この現実を受け入れられるのか?
辺り一面、闇に包まれていた。
何も見えない。自分の体がどこまでで、その周りに広がる虚無がどこから始まっているのかさえ分からなかった。
ただ、どこかも分からない場所へ、ゆっくりと落ちていくような感覚だけがあった。
ひどい寒気が体に染み込んでくる。
まるで、太古の昔から誰一人足を踏み入れたことのない場所に、たった一人で取り残されたかのようだった。
これが……死なのか?
確かに、俺の人生は短かった。
だが、俺はこれまでの人生に満足しているのだろうか?
答えは見つからなかった。
考える時間が足りなかったからなのかもしれない。
それとも、こんな問いと向き合う覚悟が、まだできていなかったのだろうか。
そのとき、不意に背後に光が現れた。
闇の中に浮かぶ、小さな点にすぎなかった。
だが、そこへ近づくにつれて、光は少しずつはっきりと見えるようになっていった。
不思議なことに、近づけば近づくほど、胸の奥に温もりが広がっていく。
まるで、もう一人ぼっちではなくなったかのように。
そして、誰かが俺を抱きしめた。
二本の腕が俺の体に回され、強く抱きしめられる。
まるで、今にも俺がどこかへ消えてしまうことを恐れているかのようだった。
……君は誰だ?
そう尋ねようとした。
だが、唇は動かず、喉から声も出なかった。
俺は本当に死んだのか?
もし死んだのなら、どうしてこんなにも温かさを感じるんだ?
耳元で、かすかな少女の声が聞こえた。
「ごめんなさい……でも……」
穏やかで、優しい声だった。
深い悲しみを帯びていて、まるで長い間、胸の奥に閉じ込めていた言葉を、ようやく口にしようとしているかのようだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、彼女は再び口を開いた。
「あなたのいない人生を想像するのは……私には難しいの」
彼女の言葉の意味が分からなかった。
どうして謝るんだ?
そもそも、君は誰なんだ?
「思い出すまでに、こんなにも時間がかかってしまって……ごめんなさい」
彼女の声は、次第に小さくなっていった。
顔を見ようと彼女のほうを向こうとしたが、指一本すら動かせなかった。
ただ、誰かに抱きしめられている感覚だけが残っていた。
まるで彼女が、俺を消えさせまいとしているかのように。
この少女は誰なんだ?
どうして俺は、この感覚を以前にも味わったことがあるように感じるんだ?
答えを見つける前に、すべてが消え始めた。
温もりも、声も、抱きしめてくれていた腕も……。
そして、自分という存在さえも、闇の中へ溶けていくようだった。
---
「……」
最初に耳へ届いたのは、鳥のさえずりだった。
続いて、心地よいそよ風が頬を撫でた。
目を開けようとしたが、強い光に耐えきれず、再び閉じてしまった。
「ああ……目が……」
少し待ってから、もう一度目を開けた。
視界はぼやけていて、目の前を動く細長い影しか見えなかった。
木……?
頭を動かそうとすると、軽い頭痛が襲ってきた。
「夢でも見ていたのか……?」
言葉が喉につかえた。
自分がどこにいるのかも、どうやってここまで来たのかも分からなかった。
数秒間、目を閉じてから、もう一度開いた。
すると、少しずつ周囲の様子が見えてきた。
絡み合う枝。
風に揺れる葉。
そして、頭上にそびえ立つ巨大な木々の幹。
……森?
そうだ。俺は森の中で横になっていた。
「……は?」
体を起こそうとしたが、筋肉がひどく重く感じられた。
少しよろめいたものの、背後にあった木の幹に寄りかかり、呼吸を整えた。
よし、まずは最初から整理しよう。
ここはどこだ?
どうして俺は、こんな場所にいるんだ?
見覚えのあるものがないか周囲を見回したが、目に入るのは木々や草、そして木々の葉の隙間から差し込む陽光ばかりだった。
「東京に、こんな森があったか?」
俺は日本人ではなかったが、旅行者として、行きたい場所について事前にいろいろ調べていた。
その中に、こんな場所があった記憶はない。
道に迷ったのだろうか?
仮にそうだったとしても、どうして見知らぬ森の中で眠っていたんだ?
