用で床の上に強制的に正座をさせられる羽目になった。


(なんで……! なんで私が朝からこんな目に遭わなきゃいけないのさー!?)


この世の終わりみたいな不満顔を浮かべる私をよそに、お父さんは頭の上からゴロゴロと雷を落とすように、黙々とお説教の言葉を浴びせかけてくる。


「そもそもお前というやつは、目上の者に対する礼儀というものが――」


大音量で繰り出されるお説教の嵐に、私はただただ耳を塞ぎたくなるのを堪え、小さくなって縮こまるしかなかった。


まさに、お灸をすえられている真っ最中である。


そんな私の耳に、パタパタとこちらへ近づいてくる足音が聞こえてきた。


ようやく追いついてきた佐伯君が、曲がり角の先で繰り広げられている異様な光景を目にした瞬間、ピタッと足を止めた。  


そこには、借りてきた猫のように正座して小さくなっている私と、腕を組んで文字通り「問答無用」の説教をかましている父親の姿。 


佐伯君は、急にどっと疲労が押し寄せてきたようで、深ーいため息を吐き出しながら頭を押さえていた。


そんな佐伯君の姿を、私はチラッと横目で捉えた。


 ――救世主、光臨……!!


「佐伯くーーん!! 助けてーー!!」


これでもか!というほどの情けない声を張り上げて、必死に彼に助けを求めた。


 私の絶叫に、お父さんも説教を止めて振り返る。


「む、朔弥さくやか。もう、追いついたのか、思っていたよりも早かったな」


お父さんからさらりと名前を呼ばれた佐伯君――、完全に呆れ果てた顔で、眉間にこれ以上ないほどのシワを寄せて言い放った。


「……あなたたちは、一体全体何をしているんですか?」


「佐伯君聞いてよ〜〜! 捕まって無理やり正座させられた挙句、もう足が、足が完全に痺れて一ミリも動けないの〜〜!」


再び涙目で情けない声をあげる私に対し、お父さんはフンッ!と激しく鼻を鳴らした。


「ふん、けしからん! たったこれしきの時間で足が痺れるとは、根性が足りんのだ、根性が!」


「これしきって、体感で3時間くらい説教されてる気がするよぉ……!」


そんな二人のやり取りの最中、後ろから「詩樹さーん!」と遅れて小夜ちゃんやお弟子さんたちもようやく追いついてきた。


「小夜ちゃん〜〜! 助けて〜〜!」


「足が、足がガチガチに痺れて、もう一歩も動けないよ〜〜泣」


情けなく両手を伸ばして半べそをかく私を見て、小夜ちゃんは「ええっ!?」と大慌てで「詩樹さん、大丈夫ですか!? 今行きますからね!」と、正座で固まっている私の元へと一目散に駆け寄ってきた。


「いま、楽にしてあげますから!もう、大丈夫ですから!!」


小夜ちゃんはまるで我が子を庇う母親、いや、もはや過保護な親鳥のように勢いで私を抱きかかえると、ガチガチに固まっていた私の足を崩させ、楽な姿勢へと休ませてくれた。


「う、うぅ……小夜ちゃん、ありがとう〜〜泣。もうお灸をすえられるのはコリゴリだよ〜〜!」


今回ばかりは本気で応えた。


いつもなら煙に巻く私だけど、あのマシンガン説教に相当堪えた…。


小夜ちゃんにすがりついてシクシクと泣き真似をする。


すると、そんな私の隣に、佐伯君がスッと近づいてきてその場にしゃがみ込んだ。


「……詩樹さん」


私が顔を上げた瞬間。 眼鏡の奥の瞳が、何やら見たこともない意地悪そうな光を帯びている。


「???」


佐伯君は指先でツンツンと、私の限界まで痺れきっている足を、容赦なく突っついてきた。


脳髄を突き抜けるような激しい電撃。


「ヌァっぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!」


人間とは思えない変な叫び声をあげて床をバンバンと叩いた。


そんな姿を見た堅物の佐伯君が、なんと、口元を緩めて「クスッ」と楽しそうに笑ったのだ。


いつもツンツンしている彼の、あまりにも珍しい底意地の悪い笑顔。


そんな私たちの様子をじっと見ていた佐伯君のお父さんが、フム、と何かを深く悟ったかのような(あるいは二人の距離感に何かを感じたような)真面目な顔になり、私に向かって厳かに告げた。


