新たなる始まり
辺り一面を、漆黒の闇が覆っていた。
凍てつくような寒さ。そして、どこまでも広がる白。
まるで、世界全体が分厚い雪に覆われてしまったかのようだった。
空では、稲妻が走るたびに雲が一瞬だけ光を放っていた。
俺は、森のような場所を進んでいた。
理由は分からない。
だが、体中の細胞が、俺に警告を発していた。
逃げろ!
バリバリバリッ!
稲妻が空を引き裂いた。
直後、凄まじい轟音が響き渡り、激しい雨が地面へと降り注いだ。
俺は走った。
全力で走った。
まるで、本当に命が懸かっているかのように。
状況は刻一刻と悪化していた。
凍てつく寒さに、激しく降り積もる雪。
そして今度は、走ることさえ困難にする雨まで加わった。
バリバリバリッ!
背の高い木々が、俺の周囲に立ち並んでいた。
その枝は雪に覆われ、すっかり真っ白になっている。
吐く息は小さな白い雲となって目の前に浮かび、冷たい空気の中へと消えていった。
どこへ向かえばいいのか、分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
走り続けなければならない。
そして、突然……。
バリバリバリッ!
稲妻が一瞬、森を照らした。
その次の瞬間、俺は足を取られ、地面に激しく転倒した。
「うわあっ……!」
本当に痛かった。
だが、不思議なことに、その痛みはほんの数秒で消えてしまった。
それでも、胸を締めつけるような嫌な感覚だけは消えなかった。
むしろ、ますます強くなっていく。
再び稲妻が空を照らし、周囲の森の一部が浮かび上がった。
そのとき、俺は聞いた。
静かな足音。
コツ……コツ……コツ……。
何かが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
足元の枝を踏み折りながら。
俺は、その場に凍りついた。
そして、恐る恐る背後を振り返った。
聞こえてくる足音が一つ近づくたびに、心臓の鼓動が速くなっていく。
森の闇の中から、何かが少しずつ姿を現した。
その体をはっきりと見分けることはできなかった。
ただ、暗闇の中で何かが光っているのが見えた。
二つの赤い点。
……目か?
それは、どんどん近づいてくる。
俺を追いかけている……!
「おい……動け! 動けよ、俺!」
俺は拳を強く握りしめ、地面から立ち上がると、再び走り出した。
考えている暇などなかった。
あれが何なのか、確かめようとすら思わなかった。
本能が叫んでいたのだ。
逃げろ。
立ち止まれば、終わりだ。
俺は走り続けた。
やがて、目の前で木々の間隔が広がり始めた。
そして、ついに……。
森の出口にたどり着いた。
だが、そこにあったのは、逃げ道などではなかった。
目の前に広がっていたのは、そびえ立つ断崖だった。
俺は崖の縁で立ち止まり、下を覗き込んだ。
何も見えなかった。
崖の下は一面、底なしの闇に沈んでいた。
まるで、その先には終わりなど存在しないかのように。
俺は一歩後ずさり、それからゆっくりと振り返った。
あれが、森の出口までたどり着いていた。
その体は、依然としてはっきりとは見えなかった。
周囲の闇を呑み込んでいるかのような、黒い塊。
ただ、その顔だけは白く、そこには赤く光る二つの目があった。
そいつは、俺を見つめていた。
体が動かなかった。
凍えるような寒さの中にいるというのに、額には汗がにじんでいた。
背後の奈落に目を向ける。
そして、再びそいつを見た。
心臓の鼓動が、ますます速くなっていく。
もう、ほかに道はなかった。
いや……。
もしかすると、俺はもう何も考えられなくなっていたのかもしれない。
俺は、崖の縁へと足を踏み出した。
そして次の瞬間……。
飛び降りた。
「うわあああああああああああっ!」
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「うわあああああああああああっ!」
俺はベッドから飛び起き、部屋中に響き渡るほどの叫び声を上げた。
「はっ……はっ……はっ……!」
激しく息を切らしながら、胸が急速に上下する。
だが……。
目の前には何もなかった。
森もない。
雪もない。
雨もない。
そして、俺を追いかけていたあの恐ろしい何かも。
目の前にあったのは、ただ日差しに照らされた壁だけだった。
俺は数秒間、その壁を見つめた。
それから、ゆっくりと周囲を見回した。
静かな部屋。
ベッド。
テーブル。
そして、壁の一つに設けられた窓。
そこから差し込む太陽の光が、部屋全体を暖かな光で満たしていた。
しばらくの間、沈黙が流れた。
「……夢でも見ていたのか?」
俺は自分の手を見つめ、それから自分の体を確認した。
俺はここにいる。
この部屋に。
ついさっきまで、正体の分からない何かから逃げるために、凍てつく森の中を走り回っていたはずなのに……そんなことを示すものは何一つなかった。
だが……。
一体、俺は何を見たんだ?
本当に夢だったのか?
それとも、悪夢と呼ぶべきものだったのか?
