何かに追われている
木々の枝がそよ風に揺れ、オレンジ色の太陽の光が枝葉の隙間から差し込んで、森全体を暖かく照らしていた。
すべてが静かで、穏やかだった。
俺と自然……そして、用を足す時間。
これ以上に素晴らしいことがあるだろうか!?
何も知らない、見知らぬ森のど真ん中で用を足すんだぞ!
あはははは! まるで、とんでもない冒険をしている気分だ!
正直、こんな経験をする日が来るなんて、夢にも思わなかった。
もし本当にこれが異世界転移ってやつなら、あとで感謝してやらないとな。まさか自分がこんな経験をすることになるなんて、想像もしていなかったからな!
俺は顔を上げ、木々の間から差し込むオレンジ色の光を眺めた。
「はぁ……なんて平和な生活なんだ……」
ほんの一瞬、この奇妙な場所にも慣れてきたような気がした。
車の騒音もない。耳障りな音もない。誰かに何かをしろと命令されることもない……。
なんて素晴らしい生活なんだ!
……
……いや、ちょっと待て。
まだ用事は終わっていない。
俺は視線を下げた。
すると、少し離れた地面に、小さなくぼみがあるのが目に入った。
低く、暗いそのくぼみは、中がどうなっているのかよく見えないほどだった。
うーん……ここならちょうどいいな。
俺は特に気に留めなかった。
そもそも、俺は観光地に来て写真を撮ろうとしているわけじゃないんだ!
……ところが、そのくぼみを見ているうちに、妙なことに気づいた。
……あれ?
今、動かなかったか!?
俺はその場で固まり、今見たものを理解しようとした。
いやいや……気のせいだろ。
たぶん、熱のせいか、それとも今までの出来事で疲れ切っているせいだ。
そうだ! それなら説明がつく!
どうやら俺は、まともに物事を考えられなくなっているらしい。
……しかし、くぼみは再び動いた。
今度は、その端の一部がゆっくりと持ち上がり、また沈んでいった。
まるで、中に何かがいて、呼吸をしているかのように。
俺の顔から表情が消えた。
……呼吸?
その直後、かすかな音が聞こえてきた。
「グルルル……」
俺はゆっくりと顔を上げた。
……何だ、今の音は?
暗闇の中をじっと見つめ、中に何がいるのか確かめようとした。
だが、何も見えない。
それでも、何かがそこにいて、動いていることだけは確かだった。
暗い塊が、少しずつ地面からせり上がっていく。
まるで、巨大な何かがそのくぼみの中から起き上がろうとしているようだった。
おい……ちょっと待て。
もう、自分の見間違いだなんて言い聞かせることはできなかった。
目の前には、確かに何かがいる。
動いている何か。
呼吸している何か。
そして……正体の分からない何かが!
その塊はさらにせり上がり、巨大な体の輪郭が少しずつ見えてきた。
俺は一歩後ずさった。
……は?
闇が実体を持ったとでもいうのか!?
いや、そんなわけないだろ! なんて馬鹿げた考えだ!
だが、目の前に立っているそれは、まるで生き物のように動いていた。
まるで、闇そのものが肉体を手に入れたかのように!
俺は目の前の光景に何か合理的な説明をつけようとした。
しかし、頭の中では考えが絡まり合い、もう何が何だか分からなくなっていた。
その体は巨大で、あちこちから枝分かれした根のような、鋭い骨の突起が突き出していた。
そして、腹部の下側には、底の見えない黒い空洞がぽっかりと口を開けていた。
その中に何があるのか、俺にはまったく見えなかった。
そして、次の瞬間……。
それは動きを止めた。
静寂が訪れる。
その直後、頭部の上のほうに、二つの赤い点が浮かび上がった。
……目だ。
暗闇の中で赤く輝く二つの目が、まっすぐ俺を見つめていた。
俺には、自分がいったい何を見ているのか分からなかった。
それに、そもそもこいつは、最初から俺の存在に気づいていたのだろうか?
だが、そんな疑問を考えるよりも先に、冷たいものが全身を駆け抜けた。
まるで、頭から冷水をぶっかけられたかのように。
……
あははは……きっと夢だよな?
そうだろ?