「……小娘。お前も呪術師の端くれならば、これしきのことで醜態を晒すな。もっとしっかりせい!」

お灸からの、これである。


 私は足の痺れの余韻よいんで、まだ動けずに笑いながら、お父さんを見上げて言い返した。


「あはは! これで本日2回目。佐伯君にも同じ事を言われました〜、やはり親子ですね。……あのね、お父様。私、呪術師じゃなくて『退治屋』なんです」


「……は?」


お父さんの口から、佐伯君と完全に同じトーンの呆けた声が漏れた。  


呪術界の巨頭の思考が、完全にピタッとストップする。


お父さんは眉間に深いシワを刻み、拍子抜けしたような、理解が追いつかないといった表情で私を凝視した。


「退治屋とは……何の退治屋だ? まさかだとは思うが……あやかしか?」


私は待ってましたとばかりに、痺れる足を忘れてパッと満面の笑みを浮かべ、親指をグッと突き出した。


「はい! 大正解で〜す!!」


「けしからん!!!!」


鼓膜が破れんばかりの大音量。


廊下全体を震わせるような、本日一番の大喝が飛んできた。


 あまりの怒鳴り声の凄まじさに、私は「ひゃあ!」と首をすくめ、大慌てで両手の人差し指を耳の穴へと突っ込んで、全力で耳を塞ぐのだった。

それからしばらくして。  


お父さんからの熱烈な「雷」もようやく収まり、私の足の痺れもじわじわと引いていった。


「ふぅ……! やっと、やっと痺れが治ったよ〜〜!」


私は床の上で何度か足を屈伸させると、今度こそ自分の足でしっかりと立ち上がった。


その様子をハラハラしながら見守っていた小夜ちゃんが、覗き込むようにして聞き返す。


「詩樹さん、もう大丈夫ですか?」


「うん、もうバッチリ! 小夜ちゃん、介抱してくれてありがとね〜」


私がいつもの調子で胸を叩いて見せると、小夜ちゃんはようやく安心したように表情を緩め、頷いた。


「良かったです。では、私たちも本堂へ向かって行きましょうか」


「そうだね。これ以上遅くなったら、住職さんに怒られちゃうし!」


私は小夜ちゃんと並んで歩き出し、他愛のない雑談を交わしながら、古刹の本堂へと続く古い木製の階段をトコトコと登り始めた。


後に残された佐伯君のお父さんは、静かに階段を見上げた後、付き従っていたお弟子さんたちに向かって低く厳格な声をかけた。


「お前たちも、先に行きなさい」


「は、はい! 失礼いたします!」


お弟子さんたちは一礼すると、私と小夜ちゃんの後を追うようにして、足早に階段を上っていった。


お弟子さんたちに続いて階段を登ろうと、佐伯君が一歩を踏み出した、その時だった。


「――朔弥。少々、話がある」


背後からかけられた父親の重い声に、佐伯君はピタッと足を止め、静かに振り返った。


 周囲には、私と小夜ちゃんの話し声が遠くから微かに響くばかり。


渡り廊下の踊り場は、一瞬にして親子の二人きりの空間へと変わる。


佐伯君が怪訝けげんそうに眼鏡の奥の目を向けると、お父さんは腕を組んだまま、鋭い眼差しで階段の上を睨みつけながら問いかけてきた。


「昨夜、あの小娘に何かあったのか?」


唐突な父親の問いに、佐伯君は少しだけ眉をひそめ、淡々と答えた。


「昨夜、ですか? いえ、特に何もありませんよ。いつも通り、騒がしく普段通りに過ごしていましたが……それが何か?」


佐伯君の回答を聞いたお父さんは、どこか呆れたように、フッと浅いため息を吐き出した。


「お前は本当に……。小娘の右手を見てみろ」


「……え?」


促されるまま、佐伯君は階段の上、少し先を歩く私の後ろ姿へと視線を走らせた。


 小夜ちゃんと笑い合いながら、木製の階段を一歩ずつ登っていく私の姿。


その、何気なく下ろされている私の『右手』の指先が――ほんのわずかに、小刻みに震えているのが、佐伯君の目に飛び込んできた。


「緊張しているのでしょう。あの性格ですから、本堂を前にして少しばかり気圧されているのでは」


佐伯君がそう推測を口にすると、お父さんは先ほどよりもさらに深く、重いため息をついた。


「お前は、普段から一緒にいて、あの小娘の顔をきちんと見ておらんのか? 緊張などという可愛いものではない。あからさまに昨日とは顔色が違う。完全に、体調が優れない証拠だ」


