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第四章:予期せぬ来訪者(妖)

大浴場で身も心もすっきりと解きほぐされた私と小夜ちゃんは、ほかほかとした湯上がりのまま、雑談を交わしつつ『龍淵りゅうえんの間』の襖を開けた。


「ふぅ、本当に良い湯加減だったね~、小夜ちゃん」


「はい、詩樹さん。お湯も柔らかくて、生き返るようでしたね」


部屋に入ると、すでに女将さんによって真っ白でふかふかのお布団が並べられていた。


その傍ら――ライトアップされた裏庭を背にするように窓際の椅子に座って最終確認をばっちりと終えていた佐伯君の姿があった。


紺色の浴衣姿に、崩した髪型がよく似合っている。

いつもより少しだけあどけなく、それでいて妙に色気があるその姿に、一瞬だけ見惚れてしまいそうになる。


すると、私たちの気配に気づいた佐伯君が、こちらを振り返って静かに微笑んだ。


「お帰りなさい」


(……うわ、ずるい。今の「お帰りなさい」はちょっと、いつもとギャップがありすぎて心臓に悪いってば……!)  


お風呂上がりでただでさえ火照っている顔が、さらに熱くなるのをごまかすように、私はあわあわと視線を泳がせた。


そんな私の様子には気づかないまま、小夜ちゃんがテキパキと動き出した。


「皆さん、喉が渇きませんか?」  


そう言って、部屋に用意されていた冷水ポットから、冷たいお水をトトト、と3人分のコップに注いで、それぞれの手へと手際よく渡してくれた。


「ありがとう!ちょうど喉が渇いていたんだよね〜、さすが小夜ちゃん!気がきくね~」  


私は冷たいコップを受け取ると、一気にゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。


乾いた身体に冷たいお水が染み渡り、「ぷはぁ!」と盛大な吐息が漏れる。


佐伯君も「ありがとうございます」と静かに受け取り、小夜ちゃんに淹れてもらったお水をゆっくりと口に運んでいた。


 冷たい水を飲んで、ようやく一息ついた、その時だった。


カラン、とコップの中の氷が小さく音を立てる。

 

並んだ3組のお布団をぼんやりと見つめていた私の脳裏に、ぽつりと、強烈な違和感が浮かび上がった。


「……あれ? ちょっと待って?」


じわじわと脳細胞を駆け巡っていく、とんでもない事実に気がつき、状況を完全に理解した瞬間、私は持っていたコップをガタガタと震わせながら、鼓膜を引き裂くような大絶叫を上げた。


「――って、ぎゃあああーーーっ!! お布団3人分、男女別の部屋じゃないの!?」


今更ながらの、あまりにも遅すぎる驚愕。


唐突な私の大爆発に、お水を飲んでいた佐伯君が「ぶふっ!?」と激しくむせ込み、小夜ちゃんがパチクリと大きな目を瞬かせる。


横一列に仲良く並んだ3組のお布団を指差して過呼吸気味に震える私に対し、小夜ちゃんはハァ……と深いおため息を吐き出し、終始呆れた表情を浮かべた。


「……詩樹さん。今更気がついたんですか?」


「だって! 貸切のはずだったのにダブルブッキングされて、おまけにお父さんとの修羅場があって、ご飯が冷めちゃうっていうハプニングになってたから、部屋割りのことなんて脳内から完全にログアウトしてたんだよー!」


小夜ちゃんは少しだけ苦笑いを浮かべ、困ったように肩をすくめた。


「まあ、確かに予想外のことは起きましたけど」


頭を抱えてジタバタする私を見て、佐伯君は口元の水を拭いながら、どこか引きつった笑みを浮かべた。


「……詩樹さん。そんなに気になるなら、仕切り(つい立て)を置いたらいいんじゃないですか?」

 

佐伯君が部屋の隅に置かれていた、上品な木製の障子風つい立てを指差して提案する。  


小夜ちゃんもその提案に同意見と言わんばかりに、コップを置きながら頷いた。


「そうですね。気になるなら、あの仕切りを真ん中に置いたら良いと思います」


「う、うん。そうだね……」


トントン拍子に話が進み、私と小夜ちゃんの布団側と、佐伯君の布団側のちょうど中間の位置に、綺麗な仕切りが設置された。


2対1の間隔で綺麗に遮られた空間。


これでプライベートは一応守られた形になる。


――だけど。


まだ表情を崩せない私は、仕切りの向こう側と、自分のお布団を交互に見つめながら、じわじわと込み上げてくる新たな不安感に襲われていた。

 

