第三章:予期せね待ち人
「……お部屋は『裏庭』が見える一番奥の間を用意してございますよ。あそこは……よく、視えますさかい」
女将さんの言葉を背に、私たちは宿の最奥にある『龍淵の間』に入った。
そこは外観の古めかしさを忘れさせるほど見事にリノベーションされていた。
琉球畳の香りと、モダンな間接照明。
しかし、私の視線は壁一面のガラス窓の向こう――ライトアップされた裏庭に釘付けになった。
光の届かない闇の境界に、その人は立っていた。
クリーム色がかった、柔らかな白の着物を纏った女性。
(……誰?)
恐怖はなかった。
むしろ、ずっと探していた誰かに再会したような、胸を締め付けられるほどの懐かしさ。
けれど、その正体を確かめようと窓を少し開けた瞬間、背後の襖が荒々しく開け放たれた。
「――やはりここにいたか、朔弥!!」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
そこに立っていたのは、佐伯君の面影を濃く残した、厳格な面持ちの初老の男性だった。
「……お父さん?。なぜ、ここに」
佐伯君の声が、今まで聞いたことがないほど冷たく響く。
彼は手にしていた古文書を握りしめ、立ち上がった。
その背中は、外の怪異に対峙する時よりも鋭く強張っている。
「雲水住職から依頼を受けた。数年前に出て行ったお前の声がしたから、見てみたら、そんな小娘共の尻を追いかけまわしていたのか!? 情けない。一族の面汚しめ!」
「……言葉を慎んでください。詩樹さんたちは私の――」
火花が散るような二人の視線の間に、私は思わず割って入った。
「佐伯君、待って!」
正直、このお父さんの威圧感は幽霊より怖い。
けれど、佐伯君が私たちのために怒りをあらわにして、今にも喧嘩が勃発しそうな展開になりかねない……放っておけるはずもなく。
「あの、お父様……ですか? 初めまして……。私は雪森詩樹と申します。佐伯君が面汚しだなんて、とんでもないです! 彼は立派な講師で生徒からも慕われるいい先生なんです! それに私の家業の手伝いまでしてくれる優秀な助手なんです!」
勢いだけで捲し立てた私の言葉に、佐伯君の父親は眉をピクリと動かした。
「……貴様、安倍の末裔か」
蛇に睨まれた蛙のように硬直する私。
心ではこの場をなんとしてでも穏便に、ささっと出て行ってもらいたい一心で、思わず「えっ、あ、はい。……」と答えてしまった。
――が、一秒後に猛烈な違和感が襲ってきた。
(待って、安倍晴明が私のご先祖って言ってるの!? 全然違うのに!!)
私は急いで訂正の言葉を放った。
「い、いえ!? 違います!! 私のご先祖様は不明です!!」
必死の否定。しかし、佐伯君のお父さんは納得するどころか、顔面を射抜くような鋭さで、すごーく睨んでくる……。
部屋の空気は最悪。
小夜ちゃんですら、珍しく口を挟まずに状況を注視している。
私は居たたまれなくなり、佐伯君のお父さんに「ひとまず座ってお茶でもどうですか?」と伝えた。
すると彼は鼻で「ふんっ」と言わんばかりの態度を見せつつも、どっしりとテーブルの前に腰を下ろした。
間近で見ると、やはり鼻筋や理屈っぽそうな口元が佐伯君によく似ている。
そんなことを思いつつも、小夜ちゃんが淹れてくれたお茶を出す私の手はブルブルと情けなく震えていた。
「ま、まあ忙しいところ、お父様も遠くからお疲れでしょう? 小夜ちゃんが淹れてくれたお茶、すっごく美味しいんです。佐伯君も、そんな怖い顔しないで座ってよ。ね?」
必死すぎる私の「仲裁」に、佐伯君は呆れたように肩の力を抜いた。
「……詩樹さん、あなたという人は……」
複雑そうな表情をする佐伯君を促すように、
「まあまあ、いいから座る、 家族なんだし、まずはお茶を飲んでから話そう?」
強引に佐伯君を座らせようとする私の背後で、ふと、庭の方から柔らかな風が吹き抜けた。
振り返ると、あの白い着物の女性の姿はなく、部屋の中には、彼女が残していったかのような微かな花の香りが漂っていた。
「……ちっ、お節介な娘だ」
毒気を抜かれたのか、お父さんは不機嫌そうに、けれど私が出した湯呑みに手を伸ばした。
「は、はっはは……」
引きつった苦笑いを浮かべた私だったが、お茶を一口すするうちに、フッとある疑問が頭をよぎった。
――そもそも、なぜ佐伯君のお父さんがこのタイミングでここにいて、しかも私を見るなり「安倍晴明の末裔」なんて言ったのだろう?