父親の容赦のない指摘に、佐伯君の脳裏に、パチリと一つの記憶が鮮烈に蘇った。


――朝食の時だ。


「っ……!」


(いつもなら、誰よりも早く白米をおかわりして、お皿をピカピカにするはずの食いしん坊の詩樹さんが、今朝はほんの数口箸を動かしただけで「お腹いっぱいになっちゃった」と笑って残していた。)


あの不自然な姿。


(昨日の懐石料理を食べ過ぎた、と本人は言っていたが……。まさか、本当に体調を崩しているのか……!?)


繋がってしまった点と点。


 佐伯君は拳を微かに握りしめ、遠ざかっていく私の背中を、これまでとは全く違う、焦燥しょうそうを孕んだ目で見つめていた。


「……お父さん。あなた、そんな短時間でよく気がつきましたね。毎日一緒にいる私や小夜さんですら、まったく気がついていなかったのに……」


悔しさと焦りが入り混じったような佐伯君の声に、お父さんは腕を組んだまま、静かに階段の上を見据えて答えた。


「お灸をすえる時に気がついたんだよ。間近で見れば、あからさまに顔色が青白い。それに、あやつが床に正座した瞬間、左手が右手の震えを隠そうと、必死に上から押さえつけておった。ここまで徹底して必死に隠すとはな……よほどお前たちに、自分の不調を知られたくなかったのだろう」


「っ……!」


お父さんの言葉が、佐伯君の胸の奥をチクリと突き刺した。


 いつだって明るくお調子者の彼女が、どれほどの不調を一人で耐え、自分たちに心配をかけまいと笑顔の裏に隠していたのか。


それを察せられなかった己の未熟さに、胸が痛む。

佐伯君は小さく息を吸い込み、父親に向かって深く頭を下げた。


「……詩樹さんの体調が優れないことを教えていただき、ありがとうございます」


「はぁ……。お前は本当に、頭は良くてもそういうところは抜けとるな」


お父さんは深いため息をつくと、心底呆れたように、けれど どこか諭すような口調で言葉を続けた。


「好いた女子おなごの体調や顔色の変化くらい、まともに見ておれば普通わかるだろう」


「……え?」


唐突に飛び出してきた突拍子もない単語に、佐伯君の思考が一瞬フリーズした。


 数秒遅れてその言葉の意味を理解した瞬間、佐伯君は耳まで一気に顔を真っ赤に染め上げ、大慌てで両手を振って全力で否定した。


「な、何を言っているんですか! 詩樹さんは単に私の職場の『上司』です! 好きでもなんでもないですし、そもそもそんな感情は微塵も――」


必死になって早口で弁明する息子を前に、お父さんは何とも言えない、すべてを察したような絶妙な表情を浮かべた。


そして、息子の頭を軽くポンポンと叩いた。


「まあ、……頑張れ」


「ですから、違うと言って――」


お父さんはそれ以上佐伯君の言い訳を聞くことなく、「フン」と鼻を鳴らして、そのまま悠然ゆうぜんとした足取りで階段を登っていってしまった。


 残された佐伯君は、赤みが引かない顔のまま、父親の「まあ、頑張れ」という言葉の真意を計りかねて立ち尽くしていた。


(頑張れって、一体何を……?)