2人には聞き取りにくいほどの小さな小さな声でぽつりと呟いた。


「……そうじゃないんだよぁ……」


(私の寝相の悪さ、普通のレベルじゃないんだよぉ……。奇妙な奇声……っていうか謎の唸り声をあげたり、寝言を言っては叫んだりするし。しまいには、寝ている時に無意識で『すかしっぺ』をするらしいし……! 前にお兄ちゃんから『同じもの食べてるのになんでお前の屁はそんなに臭いんだよ!?』ってマジギレされたことあるし……! 障子風の薄い仕切り一枚じゃ、音も臭いもダイレクトアタックじゃん! 不安で仕方がないよ……!!)


さっきまで佐伯君の浴衣姿にちょっとドキドキしていた乙女心は完全に行方不明になり、自分の身体が夜中に引き起こすかもしれない「生物兵器級のテロ」を想像して、私は一人、敷かれたばかりのお布団の前で静かに戦慄していた。


私のそんな葛藤など露知らず、小夜ちゃんがパシッと手を叩いて布団に入るよう促してきた。


「さあ、明日は早いですし、もう寝ましょう」


「目覚ましも6時にセットしておきましたので、詩樹さん、ちゃんと起きてくださいね」


「えっ? もしかしてそれ、私だけに言ってる?」


名指しされた私が怪訝けげんな顔で聞き返すと、小夜ちゃんはコテンと首を傾げて、実に爽やかな笑みを浮かべた。


「もちろんです」


「ちょっと納得いかない! 佐伯君には? 私より佐伯君の方がお寝坊さんのような気がするけど?」


巻き添えにしようと仕切りの向こうの佐伯君を指差す私に対し、小夜ちゃんは「何を言っているんですか!?」と、今度は一転してキリッとしたオカンモードの表情になった。


「集合時間になっても、出勤時間になっても、いつもギリギリなのは一体どこの誰ですか? 詩樹さんはいつも『アラームのセットするのを忘れて! 寝過ごした!』とか、もしくは『目覚ましの音が聞こえなくて……』とか、変な言い訳が多いのわかってます?」


立て続けに繰り出される容赦のない正論と、過去の遅刻履歴の暴露。


(うっ……! 耳が、耳が痛い……っ!)  


小夜ちゃんのプチ説教がいよいよ本格的に始まりそうになった、その時。


「おやすみ~~~っ!!」


私は考えることを放棄し、ダイナミックにお布団へとダイブした。


そのまま芋虫のように頭まで掛け布団をかぶり、そそくさと布団の中へ完全に逃げ込んだ。


「「……おやすみなさい」」


仕切りの向こうからはハァ……と佐伯君の深いため息が聞こえ、小夜ちゃんも完全に呆れた様子でパチッと部屋の明かりを消した。


暗闇の中、呆れ果てた二人のため息声がハモるのを聞きながら、私はぎゅっと目を閉じた。


二人はそれぞれの布団の中へと潜り込んで就寝――。


――深夜、2時。  


宿坊全体が深い静寂に包まれていた。


 あれだけ不安だったはずの私は、移動の疲れもあってか、奇声もすかしっぺも放つ暇すらないほど、いつの間にか泥のように深い眠りに落ちていた……はずだった。


じわ、り。


突然、右手に異様な熱さを感じた。


 それは内側から沸き立つような熱で、時間の経過とともに、徐々に鋭い痛みへと変わっていく。


まるで焼けた鉄を押し当てられているかのような激痛が走る。


「っ!?」


あまりの痛さに、思わず声が出てしまった。


私は自身の口を手で覆い、荒い呼吸を堪える。


 痛む右手を押さえながら横を見ると、小夜ちゃんは静かな寝息を立てている。


障子風の仕切りの向こう側――佐伯君もまた、静かな寝息を立てて深く眠っているようだった。


(なんなの、これ……痛い、熱い……!)


私は痛みに耐えながら音もなく起き上がり、右手の平を見つめた。


そこには、赤黒く脈打つような、見たこともない複雑な「呪印」が浮かび上がっていた。


「なんで、いきなり……?」  


掠れた声でぽつりと呟く。


けれど、このまま部屋にいれば二人の安眠を妨げてしまうかもしれない。


私は二人を起こさないよう、足音を忍ばせてそっと部屋を抜け出した。


激痛で視界が歪み、フラフラになりながらも廊下を渡り、なんとか痛みに堪えながら裏庭へと向かう。


朦朧もうろうとした意識の中で、痛みを和らげようと部屋を出たはずなのに、まるで何かに導かれるように、私はふと正気に返るような違和感を覚えた。


(……私、なんで裏庭に?)