胃がキリキリと痛むのを無視して、私は勇気を振り絞って尋ねてみた。
「あ、あの~、佐伯君のお父様、2つ質問していいですか?」
お父様は湯呑みを乱暴に置くと、不満たらたらな声で言い放った。
「なんだ、小娘」
思わず(うっ……!)と気圧されそうになったのを必死で堪え、私は背筋を伸ばす。
「えっと、まず1つめなんですけど、お父様はなぜここに……?」
佐伯君のお父さんは、私の必死さに呆れたように鼻を鳴らした。
「さっきも言ったように、雲水住職から直々に依頼を受けて来た。それだけだ」
なるほど、やはり二重依頼か……妖ではなかった場合か。
そこまではいい。問題は次だ。
私はごくりと唾を飲み込んで、2つめの疑問をぶつけた。
「じゃあ、2つめです……。どうして、私が晴明さんの子孫だと思ったんですか?」
その問いを発した瞬間、お父様の再び射抜かれそうな凄まじい視線で睨まれ、私の心臓がビクッと跳ね上がる。
けれど、佐伯君のお父さんが低く放った言葉は、恐怖を忘れるほど衝撃的なものだった。
「――小娘、お前の後ろに『式神』が視えるからだ」
「……え?式神ですか?」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
佐伯君にも、以前まったく同じことを言われたのだ。
『貴女の後ろにいるのは式神ですか?』と。
霊能力のある二人には、はっきりと視えていて、当事者の私には何も視えない。
その厳然たる事実を突きつけられ、私は思わず下を向いてしまった。
そんな私に気づいたのか、小夜ちゃんが心配そうに覗き込んでくる。
「詩樹さん、大丈夫ですか……?」
努めて明るく、カラ元気で答えた。
「小夜ちゃん、大丈夫だよ! それにしても、やはり佐伯君とお父様はさすがですね!」
けれど、今の私は一体どんな顔をしているんだろう。
気まずい沈黙が流れる中、佐伯君も佐伯君のお父さんも、そして小夜ちゃんも、なんとも言えない複雑な表情で私を見つめていた。
その場の空気が、さらに一段と気まずくなった、その時だった。
「興が削がれた」
佐伯君のお父さんが吐き捨てるように言い、立ち上がった。
「朔弥、お前に話したいことがある。今から風呂に付き合え」
「……え? ちょっと、お父さん!?」
佐伯君のお父さんは反論を許さず、無理やり佐伯君の腕を掴むと、そのまま引きずり出すようにして荒々しく部屋を出て行ってしまった。
バタン、と襖が閉まる。
二人の足音が廊下の向こうへ消えた瞬間、私と小夜ちゃんの口から、同時に盛大なため息が漏れた。
「「はあああああぁぁぁ……」」
重苦しいプレッシャーから解放され、全身の気が抜けて畳に沈み込みそうなほどの、深い深い安堵だった。
「いや~、佐伯君のお父様、強烈だったね……」
私が畳にへたり込みながら小夜ちゃんに語りかけると、彼女も胸に手を当てて深く息を吐き出した。
「本当ですね……。私、びっくりして声も出なかったです」
安堵の表情を浮かべながらも、小夜ちゃんの声はまだ少し震えている。あの場にいれば、誰だってすくみ上がってしまうのも無理はない。
「まあ……無理もないよ。あんな圧が凄いのと、私の顔面を今にも射抜いてきそうな視線がたまらなかったよ~……」
私は思い出すだけで胃が痛くなり、ぐったりとした嘆きの声を漏らし、本当に生きた心地がしなかった。
「そう言えば、今何時なんだろう?」
時計が視界に入っていなかったことに気づき、私が尋ねると、小夜ちゃんは手元のスマホを確認して教えてくれた。
「今は18時を過ぎたところです」
「そっか。それじゃ、夕食までの時間、佐伯君が戻ってくるまでの間、各自明日の準備と確認をしようか」
私の提案に、小夜ちゃんも「そうですね」と頷き、自分の荷物からテキパキと明日の準備に取り掛かった。
私も自分の旅行カバンを開け、中から大切に保管していた『霊刀』と『モノクル(片眼鏡)』を取り出す。