……。
答えは返ってこなかった。
そして、沈黙が長くなるにつれて、俺は自分がとんでもない間違いを犯したのだと確信し始めていた。
そう……。
こんなの、どう考えても普通じゃない。
俺のすぐ目の前には、巨大な何かが立っていた。
そいつの体は呼吸するたびに揺れ、その息が吐き出されるたび、熱気が俺の顔にまで届いた。
そして、その臭いは……。
うおおおお! 何だ、この悪臭は!?
息ができなくなりそうだ!
はぁ……はぁ……。
よし、少し落ち着いて状況を整理しよう。
俺はまだ腹が痛いし、用だって終わっていない。
それなのに、今度は目の前にこんな得体の知れないものが現れた!
これ以上、状況が悪くなることなんてあるのか!?
俺の視線が、そいつの腹部へと移った。
あの暗い空洞……。
……
……待てよ。
あのくぼみ……最初から、こいつの胃袋だったんじゃないか!?
俺は目を見開いた。
おい、おい、おい!
まさか、俺がさっきまでしていたのは……!?
最後まで考えることができなかった。
いや!
考えたくない!
だが、どうやら俺は、本当にとんでもないことをやらかしてしまったらしい。
くそっ……!
俺はこいつの胃袋をトイレ代わりにしてしまったのか!
そりゃあ怒るはずだ!
……いや、ちょっと待て。
本当に、それが理由で怒っているのか?
……
……まあ、ほかに理由が思いつかない!
俺はこいつの胃袋を汚した!
だから、この怪物は俺に復讐しようとしているんだ!
なんて馬鹿げた死に方なんだ!
だが、自分の死に方がどれほど馬鹿げているかを考えている時間はなかった。
怪物が片足を持ち上げ、俺に向かって一歩踏み出したのだ。
ドンッ!
その足音とともに、地面が揺れた。
俺はもう一歩後ずさったが、怪物は構わず前進してきた。
ドンッ!
重い足音が響くたびに、俺の体まで震えた。
まるで、大地そのものが迫り来る危険を知らせているかのようだった。
まずい……。
もっと後ろに下がろうとしたが、思うように体が動かなかった。
頭の中では、状況を分析し、逃げ道を探そうと必死に考えている。
それなのに、体はまるで俺の命令を聞いてくれなかった。
逃げろ。
おい、逃げるんだ!
動けよ!
だが、俺の足は震えるばかりだった。
額から汗が流れ落ち、体の熱と、手足を襲う冷たい感覚が入り混じる。
熱に腹痛、そして今度は怪物か……。
こんな状態になったって、不思議じゃないよな?
そもそも、最初から俺の人生は順調じゃなかった。
だが、どうやらこの世界は、俺に一生忘れられない経験をさせるつもりらしい!
おい、世界!
せめて、体調が回復するまで待ってくれてもよかったんじゃないのか!?
これが、いわゆるスペシャルイベント(Special Event)ってやつなのかもしれない。
だが、俺としては、快適なベッドと温かい食事が用意されているスペシャルイベントのほうがよかったんだが!
どうもありがとう!
怪物はなおも俺に近づいてきた。
一歩一歩はゆっくりだった。
だが、その足音はあまりにも重く、踏み出すたびに死が近づいてくるように感じられた。
いや……いや、いや……。
何をすべきか理解するために、特別なスキルなんて必要なかった。
逃げる。
それしかない。
……だが、どうやって?
足が言うことを聞かないのに、どうやって逃げろっていうんだ!?
動け! 動け! 動け!
俺は心の中で叫び、必死に体を走らせようとした。
それでも、俺はその場に立ち尽くしたまま、近づいてくる怪物を見つめることしかできなかった。
そして、怪物が口を開いた。
何をするつもりなのか考える暇すらなかった。
「グラアアアアアアアアッ!!!」
轟音のような咆哮が森に響き渡った。
周囲の木々が揺れ、枝の間から鳥の群れが一斉に飛び立っていく。
まるで、その声が耳を突き抜け、体の奥底にまで響き渡ったかのようだった。
あああああっ!
俺の足は激しく震え、その場に倒れそうになった。
な、何だ、この恐ろしい声は!?
もう、目の前にいるのは奇妙な動物なんかじゃない。
ほんの少し力を振るうだけで、俺を簡単に殺せるような存在だった。
よし……冷静に考えよう。
仮に、森の中を歩いていたら、突然、森の王に出くわしたとしよう。
お前なら、どうする?
……
正直、分からない。
だって、そんな経験をしたことがないんだから!