何があったのか思い出そうとしたが、頭の中はごちゃごちゃで、何一つ答えは出なかった。
結局、移動することにした。
当てはなかったが、誰かに会えれば、自分がどこにいるのか教えてもらえるかもしれない。
木々の間を歩いていると、ふと思いついた。
「もしかして、夢なのか?」
眉をひそめ、自分の手を見つめた。
「いや、待てよ。夢なら、どうして体に痛みを感じるんだ? それに、夢じゃないとしたら、どうやってここに来たんだ?」
答えてくれる人はいなかった。
「素晴らしいな……どうやら、今回の旅は俺の頭で処理できる範囲を超えているらしい」
近場の国へ旅行するだけにしておけばよかったのかもしれない。
少なくとも、こんな状況に陥ることはなかっただろう。
とはいえ、自分を責めてもホテルに戻れるわけではない。
中年の危機について考えるのは後回しにして、まずは森から抜け出す方法を探すことにした。
そのとき、水の流れる音が聞こえてきた。
俺は足を止めた。
そこで初めて、自分の喉がどれほど乾いているのかに気づいた。
あまりの渇きに、一か月くらい一滴も水を飲んでいなかったような気分だった。
……まあ、少し大げさかもしれない。
音を頼りに進んでいくと、木々の間が開け、小さな川が姿を現した。
澄んだ水が、緑の草に覆われた両岸の間を流れている。
「水だ!」
俺は急いで川へ駆け寄り、岸辺に膝をついた。
そして、文明人である俺は……。
そのまま川に顔を突っ込み、水を飲み始めた。
飲んで。
飲んで。
ひたすら飲んで……。
ようやく、生き返ったような気分になった。
顔を上げて息をつくと、水が顔を伝って流れ落ちた。
「あああ……生き返る!」
手で口元を拭い、それから川を見つめた。
「日本の川の水って、こんなにおいしいものなのか?」
……待て。
俺はいつから川の水の味に詳しくなったんだ?
首を振った。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
空を見上げると、太陽が明るく輝いていた。
木々の間を吹き抜ける風は冷たかったが、それでも日差しは暖かい。
秋……だろうか。
まあ、悪くない天気だ。
だが、喉の渇きが落ち着くと、再びこの状況のおかしさが気になり始めた。
木々、草、鳥、川……。
何もかもが自然そのものだった。
そして、それこそが、かえって奇妙だった。
……ここはどこなんだ?
携帯電話を探して、ポケットに手を入れた。
空っぽ。
反対側のポケットも探る。
何もない。
「……は?」
もう一度、ポケットを探した。
だが、携帯電話は見つからなかった。
自分の服にも目を向けた。
今朝、ホテルを出たときに着ていた服とは違っていた。
それなら、どうして俺はここにいる?
携帯電話はどこへ行ったんだ?
「ここで何かおかしなことが起きているのは間違いないな……」
そんなことを考えていると、川の中を小さな魚が泳いでいるのが目に入った。
しばらく眺めてみた。
この場所は人里から遠く離れているのだろう。だからこそ、今も自然が保たれているのかもしれない。
あるいは、俺が日本の自然について何も知らないだけなのかもしれない。
まあ、今はどうでもいい。
顔を上げ、背後を振り返った。
誰もいない。
再び川へ視線を戻した瞬間、俺は凍りついた。
……水の中に、人がいる。
さっきまで背後には誰もいなかったはずなのに、水面には誰かの顔が映っていた!
慌てて振り返る。
誰もいない。
もう一度、川を見る。
顔はまだそこにあった。
「……誰だ、お前?」
当然、返事はなかった。
まさか、誰かが俺の背後に隠れていて、水面の反射を通してしか見えないとでもいうのか?
馬鹿げた考えだ。
だが、ほかに説明が思いつかなかった。
俺が両手を顔の前に持っていくと、水の中の人物も両手を持ち上げた。
鼻に触れる。
向こうも同じように鼻に触れた。
髪に指を通す。
またしても、同じ動きをした。
「……ああ」
俺は数秒間、水面を見つめたあと、引きつった笑い声を漏らした。
「あはははは! なんだよ、びっくりした!」
胸に手を当てる。
「幽霊が背後にいるのかと思ったじゃないか!」
そうだ。もちろん、これは俺の姿だ。
なんて馬鹿なんだ、俺は。
二十三年間もこの体で生きてきたんだ。自分の顔くらい分かっていて当然だろう?