明日の仕事で必要になる、私にとっての「道具」だ。指先でその冷たい感触を確かめながら、ふと思いだし、小夜ちゃんに投げかけた。
「ねえ、小夜ちゃん。『守りの結界』、割れたりしていない?」
小夜ちゃんは頼もしく胸を張った。
「もちろん割れてないです! 念のために、予備の結界もちゃんと持ってきました」
その声には先ほどの震えはなく、いつものしっかり者で優秀な小夜ちゃんに戻っていた。
私はホッと胸をなでおろす。
けれど、ふと見ると、小夜ちゃんが何かを言いたそうな顔をして私をじっと見つめていた。
少し躊躇するように視線を泳がせている。
「小夜ちゃん、聞きたいことがあるなら何でも聞いてよ。私たち、そんな水臭い仲じゃないでしょ?」
私が茶化すように笑うと、小夜ちゃんは少し照れたように、けれど真剣な眼差しで口を開いた。
「そう……ですね。長く詩樹さんと一緒にいたのに、私、詩樹さんのこと、あまり知らないんだなって、さっき気がついたんです」
「確かに、そうだね~……。私、自分のことってあんまり話してこなかったかも?」
私は頭を掻きながらはにかんだ。
「今のうちに何でも聞いちゃいなよ、小夜ちゃん。時間が経ったら、いつもの私に戻って、はぐらかしちゃうかもしれないよ~?」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
小夜ちゃんはごくりと唾を飲み、静かに、ずっと気になっていたであろう核心を切り出してきた。
「私は、詩樹さんの後ろにいるという『式神』は視えません。……けど、詩樹さん自身には、てっきりその姿が視えているんだと思っていました。その……ご自身では、本当に視えないんですか?」
「あはは、小夜ちゃん、痛いところを突いてくるね~……」
苦笑い混じりの声が、自分の口から漏れた。
「そう、視えないの。……視えている(・・・・)時があるとすれば、夜道で街灯に映し出される『影』だけ。それも毎日じゃないんだよ」
自分で話していて、胸の奥が締め付けられるような感覚に陥る。
自分の顔から笑みが消え、悲しげな色が広がっていくのが分かった。
「それにね……本当に一度だけ、偶然にその姿が視えたことがあるの。今にも泣き出しそうな笑顔をしている、式神がね。まるで、『やっと自分を見てくれた』と言わんばかりの表情だった。……あの時の顔は、今でもずっと忘れられないんだ」
ぽつりと、心の奥底に沈めていた記憶を告白するようにそう答えた。
ふと小夜ちゃんの顔を見ると、彼女の大きな瞳に、大粒の涙が溢れんばかりに溜まっていた。
私の寂しさや、視えない式神の切なさに、小夜ちゃんは自分のことのように心を痛めてくれたのだ。
「えっ!? 小夜ちゃん、泣かないで!? なんで小夜ちゃんが泣いちゃうの!?」
予想外の反応に、私は一気にパニックになって慌てふためいた。
今しがたカバンから出したばかりの霊刀やモノクルを慌てて畳に置き、それすら落としそうになるくらい手をバタバタと動かして小夜ちゃんをなだめようとする。
そんな私の大慌てな様子を見て、小夜ちゃんは涙をためたまま、小さく吹き出した。
「ふふっ……」
「いつもの詩樹さんに、戻ってよかったです……」
そう言って微笑む小夜ちゃんの頬を、一筋の涙が静かに伝っていった。
部屋の空気はさっきまでの重苦しさが嘘のように、温かく優しいものに変わっていた。
そんな私たちの少し照れくさい空気をお見通しだったかのように、タイミングよく襖の向こうからコンコン、と上品な音が響いた。
「失礼いたします。お夕食の準備が整いましたので、お持ちいたしましたよ」
入ってきたのは女将さんだった。
大きな御膳の上には、地元の新鮮な食材をふんだんに使った、目にも鮮やかな懐石料理が並んでいる。
甘辛く炊かれた季節の煮物や、つやつやとしたお米。
部屋いっぱいに広がるお出汁の良い香りに、張り詰めていたお腹がぐう、と小さく鳴ってしまい、私は思わずお腹を押さえた。