俺は眉をひそめ、何が起きたのか思い出そうとした。
思い出せたのは、軽い頭痛と、途切れ途切れの映像だけだった。
森……。
転倒……。
そして、爆発したあの怪物……。
「……」
俺の思考が、そこで止まった。
改めて、部屋を見回す。
ベッド。
テーブル。
窓から差し込む太陽の光。
どうやら俺は、一つの悪夢を見ていたわけではなさそうだ。
……二つの悪夢を見ていたらしい。
考えを整理する間もなく……。
チーン! チーン! チーン!
俺は、はっと顔を上げた。
「……はあ?」
鐘の音だった。
外から、鐘の音が鳴り響いている。
俺は困惑しながら窓を見つめた。
「鐘……!?」
どこから聞こえてくるんだ?
それに、どうしてこんなに大きな音なんだ?
チーン! チーン! チーン!
鐘の音はますます大きくなり、その響きが辺り一帯に広がっていく。
俺はもう一度窓を見つめ、それから周囲の部屋をさっと見回した。
何が起きているのか、分からない。
自分が一体どこにいるのかさえ、分からない。
ただ一つ分かっているのは、奇妙な二つの悪夢から目を覚ましたばかりだというのに、どうやってたどり着いたのかも覚えていない場所にいるということ……。
そして今度は、まるで外で何かが起きているかのように、鐘が鳴り響いている。
……いや、マジで何が起きてるんだよ?
何もかもが、混乱の極みだった。
なぜかって?
仮に、これまでの出来事がすべて夢だったとしよう。
いや、正確には悪夢か。
だったら、もう二度とあんな体験をしたくない!
正直なところ、初めて自分の殻を破って外国へ旅行しようとしただけで、こんなことになるなんて思いもしなかった!
これが旅行の副作用なのか?
もしそうなら、金を返してくれ!
……
まあ、それはひとまず置いておこう。
俺は、自分が腰掛けているベッドの上を手でなぞった。
うーん……。
少し変わった手触りだ。
確かに、寝るには十分なくらい快適そうではある。
だが、素材が妙に粗い。
動物の皮、あるいは羊毛のような感触だった。
おいおい……今の時代でも、こんなベッドを作ってるのか!?
もうとっくに、こんなものが必要なくなるくらい世界は発展していると思っていたんだが!
……いや、待てよ。
俺がホテルの部屋にいるのだとしたら、そもそも、どうしてこんな部屋なんだ?
俺は、木製の壁や小さなテーブル、そして周囲に置かれた簡素な家具をじっくりと眺めた。
どう見ても、現代のホテルの部屋というより、映画で見る中世の部屋にしか見えない。
……なんて奇妙な場所なんだ!
俺はゆっくりと立ち上がり、窓へと歩いていった。
そして、窓に近づいた途端、太陽の光が顔に差し込んできた。
「うわっ、まぶしい!」
俺は手をかざして目を覆い、それから外を眺めた。
……待てよ。
俺が日本に到着したときって、秋だったはずじゃないか?
それなのに、どうしてこんなに日差しが強いんだ?
俺はさらに窓へ近づき、下の景色を覗き込んだ。
石畳の道を、馬に引かれた馬車が走っている。
道を行き交う男や女は、どこか奇妙な服装をしていた。
まるで、中世を舞台にした映画から飛び出してきたかのような格好だ。
道の両側には、テントや石造りの店がずらりと並んでいる。
店主たちは商品を並べ、通りを行く人々に向かって声を張り上げていた。
俺は、さらに遠くへと視線を向けた。
高い塔を備えた教会が見える。
先ほどから聞こえていた鐘の音は、あそこから響いてきているようだった。
チーン! チーン! チーン!
そして、地平線の向こうには、まるでこの一帯全体を囲んでいるかのような長い壁が伸びていた。
その向こうには、そびえ立つ山々。
そして、緑と黄色が入り交じる広大な土地が広がっていた。
……
俺は、黙ってその光景を見つめた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……なるほど、そういうことか」
俺は深く息を吸い込んだ。
「きっと、まだ夢を見ているんだ! そうだ、これが唯一合理的な説明だ!」
そうだ、そうだ!
慌てるな、ハリール!
目の前に広がっている光景が、現実のはずがないだろう?
これは夢の続きだ。
ただ、それだけのことだ!
だが……。
ふと、窓ガラスに映った自分の姿が目に入った。
俺は笑うのをやめた。
そこに映っていた顔は、以前にも見たことのある顔だった。
いや、正確に言えば……。
俺が覚えている自分の顔ではない。
俺が気づいたときには、その中にいた、見知らぬ体の顔だった。
俺はゆっくりと手を上げ、自分の顔に触れた。
……本当に、これは夢なのか?
……
だが、もし違ったら?
もし、これが本当の現実だったとしたら?
胸の奥に、重苦しいものが沈んでいくのを感じた。
俺は、その考えを最後まで追いかけたくなかった。
本当に別の世界へ転移してしまったのかもしれない。
そう考えるだけで、気分が台無しになるには十分だった。
「落ち着け、ハリール……」
俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「文明のない場所に放り込まれたんだとしたら、せめて文明的な考え方ができる、理性的な人間でいなきゃな」
そうだ、その通りだ!