ただ一つ分かっているのは、目の前の巨大な何かが俺に近づいてきているのに、俺は足を動かすことすらできないということだ。
どうして動けないんだ!?
しっかりしろ、ハリール!
何かしろ! 何でもいいから!
俺の胸は激しく上下し、まともに息を吸うことすら難しくなっていた。
頼む……動いてくれ!
怪物が再び咆哮した。
俺は、もうそいつをまともに見ることさえできなかった。
そのとき、体の奥で何かが動いた。
……ん?
どう表現すればいいのか分からない。
恐怖で体がすくんでいることに変わりはなかった。
それなのに、正体の分からない本能が、考えるよりも先に俺を動かしたのだ。
俺は普通の人間のように、二本の足で走り出したわけではなかった。
なんと、両手と両足を使って前方へと飛び出したのだ!
あああああっ!
逃げてる! 俺、本当に逃げてるぞ!
なぜ自分の体がこんな方法を選んだのかは分からない。
だが、今の俺には文句を言っている余裕なんてなかった!
俺は草や枝の間を、転びそうになりながらも必死に駆け抜けた。
まるで、獲物を追いかける野良猫のように!
……ただし、一つ問題がある。
俺が獲物のほうなんだよ!
おい、おい! どうしてこんなに早く立場が逆転したんだ!?
俺は木々の間を駆け抜け続けた。
その背後から、怪物の咆哮が響いてくる。
「グラアアアッ!!!」
その直後、何かが激しく砕ける音がした。
バキバキバキッ!
俺は視界の端で後ろを確認した。
すると、怪物が一本の木に激突し、その巨大な体によって幹がへし折られるのが見えた。
……は?
本当に木にぶつかったのか!?
一瞬、希望が湧いてきた。
もしかして、思ったよりも動きが遅いのかもしれない!
……だが、その希望は長く続かなかった。
怪物は、折れた幹を突き破るようにして進み、今度は別の木に激突した。
バキバキッ!
幹の一部が砕け、枝が地面に落ちていく。
それでも、怪物は止まらなかった。
……何だと!?
おい、おい、おい!
こいつの体は鋼鉄でできているのか!?
普通の人間なら、木に一度か二度ぶつかっただけでも倒れるだろ!
なのに、こいつは何事もなかったかのように俺を追いかけてくる!
……よし、落ち着け、ハリール。
今、俺は自分を殺そうとしている巨大な怪物に追いかけられている。
しかも、そもそもどうしてこんな場所にいるのかさえ分からない!
……パニックになる理由なんて、一つもないよな!?
あるに決まってるだろおおおお!
あああああっ! いいから逃げろおおおお!
俺は木々の間を駆け抜け続けた。
もう、怪物から少しでも遠ざかることしか考えられなかった。
作戦なんてない。
どこへ向かえばいいのかも分からない。
ただ、少しでも距離を稼いで、息をつく時間が欲しかった。
……だが、突然。
周囲の空気が変わった。
背後から、奇妙な熱気が押し寄せてきたのだ。
まるで、燃え盛る炉のそばに近づいたかのように。
……は?
俺は視界の端で後ろを見た。
すると、怪物の口元に、深紅の光が集まり始めていた。
その直後、奇妙な音が聞こえてきた。
「シュウウウウ……」
……何だ、この音?
何が起きているのか理解する間もなく、怪物の口から巨大な火球が放たれた!
ドゴオオオオオン!!!
……だが、その火球は俺に向かって飛んできたわけではなかった。
道の脇にあった巨大な木に直撃したのだ。
次の瞬間、木は炎に包まれ、爆発の衝撃で幹の一部が砕け散った。
熱風が森の中を駆け抜け、濃い煙が立ち上る。
燃え盛る木片が、空中に飛び散っていった。
俺は炎に包まれた木を見つめた。
……
……は?
何が起きたのか、理解できなかった。
今、あの怪物……火球を吐き出したのか!?
俺は怪物の口元を見てから、炎の塊と化した木へと視線を戻した。
火を吐く怪物だって!?
そんなもの、空想の物語の中にしか存在しないはずだろ!?
たとえ、まだ科学者たちに発見されていない動物がいたとしても、口から火球を放つ怪物を見たなんて話したところで、誰も信じてくれないだろう!
俺のいた世界では、火を吐く動物なんて、とっくに絶滅しているはずだ!