自分の意思とは関係なく足がここまで動いていた。


 夜の暖かな空気が、頬を撫でる心地よいそよ風に吹かれ、私は再び右手を見つめた。


しかし、痛みが引くどころか、先ほどよりも呪印がさらに色濃く、鮮明に浮かんできている。


激痛に顔を歪ませ、視線を落とした――その時だった。


 私の視界に、すっと入り込んできたものがあった。  


それは、夕方に目にした、あの白い着物を着た女性の足元だった。


ドキリと心臓が鳴る。


私はゆっくりと視線を上げ、その女性の顔を真正面から見据えた。  


その瞬間、再び胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、強烈な痛みに襲われる。


けれど、それは恐怖によるものではなかった。


「……母上」


私の意思とは全く無関係に、くちからその言葉がこぼれ落ちていた。  


 胸の奥――いや、もっと深い、魂そのものが、その女性に対して言葉にできないほどの懐かしさと、張り裂けそうなほどの切なさを一気に込み上げさせている。


女性は、悲しいほどに優しい微笑みを浮かべていた。


「お帰りなさい、――」


その言葉。


耳元で、囁いていたあの声だ。


聞き間違えるはずがない。


「母はずっと、あの日から待っていました。ようやく、ようやく……」


嬉しさと安堵が入り混ざり合ったかのような声で、女性の目から涙が零れ落ち、静かにすすり泣く。


その姿を見た瞬間、私の中の『誰か』が、愛おしそうに目を細めて答えた。


「ご心配をおかけしました、母上。あの日の約束を果たせず、申し訳ありません……」


それは私であって、私ではない、遠い記憶の誰かの言葉。


女性は首を横に振った。


「いいえ、いいえ。こうして――は母の元に帰ってきました。私はそれで十分です。……そして、その手の痛みは、時を超えてなお、あなたを苦しめるとは……」


女性の視線が、私の右手の呪印へと注がれる。


その瞳には深い慈愛と痛ましさが満ちていた。


「少しばかり、その痛みを和らげてあげましょう」


そう言うと、女性は私の右手を両手で優しく包み込んだ。


手の平から信じられないほど暖かな光が溢れ出し、それと同時に、あれほど激しかった右手の痛みが嘘のようにすうっと和らいでいく。


「さあ、これで大丈夫」


女性は満面の暖かな笑みを浮かべると同時に、私を愛おしそうに抱きしめた。


 包み込まれるような心地よさの中で、彼女は私の頭を優しく、軽く撫でて、耳元でこう囁いた。


「これから先、もっと困難な道になるやもしれない。でも、これだけは覚えていて。『皆、お前の側で見守っている』。だから、決して一人ではないのですよ」


その抱擁は、あまりにも温かかった。


「さあ、再びお眠りなさい」


柔らかな、子守唄のような声に誘われるように、私は急激な、抗えないほどの猛烈な眠気に襲われた。


視界がゆっくりと閉じゆく中で、私は微かにその女性に向けて呟いた。


「……ありがとう……」


ハッと気がついた時。


勢いよく飛び起きて辺りを見回す。私は、布団の中にいたのだ。


障子の仕切りの向こうからは佐伯君の気配がし、隣には小夜ちゃんが眠っている。


 裏庭にいたはずなのに、なぜ私はここにいるんだろう。


頭が混乱する中で、自分の右手を見てみる。

 

 さっきまであれほど色濃く浮き出て、激痛を放っていたはずの呪印は、綺麗さっぱり消え去り、いつもの肌に戻っていた。


呆然としながら、私は小さく言葉をこぼした。


「……夢?」あまりにもリアルな感覚。


右手に残る、あの温かな光の余韻よいん

 