小夜ちゃんがそれを見て小さく笑う。
「まあ、たくさん歩いてお腹が空かれましたやろ。今、並べますさかいね」
女将さんは手際よく、湯気の立つお料理をテーブルに並べていく。
お茶碗とお箸、そしてお盆の数は、きっちり「3人分」置かれた。
女将さんは辺りを見回し、不思議そうに首を傾げた。
「おや、佐伯さんはまだお戻りになりまへんの? 大浴場へ行かれたと伺うておりますが……」
「あ、はい。ちょっと……お父様と一緒にお風呂へ行ったみたいで……」
私が少し歯切れ悪く答えると、女将さんは「まあ、それはそれは」と、すべてを察したような、あるいは少し深みのある笑みを浮かべた。
そして、少しだけ声を潜めるようにして言葉を続ける。
「佐伯さん……、朔弥さんほんまに家にいるのが嫌やったみたいでねぇ。ここへ来て、ようやく自由になれたとは思っていたんやけど、偶然にもお父様(佐伯さん)も来られて難儀やねぇ……」
女将さんのどこか寂しげで、それでいて彼を温かく案じるような響きに、私と小夜ちゃんは思わず顔を見合わせた。
佐伯君が家を出ていった時のこと、そして彼が背負ってきたものの重さが、その一言から静かに伝わってくる。
「……では、お料理が冷めないうちにお召し上がりくださいね。ごゆっくり」
ひとしきり目を細めたあと、女将さんはいつものにっこりとした微笑みに戻り、音もなく襖を閉めて部屋を後にした。
部屋に残されたのは、私と小夜ちゃん、そして美味しそうな夕食。
目にも鮮やかな懐石料理を食べたくて仕方がない私は、早く佐伯君が帰ってこないかと、チラリ、チラリと何度も襖の方へ視線を送る。
しかし、それからさらに十分が経過しても、目の前の豪華な夕食から湯気が消えかけても、部屋の襖が開く気配は一切なかった。
小夜ちゃんと二人で、静まり返った廊下に出てじっと廊下の奥を見つめていた。
「……遅いね」
「遅いですね……」
「せっかくの懐石料理、冷めちゃうよ……」
はっ!!
――まさか!お風呂場でお父さんにのぼせるまで説教されているんじゃ……?
いや、最悪の場合、湯船の中で掴み合いの激しい親子喧嘩でも始まっているのでは……!?
私は毎度、ながらの妄想を勝手に膨らませていた。
(えっ、待って、お互い全裸で大浴場を飛び回る大乱闘!? 宿の湯ぶねが破壊されたら弁償!? っていうか、のぼせて沈んだ佐伯君をお父さんが放置してたらどうしよう!?)
「よし、ちょっと迎えに行ってくる!」
「詩樹さん、気をつけてくださいね。お父様、まだ怒ってるかもしれませんから……」
小夜ちゃんの心配そうな声を背中で受け止めながら、私はお風呂場へと続く長い廊下を急いだ。
大浴場の入り口が見えてきたその時、湯上がりのほかほかとした湯気が漂う休憩スペース(湯上がり処)のベンチに、見覚えのある二つの影が視界に入り、私はピタリと足を止めた。
そこには、すでにお風呂から上がった様子の佐伯君とお父さんが、並んで腰掛けていた。
けれど、リラックスするための場所のはずなのに、二人の周りだけ氷点下の冬山のような空気が漂っている。
対峙の時間は終わりに近づいているようだったが、その分、沈黙は重く鋭かった。
「お前が何を言おうと次期当主はお前だ、逃れられんぞ、朔弥」
お父さんが髪を濡らしたまま、冷徹な声を低く響かせる。
その絶対的な圧力を前に、佐伯君は拳を握り締めながら、静かに、けれど明確に言い返した。
「……次期当主の座は隆二に譲った、それに俺より隆二の方が向いている、お父さん。俺は隆二に負けたんだよ、アイツの力は俺より上だ、だから俺は自分の行きたい道に行き、もうあの家には帰らない」
普段の堅物な表情とは打って変わって、冷たく、頑ななまでに張り詰めた佐伯君の声。
初めて耳にする彼の本音と、男二人の一触即発のピリピリとした空気が、離れた廊下にいる私にまで容赦なく伝わってくる。
(ひええ……やっぱりめちゃくちゃシリアスな空気じゃん……! それに隆二くんって誰!?)