……
……いや、ちょっと待て、ハリール。
そもそも、そんな動物は最初から存在していたのか!?
いや、今はそんなことを考えている場合じゃないだろ!
俺は今、丸焼きにされかけているんだぞ!
俺は走り続けた。
怪物は、なおも俺との距離を詰めてくる。
考えている暇なんてない。
合理的な説明を探している余裕もない。
今は、とにかく逃げるしかなかった!
……だが、再び空気が変わった。
「シュウウウウ……」
俺は後ろを振り返った。
そして、その瞬間、心臓が止まりそうになった。
怪物の口元に、奇妙な円形の模様が浮かび上がっていたのだ。
赤く輝く線が円を描き、その中心で火球が形作られ始めていた。
俺は目を見開いた。
……は?
これって、まさか魔法陣なのか!?
火球はどんどん大きくなり、その輝きは周囲の木々を照らすほど強くなっていった。
そして……。
「シュウウウウウッ!」
火球が、とてつもない速度で俺に向かって放たれた。
俺の顔から血の気が引いた。
いや……いや、いや、いや!
俺は全力で横へ飛び退いた。
足がもつれそうになりながらも、必死に進行方向を変える。
本当に避けられたのか、それとも、ほんの一秒遅れて死を迎えたのかさえ分からなかった。
ただ、猛烈な熱がすぐ脇を通り過ぎていくのを感じた。
その直後、凄まじい爆発音が響き渡った。
ドゴオオオオオオン!!!
地面が激しく揺れた。
熱風が俺に襲いかかり、体が地面から浮き上がるほどの勢いで吹き飛ばされた。
ああああああっ!!!
くそおおおおおっ!
せめて、俺を焼こうとする前に話し合うくらいの時間をくれたっていいだろ!
……だが、文句を言い終えることはできなかった。
俺は地面に叩きつけられ、そのまま土や石の上を転がった。
ドサッ!
肩が地面に激突する。
ドンッ!
背中が木の幹にぶつかった。
痛っ! 痛いっ!
全身に激痛が走った。
何度も衝突したせいで、体中の骨が砕けてしまいそうだった。
ようやく転がるのが止まった。
だが、俺はしばらくその場に倒れたまま、息を整えることすらできなかった。
頭がぐるぐると回っている。
体中が痛い。
それに、熱のせいで、周囲の景色が遠く、ぼやけて見えた。
……だが、いつまでもここにいるわけにはいかなかった。
枝が折れる音が、こちらへ近づいてきていたからだ。
怪物は、止まっていなかった。
……いや、嘘だろ……。
俺は起き上がろうとした。
しかし、腕に力が入らず、体を支えることができなかった。
くっ……立て……立つんだ、ハリール!
俺は両手を地面につき、必死に体を持ち上げた。
だが、足を滑らせて膝から倒れてしまった。
それでも、もう一度挑戦した。
何度か失敗した末に、ようやく立ち上がることができた。
一瞬、笑いたい気分になった。
……こんな状況で、笑うべきなのか!?
だが、笑うことはできなかった。
怪物の咆哮が、再び響き渡ったからだ。
「グラアアアアッ!!!」
怪物は追跡を続けていた。
進路にある枝も木も、次々とへし折りながら。
くそっ! 逃げろ! 逃げるんだ!
俺は今度こそ、二本の足で走り出した。
木々の間を、出せる限りの速度で駆け抜けていく。
足が痛い。
呼吸も乱れている。
それに、前方へ目を向けるたび、視界が少しずつ揺らいでいった。
もう、最初のようには走れなかった。
それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。
木々の向こうに見えていたオレンジ色の光が、少しずつ薄れていく。
地面には、長い影が伸び始めていた。
……もう、何も分からない。
どうして俺は、こんな場所にいるんだ?
あの怪物は、いったい何なんだ?
どうして口から火を放てるんだ!?
……だが、そんな疑問が頭の中を駆け巡る中、一つの結論が浮かび上がった。
できれば、信じたくなかった結論が。
……いや、まさか。
本当に、俺は異世界に来てしまったのか?
どうして、そんな結論に至ったのかって?
あはははは!
正直、そこまで難しい話じゃない!