あれは本当に、ただの夢だったのだろうか。

その時だった。


ピピピピピピッ、ピピピピピッ。


静まり返った部屋に、小夜ちゃんのスマホのアラームが賑やかに鳴り響いた。


朝の光が、障子越しに部屋へと差し込んでくる。


小夜ちゃんがパチリとゆっくり目を開けると、すぐに手を伸ばしてスマホのアラームを止めた。


そして、「詩樹さん、朝ですよ、起きてください……」と声をかけようと私の布団の方へ顔を向けた――その、瞬間だった。


すでに布団の上にきっちりと起き上がっている私を見て、小夜ちゃんは息を呑んだ。


「え? 詩樹さん……お、起きてる!?」


小夜ちゃんは漫画のように驚きの声を上げ、ガバッと勢いよく飛び起きてきた。


 そんな目を丸くして驚いている小夜ちゃんの顔を見つめ、私はここぞとばかりに胸を張り、朝からこれでもかというほどの満面の「ドヤ顔」を披露してやった。


「小夜ちゃん、おはよう! ほらほら、ちゃんと起きたでしょ!!」


「…………」


あまりの異常事態に、小夜ちゃんはしばらくポカーンと口を開けてフリーズしていたが、やがて正気を取り戻すと、しみじみとした様子で窓の外を見つめた。


「おはようございます……。今日の天気は雪か、それとも空からかえるでも降ってきそうな感じですね……」


「さすがにひどくない!? 雪ならまだ奇跡が起きたってことでわかる気がするんだけど……蛙はないよ~、蛙は!」


トホホ……となりながら苦笑いする私。


けれど、私のテンションはすぐに持ち直した。


なんと言っても、あの「遅刻魔」の私が、今日の朝は一番乗りなのだ。


「ふふん、さて! 今回の寝坊は佐伯君に決まりだね!」


終始嬉しそうに鼻歌を歌わんばかりの私を見て、小夜ちゃんは(本当に今日、何か天変地異でも起きるのでは……!?)と不穏な予感をひしひしと感じていたようだった。


そんな小夜ちゃんの視線を背に受けながら、私は佐伯君を起こしに行くべく、部屋の真ん中に置かれた仕切り(つい立て)の向こう側へと足音を忍ばせて移動した。


そっと仕切りの裏を覗き込むと、そこにはまだお布団の中でスヤスヤと眠っている佐伯君の姿があった。  


いつもは堅物でツンツンしていて生意気な佐伯君の、完全に無防備な寝顔。


それを見た私は、いたずらっぽく目を輝かせると、ぐっと後ろへ腕を伸ばし、仕切りの外にいる小夜ちゃんに向かって「おいでおいで」と激しく手招きをした。


何事かと小夜ちゃんが足音を消して私の隣にやってくると、私はスマホを構えながら、蚊の鳴くような小声で耳打ちした。


「小夜ちゃん見て! 佐伯君の寝顔、超レアじゃない!?」


カシャリ。  


私はすかさず、佐伯君の貴重な寝顔写真をこっそりとスマホで激写した。  


すると、画面に写った佐伯君の顔を見た小夜ちゃんも、思わず口元を押さえてふふっと笑みをこぼした。


「確かに……寝顔はとてもかわいいですね。……でも詩樹さん、そろそろ起こさないと佐伯さんかわいそうですよ?」


「確かにそうだね! 朝食の時間になっちゃってたら可哀想だもんね~」


私はもっともらしく頷くと、スマホを畳の上に置き、お布団で眠る佐伯君の顔へとゆっくり手を伸ばした。  


そして――彼の高くて綺麗な鼻を、指先でギュッとつまんで完全に塞いだ。


「…………っ!?!?ぅぐっ、!?」


当然、急激な息苦しさに襲われた佐伯君は、目を血走らせながらガバッと飛び跳ねるように起きた。


窒息の危機から脱し、ハァハァと荒い息を吐きながらパニックになっている佐伯君の目の前で、私は両手を広げて最高に上機嫌な笑顔を浮かべた。


「おっはよ~~~、寝坊助く~~~ん!」


勝ち誇った私の挨拶に対し、佐伯君は涙目で鼻を押さえ、信じられないものを見るような目で私を睨みつけて怒鳴った。


「……あなた、朝から私を窒息死させるつもりですか!?」


涙目で鼻を押さえながら本気で怒っている佐伯君に対し、私は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうにニコニコとした笑顔を向けた。