彼がその言葉の本当の意味を理解するのは、まだ、だいぶ先の話である。


佐伯君は乱れた呼吸を整えるように深呼吸をして息を吐き出し、複雑な想いを胸に抱いたまま、私たちの後を追って階段を登り始めた。


――長めの階段を登りきった先に、嫌な冷たい空気が頬を伝う。


宿坊とは明らかに違う、肌が粟立あわだつような霊気。


私たちはついに、古刹の本堂へと足を踏み入れた。


本堂の中央には、二人の僧侶が、一人はがっしりとした体躯たいくで凄まじい貫禄を放っている雲水うんすい住職。


もう一人は、背の丸まった小さな年老いた住職。


 そして、その傍らで酷く怯えたようにガタガタと身を縮めている、一人の高価なスーツを着た中年の男性。


ようやく、今回の『依頼人』たちとのご対面である。


「初めまして、雲水住職さん。雪森です」


私が一歩前に出て、妖退治屋としての礼儀正しさ(これでも一応ビジネスなのだ)を装って挨拶を交わす。


すると、貫禄のある雲水住職は、深く重みのある声で応えた。


「初めまして、雪森殿。あなたの噂は、かねがね聞いておりますよ」


「ん? 私の噂、ですか……?」


一体どこでどんな風に噂されているんだろう。私がそんな疑問を抱いて首を傾げた、その時だった。


雲水住職の隣にいた、年老いた住職が、目を細めて穏やかに声をかけてきた。


「ほっほっほ、久しいの〜。相変わらずお転婆なお嬢さんや」


「はて……?」


お嬢さん、なんて呼ばれる筋合いはないはず。


私はさらに首を傾げ、記憶の引き出しをパタパタと引っかき回しながら、しばらくの間じーっとその老人を見つめた。


「……私たち、どこかで会いましたっけ?」


完全に思い出せずに尋ねる私に対し、年老いた住職はなんとも寂しそうな、拗ねたような顔をして大袈裟に肩を落とした。


「なんじゃ? もう忘れてしまったんか? 『ゆきもちゃん』、ワシ、寂しいのぅ〜……」


「ゆきもちゃん……?」


その独特すぎる、そしてどこか聞き覚えのあるマヌケな響きの呼び名が耳に触れた瞬間――私の脳裏に、過去のある強烈な映像が一気にフラッシュバックした。


点と点がつながり、私は「あーーっ!!」と勢いよく年老いた住職に向けて指を突き出した。


本堂であることを完全に忘れ大絶叫が響き渡る。


「あー!! あの時の『喰われジジイ』!!!」


「これ、小娘! 桃花住職に向かって何という不敬な呼び方を!」


私の叫び声と同時に、後ろから佐伯君のお父さんの怒鳴り声が飛んできたけれど、今の私にはそれどころではなかった。


まさか、かつて妖に喰われかけていたところを私が助け出した、あの困ったおじいちゃんが、この古刹の住職だったなんて、誰が予想できただろうか。

 