知り合いにこんな姿を見られたら、正気を失ったと思われるに違いない。
俺は草の上に座り込み、空を見上げた。
「よし……これが俺か」
だが、そう口にした瞬間、何かがおかしいと感じた。
俺は慌てて姿勢を正し、再び水面を覗き込んだ。
今度は笑わなかった。
自分の顔をじっと見つめる。
髪……。
頭に手を伸ばした。
これは、俺の髪じゃない。
前の人生での俺の髪は茶色だった。
俺は自分の頭から髪の毛をひと束引き抜いた。
手にしたその毛束を、太陽の光にかざして確かめる。
黒。
茶色じゃない。
「……嘘だろ」
水面に、さらに顔を近づけた。
目の色は元の自分に近かった。
だが、それ以外の顔立ちは、俺の知っているものとは違っていた。
鼻の形が少し違う。
顔の輪郭も記憶とは一致しない。
肌の色まで違っているように見えた。
俺は自分の顔に触れ、頬や鼻、顎の輪郭を指でなぞりながら、水面に映る今の自分の顔と、記憶の中にある本来の自分の顔を比べようとした。
しかし、何一つ一致しなかった。
指先で触れている顔と、水面から俺を見つめている顔は同じものだった。
それなのに、俺の知っている自分の顔ではなかった。
しかも、この顔は俺よりずっと若く見える。
日差しが肌を暖めているにもかかわらず、背筋に冷たいものが走った。
俺は顔を上げ、周囲を見回した。
まるで、どこかの木の陰に、この状況を説明してくれる何かが隠れているのではないかと思ったのだ。
誰もいない。
再び水面へ視線を戻す。
「これ……俺の顔じゃない」
かすれた声が口から漏れた。
疲労や光のせいで、見間違えているだけなのだと自分に言い聞かせようとした。
だが、自分の顔くらい分かる。
二十三年間、鏡を見るたびに目にしてきた顔だ。
鼻の形も、顎の輪郭も、髪の色も、他人なら気づかないような細かな特徴まで覚えている。
こんなものを見間違えるはずがない。
それなのに、どうして顔が変わっているんだ?
いつ変わった?
答えは見つからなかった。
もう一度、水面を覗き込み、顔に触れた。
同じ動作を繰り返せば、いつか元の顔に戻るのではないかとでもいうように。
だが、水面の顔は変わらず、こちらを見つめていた。
見知らぬ顔。
それなのに、理解できない何かによって、俺自身の顔になってしまったもの。
この状況で、俺にできることは一つしかなかった。
「うわああああああああああああっ!」
俺は思い切り叫んだ。
そう、本当に叫んだのだ。
長い一日を終え、化粧を落としたあと、鏡に映る自分の顔を初めて見たかのように、驚き叫ぶ女の子たちのように!
……いや、こんなときにする例えじゃなかったかもしれない。
俺は、理性的な人間らしく考えようとした……。
まあ、嘘だ。
ほんの少し前まで、精神病院にいる狂人のように振る舞っていたのだから。
しかも、精神病院で目を覚ますたびに、家にいないことに気づいてパニックになるような人間だ。
馬鹿げた例えだろう?
だが、今の俺の状態を表すには、ぴったりだった。
あちこち飛び跳ね、行ったり来たりし、周囲の木に登ったり、意味不明な声を上げたり……。
どうしてそんなことをしたのかって?
あはははは! もちろん、完全にパニックになっていたからだ!
そんな情けない行動を三十分ほど続けたあと、俺はようやく、真剣にこの問題と向き合うべきだと判断した。
川へ戻り、自分の顔……のはずのものと向き合った。
それで……これはどういうことなんだ?
前の人生では、自分の体に関することさえ、ずっと夢を見ていたとでもいうのか?
いや、二十三年間もの人生が、ただの夢だったとは思えない。
誘拐されたのか?
馬鹿げた仮説だ。
仮に誘拐されたとしても、それと顔が変わったことに何の関係がある?
じゃあ、一体全体、俺の身に何が起きているんだ?
俺は草の上に横になり、目を閉じた。
考えろ、ハリール。
何か説明がつくはずだ。
お前は頭がいい。問題が起きたときだって、冷静に対処できる人間だろう……。
そうだろ?
冷たい風が吹き抜けた。
……どうやら、今の発言を聞いた自然にまで笑われているらしい。
目を開け、広々とした空を見上げた。
散らばる雲。
そして、周囲にそびえ立つ木々。
この状況を理解するために、まずは最も重要な質問から始めるべきだ……。
俺は、どうやってここに来た?
ここにたどり着く前に何をしていたのか思い出せれば、何か分かるかもしれない。
俺は再び目を閉じ、眉間にしわを寄せた。
思い出せ……俺!