「ひどいな〜、せっかく起こしてあげたのに。起きたなら、ちゃんと『おはよう』って挨拶をしなきゃダメだよ?」


「こんな非人道的な起こされ方をしたのは、私の人生で詩樹さんが初めてですよ!」


まだ完全に怒りが収まらない様子で、声を荒らげる佐伯君。


いつもは冷静な彼がここまで感情を露わにするのが可笑しくて、私はさらにケラケラと声を立てて笑った。


「あはは、生きてるんだし、大丈夫だよ~!」


そう言って笑いながら、私は畳の上からゆっくりと立ち上がった。


ぐっと背伸びをして、障子越しに差し込む朝の光を全身に浴びる。


「さあ、みんな無事に起きたことだし! ササッと着替えをして、美味しい朝食を食べに行こう!」


私はそう宣言すると、自分のお布団がある側へと戻るため、部屋の真ん中に置かれた仕切り(つい立て)の向こう側へと移動し始めた。


そして、すれ違いざまに仕切りの向こうにいる佐伯君を振り返り、わざとらしく人差し指を立ててからかうように言い放った。


「あ、佐伯君。私たちが着替えてる間、絶対に覗かないでね!」


「誰が覗くか!!」


仕切りの向こうから、食い気味に佐伯君の鋭いツッコミが飛んでくる。


彼の怒りはまだまだ収まりそうにない。


私がいたお布団のスペースに戻ってくると、先に衣服の準備を始めていた小夜ちゃんが、服を抱えたまま私を見てクスリと苦笑した。


そして、ちょっと困ったような表情で私を優しく諭してきた。


「詩樹さん、さすがに今の起こし方はやりすぎです。ちゃんと後で佐伯さんに謝りましょうね」


小夜ちゃんの真っ当な正論に、私は少しだけバツが悪そうに視線を泳がせながら、返事した。


「う……。わ、わかってるよ。着替えが済んだら、ね……」


仕切りの向こう側からは、衣服が擦れる音と、佐伯君がいまだにブツブツと文句を言っている気配が伝わってくる。


私たちは、動きやすい服装へと着替えを始め、それぞれの衣服の擦れる音がやみ、着替えが終わる。


真ん中の仕切りを片付け、荷物をまとめた私たちは、朝食を食べるために『龍淵りゅうえんの間』の部屋を出て、静かな廊下へと歩き出した。


トコトコと歩く佐伯君の少し後ろを歩きながら、私はやっぱり、さっきの強引な起こし方を少しだけ反省していた。  


 意を決して少し早足で距離を詰めると、私は佐伯君の服の袖を、指先でちょんと引っ張った。


「おや?」と足を止めて振り返った佐伯君から、気まずさのあまりすっと目線をそらしつつ、私は唇を尖らせてボソッと小さな声を絞り出した。


「さっきは……ごめん……」


蚊の鳴くような声だったけれど、確実に佐伯君の耳には届いたはずだ。  


そんな私たちのやり取りをすぐ後ろで見聞きしていた小夜ちゃんは、口元を片手で隠してクスッと優しく笑った。


(ふふ、詩樹さんもなんだかんだで、まるで子供っぽい謝り方をするんだから。素直で可愛いところもあるんですよね)


小夜ちゃんが後ろから、ほのぼのとした視線を送っているとも知らず、謝られた当の佐伯君はというと、最初はまだムスッとした表情のままだった。


けれど、私のバツの悪そうな顔を見ると、観念したようにふっと肩の力を抜いた。


「……私の方こそ、朝から大人気なく声を荒らげて怒ってしまい、すみませんでした」


佐伯君が真面目な顔でそう返してくれたので、私は途端に嬉しくなり、すぐにいつもの調子を取り戻し、顔を上げてにんまりと笑う。


「じゃあ、仲直りの意味を込めて、私に『おはよう』って言って!」


「……は?」


これまた私の斜め上をいく要求に、佐伯君の思考が完全にストップした。


何を言っているんだこの人は、と言わんばかりにパチクリと目を瞬かせたあと、ふーっ、と深いため息を一つ吐き出した。


「……詩樹さんらしいですよね、本当に」


佐伯君は呆れたかのような声を漏らしながらも、どこか口元を緩め、改めてこちらに向き直った。


「お二人とも、朝の挨拶が遅れてしまいましたが――おはようございます」


少しぶっきらぼうだけど、いつもの彼らしい丁寧な挨拶。


小夜ちゃんも嬉しそうに微笑んで頭を下げた。


「佐伯さん、おはようございます」


(よかった~、佐伯君、ちょっと機嫌が直ったかな……?)  