私は物陰でボソッと呟いた。
「……お腹空いたし、このままでは、ご飯が冷めちゃう」
美味しいご飯をベストな状態で食べたい。
ただそれだけ(・・・・)、けれど私にとっては重大な理由を胸に、ぐっと拳を握りしめる。
私は決死の覚悟で、静まり返る休憩スペースに向かって、できる限り大きな声を張り上げた。
「佐伯くーーん!! ご飯冷めちゃうよーー!! 女将さんがすっごく美味しい懐石料理運んでくれたよー、早く戻って食べよーー!!」
夜の湯上がり処に、私の緊張の裏返しのドタバタとした声が響き渡った。
その瞬間、二人の間に流れていた緊迫した空気が、ピタリと止まった。
私の「ご飯冷めちゃうよコール」に完全に毒気を抜かれたのか、ゆっくりとロボットのような動きでこちらを振り返った佐伯君と、その隣に座るお父さん。
(うわぁ、振り返るタイミングも角度も、動きまでが一緒……。なんだかんだ言って、さすがの親子だわ)
こんな状況だというのに、妙なところで感心してしまっている私に対し、お父さんは深ーいため息を吐き出した。
「……やれやれ。どこまでも調子の狂う小娘だ」
お父さんは少しだけ表情を和らげると、まだ困惑している佐伯君へと視線を戻した。
「朔弥、今すぐ答えを出さなくていい、だから考えてくれ」
そう言い残し、どっしりとしていた重い腰を持ち上げて立ち上がると、私の方に向かって歩いてくる。
(ひえっ、こっち来た――!?)
近づいてくるその威圧感に、私はタジタジになりながらも、引きつった必死の笑顔を浮かべて言葉を絞り出した。
「ご、ご飯冷めちゃうと美味しくなくなっちゃうので……すみません!」
恐怖のあまり、なぜか自分でもよく分からないタイミングで謝ってしまった私を、お父さんは上からじろりと見下ろす。
「小娘、お前どこまでも調子を狂わせる天才か?」
「私は本能のおもむくままに生きているだけです!」
胸を張って答えた斜め上の返しに、お父さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。
「ふんっ! けしからん!が、、、」
そう呟いてフイっと佐伯君の方を見て、それから再び私を見ては、ふっと息を漏らした。
「朔弥の気も触れたもんだ」
吐き捨てるかのようにそう一言残すと、お父さんはそのまま私の横を通り過ぎ、客室の並ぶ廊下へと戻って行った。
(き、緊張した〜……! でも、とりあえず修羅場は強制終了できた、よね?)
嵐の去った休憩スペースで、私は大きく息を吐き出し、まだベンチの横で呆然と立ち尽くしている佐伯君へと視線を向けた。
佐伯君は私を見るなり、開いた口が塞がらないといった様子で、「呆れた」と言わんばかりの表情を浮かべていた。
私が「大丈夫?」と声をかけようと彼の元へ歩き出そうとした、その瞬間だった。
ハッと我に返った佐伯君が勢いよく立ち上がり、大股でこちらへ歩いてきたかと思うと、低く掠れた声で呟いた。
「……助かりました」
――え?
そう思った次の瞬間、視界が佐伯君の浴衣の紺色で染まった。ふわりと、お風呂上がりの石鹸の香りに包まれる。
なんと、佐伯君が私をぎゅっと抱きしめていた。
(えっ!? ええええっ!? 何が起こったの――!?)