頭の中はまだぼんやりしていたが、少しずつ、いくつかの光景が浮かび上がってきた。
かろうじて、その断片をつかむことができた。
それでも、ここへ来る前に何が起きたのかを思い出すには十分だった。
俺は日本にいた。
それだけは、はっきりと覚えている。
そして、そのあと、次々と事件が起きた。
ほら、あれだ。
異世界転生系のアニメでよくある、あの手の展開。
主人公が晴れた朝に外へ出たと思ったら、突然刺されたり、トラックに轢かれたり、電車に轢かれたり……。
まあ、そんな感じだ。
そのとき、水面から魚が跳ね、再び水の中へ戻っていく音がした。
電車……。
トラック……。
そして、主人公を刺そうとする頭のおかしな奴……。
俺の思考が一瞬止まった。
妙だ。
まるで、こうした場面を以前にも見たことがあるような気がする。
だが、それはアニメの中ではなかった……。
現実で起きたことだった。
俺は目を見開いた。
そうだ……思い出してきた!
実際に、いろいろなことが起きていた。
携帯電話を落とし、それを修理に出したことを覚えている。
だから、今は誰にも連絡できないのかもしれない……そもそも、携帯電話自体が手元にないのだから。
そのあと、俺をナイフで刺そうとしながら走ってくる男が現れた!
俺はそいつから逃げた。
逃げている途中、頭上から落ちてきた建築用の鉄骨に、あやうく押し潰されそうになった。
さらに、車が滑って俺に向かってきた。
そうだ……だんだん思い出してきたぞ!
あのとき、俺はごく普通の人間がすることをしていた……。
もちろん、逃げていたんだ!
そして、気づけば俺は線路の上に立っていた。
しかも、足が挟まって動けなくなっていたのだ。
そうだ、間違いない!
そこへ、運転手が制御を失ったトラックが突っ込んできた。
その一方で、あの頭のおかしな男も再び俺に迫っていた……。
しかも、電車までこちらに向かって走ってきていた。
そして、最後に覚えているのは……。
空から飛行機が落ちてきて、俺の頭上に迫っていた光景だ!
……
なるほど。
あれが、俺の最後の記憶か。
頭の中で断片的な光景を整理し、何が起きたのか考え始めた。
しばらく沈黙が続いた。
そして突然、俺は立ち上がり、拳をもう片方の手のひらに打ちつけた。
顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「そうか! もう可能性は一つしかない!」
自信満々に顔を上げる。
「俺は死んだんだ! 間違いない!」
あははははは!
なんてことだ、ハリール!
自分でも驚くほどの名推理じゃないか!
時々、自分には並外れた思考力と推理力があるんじゃないかと思う。
こんなにも簡単に正解へたどり着けるんだからな!
あはははは!
そういうことか……。
俺は死んだんだ。
再び草の上に横になり、空を見つめた。
少しずつ、笑みが消えていった。
俺は……死んだのか。
つまり、もう前の人生には戻れないということだ。
家族に再び会うこともできない。
友人たちと再会することもできない。
自分が暮らしていた場所へ帰ることも……。
……
……
「うおおお……」
数分後、俺は木の陰で激しく吐いていた。
腹の中身が全部出てしまいそうだった。
額から汗が流れ落ち、吐き気が襲うたびに胸が激しく上下する。
そして、また吐いた。
見苦しい光景だということは分かっている。
一体、誰が人の嘔吐する姿など見たいと思うだろうか?
だが、これこそが、ここで目を覚ましてから初めて見せた、俺の本当の反応だった。
自分が死んだのだという結論にたどり着いたあとも、俺はそれを、ただの論理的な推論であるかのように扱おうとしていた。
自分をからかい、笑い、すべてを理解したふりをしていたのだ。
だが、俺の体は、そんな嘘につき合ってはくれなかった。
ようやく吐き気が治まると、俺は川へ近づき、口を何度もすすいでから顔を洗った。
それでも、めまいは残っていたし、腹の奥を締めつけるような痛みも消えなかった。
俺は……本当に死んだのか?
もう一度、水面に映る自分の姿を見つめた。
もし死んだのなら、ここはどこなんだ?
それに、どうして俺はこんな姿になっている?
見知らぬ顔が、流れる川の水面に映っていた。
冷たい風が、俺の周囲を吹き抜けていく。
俺は長い間、その顔を見つめ続けた。
一体、自分に何が起きたのかを理解しようとして。
だが、答えは見つからなかった。