全くもって夢にも思わなかった。


こんな、とんでもない形での再会を果たすことになるなんて。


佐伯君のお父さんが顔を真っ青にしているのを完全にスルーして、私は目の前のおじいちゃん――否、桃花住職をじっと見据えた。


「ようやく思い出したよ……。元気だった? 喰われかけたじーさん」


私は腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべてニヤリと尋ねた。


対する住職は、お父さんの慌てようなど、どこ吹く風で、フサフサの白い髭を優しげに撫でる。


「ほっほっほ、元気じゃったよ、ゆきもちゃん」


桃花住職もまた、あの時と同じ、どこか食えないお茶目さをにじませてニヤリと笑う。


本堂の厳かな空気の中で、お互いに不敵な笑みをこぼし合う私と喰われジジイ。


あまりにも異様な空気感に、周りの人達がドン引きをしていた。


ただただこの状況をどうにかしたいという顔色が浮かんでいる。


そんな雰囲気の中、雲水住職がわざとらしい咳払いをして、隣でガタガタと震えている中年の男性を紹介してきた。


「あー、私の顔馴染みの高日たかひさんだ。今回、私の方に相談が来て対処しようと思ったのだが……」


雲水住職はそこで少し言葉に詰まり、チラッと桃花住職の方へ視線を向けた。


桃花住職はそれを受け、軽く頷く。


「ゆきもちゃん。言葉で説明するより、直接見た方が早かろうて」


住職のその言葉に、私は高日さんという男性の姿を正面から捉えた。


その瞬間、私の右手の呪印が、今までにないほど激しくドクンと脈打った。


肌が粟立あわだつような、禍々しい悪寒。


さっきまでのニヤニヤした態度を完全に消し去り、私は鋭い声でピシャリと言い放った。


「――待って。その前に結界を張らせて。……嫌な予感がする」


私はすぐさま、小夜ちゃんと佐伯君に向かって指示を出した。


「高日さんを中心に、二重結界に!」


「「はい!」」


二人は迷いのない声で短く返事をすると、それぞれの位置へ、テキパキと結界の構築を始めていく。


その見事な手際の良さを見守りながら、私は周囲を警戒しつつ、作業の手を動かしている小夜ちゃんの側へスッと寄って耳打ちをした。


「小夜ちゃん、万が一のために、佐伯君のお父さんとお弟子さんたちにも予備の結界を――」


私が最後まで言葉を紡ぐより早く、小夜ちゃんは手元を動かしたまま、小さく頷いた。


「分かりました、備えておきます」


「さすが小夜ちゃん!」


私が何を求めているのかを瞬時に察してくれるそのスマートさに、まさに長年、仕事を共にしてきたからこそ分かる、絶対的な信頼関係がそこにはあった。


「詩樹さん、結界の展開、完了しました」


佐伯君の引き締まった声が本堂に響く。


彼らが展開した結界に手の先で呪力を注ぎ込みゆっくりと、高日さんの周囲を取り囲むように浮かび上がったのは――涼やかな音を立てて微かに揺れる、小さな『風鈴の結界』だった。


「……なっ、これは……!?」


二人の住職、そして佐伯君のお父さんやその弟子たちが、その光景を目にして一斉に目を見開いた。


呪術界の常識からはかけ離れたその美しい結界の姿に、一同は驚きを隠せない様子。


何か文句でも言いたげに口を尖らせるお父さんを尻目に、私はズボンのポケットに忍ばせていたモノクルを取り出し、左目へと装着した。


その、瞬間だった。


視界が真っ白に染まり、私の脳内に『ほんの一瞬』、戦慄の光景が直接流れ込んできた。


――それは、誰かが今から対峙するであろう恐ろしい妖の姿と、命を懸けて激しく戦っている光景。


「っ……、……!!」


あまりにも目が眩むような衝撃的な光景に意識が持っていかれそうになる。


その時だった。


私の肩に、すっと温かい手が置かれた。


「詩樹さん」


佐伯君の低い声が、耳元で優しく響き、現実の世界へ引き戻してくれた。


私は一呼吸置いてから、そっと佐伯君の顔を見上げた。


「ごめん、ちょっと……ね。意識を持っていかれそうになった。呼び止めてくれてありがとう」


少し照れくさそうな顔をしてお礼を言う私に、佐伯君は手を置いたまま、じっと視線を合わせてくる。

「もっと私を頼ってください」


低く、少し掠れたような声で、耳元でそう囁かれた。


「っ……、」


思わずカッと顔が熱くなり、下を向いてしまった私の胸の奥で、微かに鼓動が飛び跳ねた感覚があった。


心臓の音がうるさくて、一瞬だけ怪異の気配を忘れそうになる。


(……ふぅ〜、集中しないと)


小さく呟き、自分の両頬を軽く叩いて気合いを入れ直す。


私はすぐに、戦闘準備が整った周囲の状況を目で確認した。


結界の外には、小夜ちゃんが佐伯君のお父さんたちと一緒に立っている。


小夜ちゃんは私と目が合うと、「ここは大丈夫です!」と力強く目で合図をくれた。


その背後には、彼女が仕込んでくれた円形の大きな予備結界が、いつでも発動できる状態で美しく配置されている。


喰われジジイ――桃花住職もまた、二重結界の外側で「いつでもいいぞ」と言わんばかりの、堂々とした不敵な顔で控えていた。


そして、高日さんの側にはいつでも法力を発動できるように雲水住職が。


私のすぐ隣には、頼もしい相棒である佐伯君。


「佐伯君、準備はいい? もしもの時は……」


「わかってます。いつでもどうぞ」


私の言葉を遮るように返ってきたのは、信頼に満ちた、決戦の合図を促す頼もしい言葉だった。


その言葉に力強く頷き、私はモノクルの奥の目を妖しく光らせながら、不敵にニヤリと笑った。


「さて、それじゃ始めましょうか!」


第五章お読みいただきありがとうございます!

続けて第六章も含めて連続で投稿いたします、どうぞお楽しみに!


続編、第六章は11時ごろに配信投稿いたします。

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