完全に思考停止状態に陥ってしまった私は、声すら出ない。
カチコチに固まったまま、どうしていいか分からず、とりあえずだが、なんとなく佐伯君の背中を軽くぽんぽんと叩いた。
そう、まるでお母さんが幼き子をなだめるかのように、優しく、ぽんぽんと。
すると、私のその絶妙な優しさが心に染みたのか、佐伯君の腕の力がさらに強まった気がした。
さすがに体格差もあり、これ以上締め付けられると危険を感じる。
「佐伯君……、ちょっと苦しいかも!?」
私が慌てて伝えると、彼は「ハッと!!?」と飛び退くようにして自分がしたことに気がついた。
「す、すみません、私は一体なにを……っ!!」
いつもの冷静沈着な姿はどこへやら、彼は自分の両手を見つめながら、耳まで真っ赤に染め上げている。
そして、視線を激しく泳がせながら、無理やり咳払いを一つした。
「ご、ご飯が冷める前に、早く行きましょう!!」
早口でそう言い捨てると、佐伯君は長い足をフル回転させてスタスタと先に行ってしまった。
残された私は、その背中を見送りながら、あごに手を当てる。
(い、今のハグは一体なんだったんだろう……?)
彼の真意を探ろうと、私の脳内コンピューターがフル稼働する。
そして、ぐるぐると考えを巡らせた結果――私の脳内に、いつもの斜め上の発想がポンッとハンコを押すように浮かび上がった。
手のひらにポンと拳を打ち付ける。
「はっはーん! お父さんに色々とキツいこと言われて、精神的に参っちゃって、誰かに慰めて欲しかったのね!」
なるほど、そういうことか! 普段は堅物だけど、やっぱりお父さんの前では強がって辛かったんだね。
「ふふ、可愛いところあるじゃん!」
私は独り言のように満足げに呟くと、少し先を歩く佐伯君の後を急いで追いかけた。
これだけエネルギーを使ったら、胃袋の限界だ。
「あー、お腹空いた〜!!」
佐伯君の背中に向けてそう大きな声で言い放つと、彼は少しだけこちらに振り向き、眉の端をぴくりと動かした。
「なら、もう少し早く来てくれても良かったのでは?」
お風呂での対峙を思い出したのか、少し恨めしそうに言い放つ佐伯君。
その言葉になぜかモヤっとした私は、むすっと唇を尖らせた。
「はいはい、迎えにいくのが遅くなりすみませんね〜だ!」
子供っぽく茶化すような感じで言い返すと、私は小走りで佐伯君をぐんぐんと追い抜き、彼を置き去りにしてひと足先に『龍淵の間』へと駆け戻っていった。
勢いよく襖を開けた瞬間、部屋で待っていた小夜ちゃんがパッと顔を上げた。
「お帰りなさい、詩樹さん! 佐伯さん、大丈夫でしたか?」
「うーん……、大丈夫のような、そうじゃないような……」
私がなんとも微妙なニュアンスで首を傾げて答えると、その数秒後、廊下から少しバツの悪そうな顔をした佐伯君が部屋に入ってきた。
「佐伯さん、お帰りなさい」
小夜ちゃんがホッとしたように声をかけると、佐伯君は耳の赤みを隠すように少しはにかみながらも、「ただいま戻りました」と静かに一言返した。
なんだか先刻の嵐のような騒ぎはどこへ行ったのやら。
部屋を包むいつもの平穏な空気を、私は心から噛み締めた。
胃のキリキリ感もすっかり消え去っている。
「さて! お待ちかねの懐石料理を食べよう!」
席につき、みんなで「いただきます!」と声を揃えて箸を取り、一斉に食べ始めた。
待ちに待った一口。……が、もぐもぐと口を動かしていた私は、小さく肩を落とした。
「……うう、やっぱりちょっと冷めちゃったね」
トホホ、と情けない声を漏らす。
冷めていても地元の食材を使った懐石料理は文句なしに美味しいのだが、やっぱり温かいうちに食べたかった、という食いしん坊な本音がどうしても顔を出してしまう。
すると、お椀を持った佐伯君が、申し訳なさそうに視線を落とした。
「すみません……。私のせいで……」
「あ、いやいや! 佐伯君を責めてるわけじゃないんだよ!?」
慌てる私に、小夜ちゃんがフォローを入れるようににこりと笑った。
「仕方がありませんよ。まさかあのお父様がここに宿泊されているなんて、思いもしませんでしたし」