彼の瞳を見つめながら、私は心の中でホッと胸をなで下ろした。


――けれど、その安堵も束の間だった。


廊下を曲がり、案内されていた朝食会場の広間の前に差し掛かった、まさにその時。


襖が開いたかと思うと、中からバッタリと、あの威厳に満ちた佐伯君のお父さんが姿を現したのだ。


「っ!?」


一瞬にして、昨日のあの張り詰めた修羅場の空気が脳裏をよぎる。


私の顔は一瞬で「ヒィーッ!」と言わんばかりの驚愕に染まり、思わず、


「お、お、お、お、お父様っ……!! お、お、おはようございますっっ!!」


驚きのあまり、喉の奥から出た声が完全に裏返って盛大にひっくり返る。  


隣にいた小夜ちゃんも一瞬にして緊張した様子で直立不動になり、引きつった作り笑顔を浮かべながら、ペコっと頭を下げ、消え入りそうな声で挨拶をした。


「お、おはようございます……っ」


朝一番から、まさかの 最強のエンカウント(遭遇)。 


静まり返った廊下で、お父さんの鋭い視線が、大慌てしている私たちに、じっと注がれた――。


佐伯君のお父さんは立ち止まることなく、低い、地を這うような声でピシャリと言い放った。


「小娘! 朝から騒がしい! 昨日も思ったがお前は頭痛の種だ!」


「ふんっ!」と激しく鼻を鳴らしてそのまま私たちの横を通り過ぎていく。


その後ろからは、お弟子さんらしき着物姿の人物が数人、冷や汗をかきながら付き従うようにバタバタと後を追っていった。


「な、ちょっと! 私、そんなに騒がしくしてないし!」


その姿が廊下の角へと消えた瞬間、私は我慢できずにその背中に向かって、思いきり「べーっ!」と舌を突き出した。


「詩樹さん、声が、声が大きいですって……!」


小夜ちゃんが慌てて私の口を手で押さえる。


 一瞬にして張り詰めていた緊張の糸が解け、私と小夜ちゃんは「はぁぁ……」と同時に深い安堵のため息を吐き出した。


本当に寿命が縮まるかと思った。


私は、隣で終始無表情を貫いていた佐伯君の肩を、ぽんと労うように叩き、そして心底同情するような、哀れむような視線を向けながらそっと告げた。


「佐伯君……キミ、本当にご苦労様だよ……。毎日…あれはメンタルが持たないって……」


私の大袈裟な様子に、佐伯君は困ったように眉を下げ、どこか遠い目をして呟いた。


「……まあ、慣れですね」


「ごめん、佐伯君。私は一生慣れないと思うわ〜」


首を横に振る私に、小夜ちゃんも深く同意するように何度も頷いた。


「佐伯さんには申し訳ないですが……詩樹さんと同様に、私もお父様に慣れるのはちょっと無理だと思います」


小夜ちゃんが苦笑いを浮かべ、私たちは3人で顔を見合わせて小さく息を吐き出した。


その時、廊下の遠くから、救いの神のように優しい女将さんの声が響いた。


「皆さま、おはようございます」


「女将さん、おはようございます!」と声を揃えて挨拶を返す。


そのまま女将さんの丁寧な案内に従って、朝食が用意されている広間のテーブル席へと移動した。


――さあ、待ちに待った朝食だ!