見てのとおり、俺は今、巨大な怪物に追いかけられている。
しかも、そいつは俺の知っている動物のどの種類にも当てはまりそうにない。
確かに、俺は動物学の専門家じゃない。
だが、こんな生き物が俺の世界に存在するとは、とても思えなかった!
そして、何よりも……。
こいつは口から火球を放った!
そう! ここが一番重要な点だ!
ただ森の中で火事が起きたわけじゃない。
怪物の口元に魔法陣が現れ、その中心で火球が形成されたあと、実際に口から放たれたのだ。
どうすればそんなことが可能なのか、俺には分からない。
合理的な説明も思いつかなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
少なくとも、俺が知っている世界では、こんなものを見ることはできない……。
ということは、俺は本当に別の世界へ来てしまったのか?
それとも、まだ俺が思いついていない説明があるのだろうか?
……答えを出す時間はなかった。
周囲の空気が、再び変化したからだ。
「シュウウウウ……」
おい、おい……まさか、また火球を放つつもりじゃないだろうな!?
俺は後ろを振り返った。
すると、怪物の口元に魔法陣が形成され、その中心で火球が膨らんでいくのが見えた。
……これって、普通のことなのか!?
そんなわけあるか!
これ以上考える必要なんてなかった。
「シュウウウウウッ!」
火球が俺に向かって放たれた。
俺は目を見開き、必死に進行方向を変えようとした。
……だが、体が言うことを聞かなくなり始めていた。
足が重い。
息が途切れ途切れになっている。
視界も、ますますぼやけていく。
もう、これ以上走り続けるだけの力が残っていなかった。
それでも、俺は走り続けた。
ほかに選択肢なんてなかったからだ。
火球が、すぐそこまで迫っていた。
……今度こそ、死ぬのか?
答えは出なかった。
そして……。
ドゴオオオオオン!!!
背後で何かが爆発した。
凄まじい熱風が森を駆け抜け、周囲の草むらに火が燃え広がっていく。
濃い煙が立ち上り、薄暗くなり始めた空へと広がっていった。
……だが、俺は。
またしても、生き延びた!
少なくとも、そのときの俺はそう思っていた。
……ところが、次の瞬間。
前方へ伸ばした足が、地面を探った。
だが、足を支えるはずの地面がなかった。
……は?
息が止まった。
俺は下を見た。
そこには、地面がなかった。
あるのは、はるか下へと続く虚空と、その周囲を囲む険しい岩肌だけだった。
……崖だ。
俺は、深い谷の縁まで来てしまっていた!
いや……まさか、そんな……。
慌てて止まろうとした。
だが、すでに体は前方へと突っ込んでいた。
もう、足を動かして方向を変えることはできなかった。
俺は反射的に手を伸ばした。
何かにつかまろうとしたのだ。
枝でも!
根っこでも!
何でもいい!
……だが、指先が触れたのは、何もない空気だけだった。
ああああああっ!!!
俺は落ちた。
足元の地面が消え、体が急速に落下していく。
谷の縁が、どんどん遠ざかっていった。
……また、死ぬのか?
俺は死にたくなかった。
こんなところで。
ようやく、自分が異世界にいるのかもしれないと思い始めたばかりなのに。
自分に何が起きているのかさえ分からないまま、終わるなんて……。
だが、もう体は言うことを聞かなかった。
熱は高いまま。
手足は重く、頭もまともに働かなくなっていた。
冷たい風が顔に吹きつける。
木々、岩、そして遠ざかっていく空が、目の前で入り乱れていた。
くそっ……。
本当に、これで終わりなのか……?
答えることはできなかった。
そのとき、遠くに何かが見えた。
谷の向こう側。
岩場の高い場所に、一つの影がじっと立っていた。
その体も、姿も、はっきりとは見えなかった。
俺を追いかけてきた怪物なのか。
それとも、まったく別の存在なのか。
俺は目を凝らし、そいつを見極めようとした。
……何だ、あれは……?
一瞬、その影が動いたような気がした。
だが、確信は持てなかった。
距離が遠すぎる。
それに、俺の視界は一秒ごとにぼやけていった。
……俺を見ているのか?
分からなかった。
そして、それを確かめる時間もなかった。
俺の体は谷の闇へと飲み込まれ、周囲の光が少しずつ消えていった。
くそっ……もう、何も……。
高熱と、全身を襲う痛みだけが残っていた。
そして、目の前の景色がゆっくりと消えていく。
俺は意識を失った。