「確かにそうだよねぇ」
私はお箸でつんつんとご飯を突きながら、昼間の出来事を思い出す。
「それに今回の依頼で、この宿坊は貸切のはずだったのに、まさかの二重契約とはね〜。これもまた、住職にしてやられた感はあるよね。妖の件だって、私はちゃんと電話で伝えたはずなのにさー」
むすっとしながら愚痴をこぼす私に、佐伯君も同調するように頷き、少し真面目なトーンで話しだした。
「確かに、住職の対応には疑問が残りますね。ただ……『今回は妖ではなく霊の仕業だ』と住職が頑なに信じ込んでいるのは、僕たちが何か判断を間違えている可能性もある、と住職が疑っているからかもしれません。その可能性も、完全には捨てきれませんよね?」
佐伯君の冷静な問いかけに、私はお刺身を口に運びながら頷いた。
「まあ、私たちも送られてきた画像だけを見て判断したわけだし、実際に見るまでは100%断定はできなかった部分もあるからね。明日、直接見ればはっきりするでしょ」
そんなふうにご飯を食べながら、私たちは明日の仕事についての雑談を交わした。
ひと通りお腹が膨れて落ち着いたところで、私は思い出したように佐伯君に向き直る。
「そうそう、佐伯君。君がお父様に連行されている間に、私と小夜ちゃんは明日の準備と確認をばっちり済ませたからね。佐伯君もご飯が済んだら、明日の準備、ちゃんとしておいてね」
頼もしく胸を張る私を見て、佐伯君はいつもの頼れる助手の顔に戻り、柔らかく微笑んだ。
「分かりました。僕もすぐに確認を済ませておきます」
そうして3人で残りの夕食を綺麗に平らげ、お腹も心もすっかり満たされた頃、ちょうど良いタイミングで襖の向こうからコンコンと音が響いた。
「失礼いたします。お下げに参りましたよ」
入ってきた女将さんが、手際よく空になった御膳を下げていく。
その見事な手際の良さに感心していると、女将さんは一度手を止め、にっこりと微笑んだ。
「お食事、お口に合いましたようで何よりです。……あの、よろしければこの後、お布団を敷きに伺ってもよろしゅうございますか?」
「あ、はい! お願いします」
私はポンとお腹を叩きながら立ち上がった。
「ちょうど私と小夜ちゃん、まだお風呂に入ってなかったから、今のうちに大浴場に行ってきちゃおうか」
「そうですね、詩樹さん。ちょうどお腹も少し落ち着きましたし、今の時間なら空いているかもしれません」
小夜ちゃんも嬉しそうに浴衣の着替えを手に取る。
私たちは留守番をすることになった佐伯君に「それじゃ、行ってくるね!」と手を振り、ウキウキとした足取りで部屋を後にした。
残された佐伯君は、女将さんが手際よくテーブルを動かし、押し入れから真っ白な敷布団を取り出すのを手持ち無沙汰に眺めていた。
「……女将さん、僕も手伝います」
「おや、朔弥さん。滅相もない、これは私どもの仕事ですから、どうぞ座っていておくれやす」
女将さんはふふっと目を細め、慣れた手つきでシーツを広げる。
その背中を見つめながら、佐伯君はぽつりと呟いた。
「……驚きました。まさか父がここに泊まっているとは」
「ふふ、お父様も、あなたが『ここへ向かう』という連絡を住職さんから、もらったみたいで、居ても立ってもいられなくなったんやろねぇ」
女将さんはシーツのシワを丁寧に伸ばしながら、クスクスと肩を揺らす。
「それこそ、今か今かと首を長くして、待ち人が来るまでの間、ドキドキしながら待っていたんどすえ」
「……ドキドキしながら、ですか……?」
あの厳格な父親には似つかわしくない可愛らしい単語に、佐伯君は眉間のシワをさらに深くして、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
女将さんは布団の角をきれいに整えながら、どこか遠い目をした。
「あなたがまだほんの小さくて、お父様の後ろを一生懸命追いかけていた頃を思い出しますわ。あの厳格なお父様が、あなたにだけは、時折本当に愛おしそうな目を向けられていたんですよ」
「父が、僕に……?」
佐伯君は少し意外そうに眉をひそめた。