まずは、いくつか確認すべきことがある。
仮に、俺が別の世界へ転移したという仮説が正しいとしよう。
では、それをどうやって確かめればいい?
もしかしたら、すでに答えは出ているのかもしれない。
だが、ひとまず今の状況は、ただの悪夢だったということにしておこう。
何しろ、ここは人であふれた町だ。
目の前で起きていることにも、きっと何か合理的な説明があるはずだ。
そう、それが正しい行動だ!
……
だが、その説明をどうやって見つければいいんだ?
そんなことを考えていたとき、外から聞こえてきた声が俺の注意を引いた。
「何だと、このジジイ!?」
俺は声のした方へ振り向いた。
通りに二人の男が立っていた。
どうやら、口論をしているらしい。
そして、その口論は徐々に喧嘩へと発展しつつあった。
年上の男が、怒った声で言い返した。
「歩く場所くらい気をつけろと言っているんだ!」
もう一人の男は不満げな顔で近づいた。
「気をつけなかったら何だってんだ? あんた、本気で俺とやり合いたいのか、この偉そうな野郎が!?」
おお……喧嘩か!
俺は窓枠に両腕を乗せ、興味津々で成り行きを見守り始めた。
うーん……。
男の一人が両手を持ち上げ、何やら口を動かし始めた。
俺のいる場所からは、何を言っているのか聞き取れない。
……あれは、護身術の動きなのか?
すると、奇妙なことが起きた。
男の手の前に、赤い円が現れたのだ。
俺は目を見開いた。
……はあ!?
円は徐々に赤みを増し、その光が周囲の空気にまで広がっていった。
そして、数秒後……。
その中心から、火の玉が飛び出した!
「……」
俺は黙ってそれを見つめた。
おいおい……何だ、あれは!?
だが、俺はすぐに納得のいく答えを見つけた。
きっと、映画の撮影をしているんだ!
そうだ、これに違いない!
中世を舞台にした映画で、異世界ものの要素もある。
おまけに、魔法の特殊効果まで登場するってわけか!
おお! なんて素晴らしいアイデアなんだ!
俺は、ますます興奮しながら見物を続けた。
もう一人の男も、同じように手を上げ、奇妙な言葉をつぶやき始めた。
すると、今度は男の前に緑色の円が現れた。
その円を形作る線が、互いに重なり合いながら回転している。
次の瞬間、その周囲に風が集まり始めた。
おおおお!
風が小さな渦を巻きながら動いているのまで見える!
通りにいた人々は、二人の男から慌てて距離を取り始めた。
その顔には、不安の色が浮かんでいる。
おいおい……!
どうして、みんなそんなに怖がっているんだ?
中には、まるで命が懸かっているかのように、その場から逃げ出す人までいる!
いやあ、役者がそろいもそろって演技派だな!
正直、ここまで役になりきっている人たちは初めて見た!
カメラらしきものはどこにも見当たらない。
撮影開始を告げる声も聞こえない。
それなのに、誰もが本当にその世界で生きているかのように振る舞っている!
きっと、監督はこの作品にとんでもない予算をつぎ込んだに違いない!
そのとき、火の玉がもう一人の男に向かって放たれた。
同時に、緑色の円から猛烈な風の渦が巻き起こる。
ヒュオオオオオッ!
炎と風が激突した。
赤と緑の光が入り交じり、風が通りを激しく吹き抜ける音が響き渡った。
おおおおおおっ!
俺の中で、興奮がどんどん高まっていく。
「いいぞ! いいぞ!」
俺は感心しながら拍手を始めた。
「なんて素晴らしい特殊効果なんだ! このシーンだけで、監督は大金を使ったに違いない!」
だが……。
次の瞬間、火の玉の進む方向が変わった。
火の玉は風の渦の中を突き進み、そのまま俺のいる建物へと向かってきた。
それも……。
俺のいる窓に向かって!
俺は拍手をやめた。
「……はあ?」
火の玉は、そのまま近づいてくる。
どんどん。
どんどん。
そしてついに、俺のいる場所へ真っすぐ向かってきた!
俺は、その場に凍りついた。
おい……ちょっと待て。
これもアクションシーンの一部なのか?
それとも、俺も出演者の一人で、この展開に合わせて演技しなきゃいけないのか?
……
よし!
そういうことなら、俺もやってやろうじゃないか!
そうだ、いけるぞ、ハリール!
俺は窓を勢いよく開け放ち、震える両手を外へと突き出した。
「ゴホン……ゴホン!」
俺は必死に怯えているような顔を作り、声の限りに叫んだ。
「助けてくれー! 俺は危ないんだー!」
あははははは!
どうだ、この演技!
完璧じゃないか!?
監督たちも、この素晴らしいワンシーンに大喜びしているに違いない!
これはもう、天才的な才能だ!
旅が終わったら、俳優を目指してみるのも悪くないかもしれないな!
……
だが、どうして顔がこんなに熱いんだ?
どうして額から、こんなに大量の汗が流れている?
……待てよ。
こんなはずじゃなかった。
ただの特殊効果なんだろ!?
「あ、「あれれ!」