先ほどまでの重い空気はどこへやら、私はるんるん気分で席についた。


目の前のテーブルに並べられた朝食は、色とりどりの小鉢に、焼き立てのお魚、湯気を立てるお味噌汁と、目移りしてしまうほど豪華なものだった。


「朝からこんなに豪華でいいんですか!?」


思わず身を乗り出して目を輝かせる私に、女将さんは嬉しそうに目を細めて笑った。


「ふふ、お口に合うと良いのですが。たくさん食べてくださいね」


「「「いただきます!」」」


3人で綺麗に声を合わせて手を合わせ、さっそくお箸を動かし始めた。


 佐伯君もお味噌汁を口に運び、小夜ちゃんも美味しそうに卵焼きを食べている。


いつもなら、私も誰よりも早くご飯をおかわりして、お皿をピカピカにしているところだった。


――が。


「うーん……なんだか、お腹いっぱいになっちゃったわ」


数口動かしただけで、私は早くもお箸を置いてしまった。


お茶碗の中のご飯も、小鉢のおかずも、普段の私からは考えられないほどたくさん残っている。


お茶をすすりながら一息つく私を見て、小夜ちゃんが不思議そうに首を傾げた。


「あら、詩樹さん。ご飯を残すなんて珍しいですね。いつもなら真っ先におかわりするのに、どうしたんですか?」


「そうなんだよ〜。昨日の懐石料理、美味しすぎてちょっと食べ過ぎちゃったのかも。まだ胃の中で消化が追いついてなかったのかな〜、あはは」


私は冗談めかしてケラケラと笑い、お腹をさすってみせた。


「もう、欲張るからですよ」と小夜ちゃんが呆れたように笑い、佐伯君も「まったく、相変わらずですね」といつもの調子で呆れ顔を浮かべている。


――二人は、気づかなかった。  


笑っている私の顔が、どこかいつもより青白く、お箸を持つ右手の指先が、微かに震えていることにも。


昨日の懐石料理のせいなんかじゃない。  


深夜、右手に浮かび上がったあの赤黒い「呪印」――。


夢の中で女性に癒やされ、見た目は綺麗さっぱり消え去ったはずのそれが、夢ではなかった。


確実に、体力が回復していなかった。


じわじわと削り取るように不調をもたらし始めていたのだった。


私は焦りを感じていた。


 お箸を置こうとした右手に、思うように力が入らないのだ。


指先が自分の意思を拒むように重く、じんわりとした気だるさが腕全体に広がっていく。


(嘘でしょ……? なんでこんなに力が入らないの……っ)


冷や汗が背中を伝う。


けれど、せっかくの楽しい朝食の時間を台無しにしたくはなかったし、何より二人に心配をかけたくなかった。


私は無理に口角を上げて立ち上がった。


「あ、私、先に部屋に戻って準備して待ってるね!」


「そうですか? わかりました、私たちも急いで食べて行きますね!」


小夜ちゃんが口元を拭きながら応えてくれる。


「ううん、まだ時間もあるし、二人はゆっくり食べなよ〜」


いつものようにひらひらと手を振り、私は努めて明るい笑顔を残して、朝食会場を後にした。


廊下に出た瞬間、張り詰めていた緊張が解けて、どっと重い疲労感が押し寄せる。


フラフラする足取りをなんとかコントロールしながら、私は自分たちの部屋である『龍淵の間』へと戻った。


部屋に入ると、私はすぐに自分の荷物へと向かった。  


今回のために準備してきた大切な『霊刀』をしっかりと手に取る。


その重みを確かめるように握りしめてから、さらに、愛用の『モノクル(単眼鏡)』をズボンのポケットへと滑り込ませた。


「よし。準備もできたし、あとは二人を待つだけ……」


二人が戻るまでの間、私は窓際へと歩み寄った。

 