彼にとって父親は、常に高すぎる壁であり、冷徹な当主そのものだったからだ。
「ええ。あなたが家を出た時、お父様は本当に寂しそうにされていました。……でもね、今日こうしてあなたの姿を見て、お父様も安心されたと思いますえ」
「安心、ですか。……とてもそんな風には見えませんでしたが」
佐伯君が少し自嘲気味に呟くと、女将さんはクスクスと楽しそうに笑いながら口元を隠した。
「まあ、不器用な人さかい、ああいう態度に出てしまったんやと思います。あの厳しいお父様が、見ず知らずのお嬢さんに『調子を狂わせる天才か?』なんて、あんなにペースを乱されている姿、初めて見ましたわ」
「――!? 女将さん、あの場にいたんですか!?」
思わず声を裏返して驚く佐伯君に、女将さんは悪戯っぽく微笑むだけだった。
楽しげに目を細めたあと、女将さんは敷き終わったお布団を愛おしそうに撫でながら、温かいトーンで言葉を続けた。
「今の朔弥さん、昔に比べてずいぶんと『柔らかいお顔』になられましたもの。きっと、あのお嬢さん方のおかげやね」
女将さんの言葉に、佐伯君はドクンと胸が跳ねるのを感じた。
――その頃、大浴場。
広い湯船に肩までどっぷりと浸かりながら、私は盛大な声を漏らしていた。
「ふはぁぁぁ……! 極楽、極楽ぅ……!」
昼間の移動の疲れや、佐伯君のお父さんとの対峙でガチガチになっていた肩の筋肉が、じわじわと温かいお湯に解きほぐされていく。
「本当に気持ちいいですね、詩樹さん。お肌がすべすべになりそうです」
隣で髪をアップにまとめた小夜ちゃんが、お湯を手ですくいながらにこにこと笑っている。
「いや〜、食べた後のお風呂も最高だね。お腹いっぱいで温かいお湯に浸かるの、マジで幸せの極み……!」
「ふふ、詩樹さんは本当にお幸せそうに笑いますね。見ているこちらまで元気になります」
「そう? でも、佐伯君とお父さんが殴り合いの喧嘩にならなくて良かったよ。あの時はどうなることかと思ったけど……お父さんの前ではやっぱり普通の男の子なんだなぁ、なんて思っちゃったよ。」
湯気の向こうの天井を見上げながら、私は先ほどのハグ(のようなもの)を思い出し、ふっと笑った。
――再び、静かな『龍淵の間』。
「確か、雪森詩樹さん、でしたな。あのお嬢さん」
枕を並べ終えた女将さんが、立ち上がって佐伯君を振り返った。
「本能のままに生きている、なんて仰ってましたけど……あのお嬢さんは、朔弥さんが一番欲しかった『自由な風』を、その身に纏っていらっしゃる。だからこそ、あなたはあのお嬢さんの隣にいると、とても自然体でいられるのでしょうね」
女将さんの温かくも核心を突いた言葉に、佐伯君は言葉を失った。
自分の道を行くと決めて家を出たものの、常に心のどこかで「落ちこぼれた自分」という呪縛に囚われていた。
けれど、緊迫した空気を一瞬で吹き飛ばすような、彼女の圧倒的な「生のエネルギー」の前にいる時だけは、自分が何者であるかを忘れられたのだ。
「……そう、かもしれませんね」
佐伯君はふっと、普段の堅物な彼からは想像もつかないほど、優しく穏やかな笑みを浮かべた。
「あの人の調子の狂わせ方には、本当に敵いませんから」
「ふふ、よろしおすな。どうぞ、あのお嬢さんを大切にして差し上げてくださいね」
女将さんは満足そうに微笑むと、空になった御膳を抱えて、「では、ごゆっくり」と静かに部屋を出て行った。
一人残された部屋で、佐伯君は敷かれたばかりの布団を見つめながら、先ほど自分の腕の中にすっぽりと収まった詩樹の、小さくて、けれど驚くほど温かかった体温を、もう一度静かに思い返していた。
第三章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
佐伯君のお父さん…ガチ怖でしたが…
まさかまさかの佐伯君からのハグ……!
胸キュン(?)な展開のはずが、詩樹ちゃんの脳内コンピューターが弾き出した結論が「あは~ん、慰めて欲しかったのね!」という安定の斜め上っぷりで、お母さんモードに!?佐伯君、がんばれ……!
次回、第四章でまた会いましょう!