ガラス越しに、深夜に起きた出来事を激痛にもだえながら導かれた裏庭をじっと見つめる。


そこにはあの白い着物の女性の姿はなかった。  


目を凝らしても、意識を集中させても、彼女の気配は微塵も感じられない。


静まり返った美しい庭園があるだけだった。


私は窓に額を押し当てるようにして、ボソッと小さな声を漏らした。


「無事に旅立ったのですね、母上……」


その瞬間、熱いものが一気に込み上げ、目頭が熱くなった。


じわりと涙が溜まり、視界が大きく歪んでいく。


まただ。これは私の感情じゃない。


私の意思とは全く関係のない『誰か』が、胸の奥で張り裂けそうなほどの切なさと愛おしさを爆発させているのだ。


瞼を閉じた瞬間、堪えきれなくなった大粒の涙が、頬を伝ってポロポロと溢れ落ちた。


ガラッ。


静かな部屋に、襖を開ける音が響く。


「っ!」と私は心臓を跳ね上げ、慌てて袖で涙を拭き取り、一瞬で涙の痕を消し去った。


振り返る時にはいつもの、能天気な「詩樹」の笑顔を作り出す。


「おかえり! 二人とも早かったね〜!」


「詩樹さん、お待たせしました。」


部屋に入ってきた佐伯君が、荷物をまとめながらふと思い出したように私を見た。


「それにしても、食いしん坊の詩樹さんがご飯を残すのは、珍しいですね」


「私だって、お腹いっぱいの時もあるんだよ〜」


私は人差し指をチッチッと横に振りながら、お調子者らしくおどけてみせる。


そんな私の様子を横で見ながら、小夜ちゃんが予定を告げる。


「早めにチェックアウトを済ませて、荷物を受付に預けたら、そのまま古刹こさつに続く渡り廊下へ向かいましょう」


荷物をまとめながらテキパキと指示を出す小夜ちゃんに、私は大きく頷いた。


「そうだね! 今日はやること多いし、早めに行こうか」


「えっ……」


私の言葉を聞いた小夜ちゃんが、持っていた鞄を落としそうになりながら、大袈裟なほど驚いた顔でフリーズした。


「やっぱり……今日の天気は雪どころか、本当に天変地異が起こるかもしれません。あの詩樹さんが『早めに行こう』なんて言うなんて……!」


すかさず佐伯君が真面目な顔でツッコミを入れる。


「小夜さん、縁起でもないことを言わないでください。」


私は小夜ちゃんの言葉にギクッとしながらも、佐伯君の言葉に便乗して大慌てで胸を張った。


「そうだぞ! 小夜ちゃん、縁起でもない! 私だって、やる時はやる子なんだからね!」


ぷんぷんと怒るフリをする。


けれど、私の内心は穏やかではなかった。


右手の感覚はまだ鈍いままだし、何より、あの涙の余韻が胸の奥でまだ疼いている。


(大丈夫。しっかりしなきゃ、私……!)


自分に気合を入れ直すように、私はポケットのモノクルを上からそっと握りしめた。


小夜ちゃんも佐伯君も手際よく準備を終え、私たちはそれぞれの荷物を手に部屋を出た。


荷物を預けるために、フロントの受付へと向かって静かな廊下をトコトコと歩きながら、私はふと思い出したことを、隣で歩く佐伯君へと投げかけた。


「ねえ、佐伯君。もし今回の件があやかしじゃなくて、霊的なものだったとしたら、いつもと同様にそっちに回しちゃってもいい?」


「……は?」


私の軽い問いかけに、佐伯君は歩く速度を緩め、怪訝けげんそうな視線をこちらに向けてきた。


どうやら、毎回疑問に思っていたことをこの機会に白黒ハッキリさせようと決めたらしい。


「霊的な依頼のたびに、毎回当然のように私に回してきますが……詩樹さんも祓うことはできますよね?」


「ん? 私、祓えないよ」


私がごく当然のように、あまりにも軽い口調で言い返すと、佐伯君はついにピタッとその場に足を止めた。


眼鏡の奥の目が、これ以上ないほど丸くなっている。


「……詩樹さんの裏の家業って、呪術師の仕事ではないんですか!?」


宿坊の廊下に響き渡りそうなほどの驚愕の声。


けれど、ここでも私はあっけらかんとした態度で、ケラケラと笑い飛ばした。


「な〜にを言っているの、笑。私は妖退治専門だよ〜。呪術師じゃないし〜」


じゃ、先に行ってるね〜、と言わんばかりに、私はそのまま笑いながらフロントへ向かって行った。


残された佐伯君は、あまりの衝撃にしばらく言葉を失っていたが、やがて絞り出すように声を漏らした。


「単に仕事がめんどくさくて、私に押し付けているだけだと思っていたのに……。まさか……妖退治専門?? 初耳です……!」


完全にキャパシティをオーバーしている佐伯君を見て、彼の横を通り過ぎようとした小夜ちゃんが、バツの悪そうな苦笑いを浮かべた。


「まあ……その辺は、詩樹さんに直接尋ねないと答えてくれませんからね。自分の口からは、基本的にそういうことは言わない人なので……」


小夜ちゃんは少し同情するように肩をすくめると、「詩樹さん、待ってください〜!」と足早に私の後を追ってフロントへと向かっていった。


一方、廊下の真ん中で一人取り残された佐伯君は、まるで狐にでもつままれたかのような顔で呆然と立ち尽くしていた。


彼の脳裏には、入社してから今日この時までに至る日々の記憶が、まるで走馬灯の如く駆け巡っていく。


(あの怪異の時も、あの心霊スポットの依頼の時も、押し付けられたと思っていた全ての帳尻が合う……)


すべてのピースがパチリと噛み合った瞬間。


「あぁ……そういうことだったんですね……」


佐伯君はぽつりと呟くと、どこか吹っ切れたような、あるいは新たな闘志を燃やすような、不敵な笑みを口元にこぼした。


「ふっ……」


眼鏡の位置を小さく指で直すと、彼はいつもの冷静な、けれどどこか納得したような足取りで、私たちの待つフロントへと向かって歩き出したのだった。


第四章をご覧いただきありがとうございました!

深夜のミステリアスな出会いから一転、朝の佐伯君の起こし方が独特な詩樹…

ついに佐伯君が「詩樹=妖退治専門」という衝撃の事実にたどり着き、すべてのピースが噛み合った彼の、今後の変化にもご注目ください!

では次週もお楽しみに!

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