第9話 初めての休日
熱い。
息を吸うたび、喉が焼けるように痛かった。
目の前が赤い。炎が揺れている。
どこかで何かが崩れる音がした。
怖い。
逃げなければいけないとわかっているのに、身体が動かない。
煙と赤い光で周囲は何も見えない。
熱い。苦しい。
誰か。
——誰か、助けて!
「……リリー」
遠くで声がした。
「リリー」
知っている声のような気がした。
「リリー、起きろ」
肩を揺さぶられた。
「……っ」
リリーは目を開けた。
まだぼやける視界の中、大きく息を吸うと冷たい空気が肺に流れ込んできた。炎の熱も、煙の匂いも感じない。
すぐ目の前にはシオンの顔があり、紺碧の瞳が心配そうにリリーを見つめていた。
「大丈夫か?」
「……シオン?」
「ああ」
何度か呼吸を繰り返す。
ようやくはっきりした視界で、ここが自分の部屋だとわかる。窓から朝の光が差し込んでいる。
額に張りついた髪が気持ち悪い。
手を当てると、薄く汗をかいていた。
「うなされてたぞ」
「夢……みてました」
「そうか」
リリーはゆっくり身体を起こした。
久しぶりだった。
昔からごくたまに見る、炎の中にいる夢だ。
いつも同じというわけではなく、炎が見えることもあれば、ただ熱くて苦しいだけの事もある。
ただ、目覚めた後には決まって、逃げようのない恐怖心と苦しい感覚が残る。
「その夢、よく見るのか?」
「本当にたまに。最近は見なかったのに」
「火事か?」
リリーは驚いてシオンを見る。
「……何で分かったんですか?」
「熱いって言ってた」
「そんなこと言ってました?」
「ああ。何度もうなされながらな」
「そう……ですか……」
覚えていない。
「昔の事か?」
「いえ、ただの夢だと思います。火事に遭ったことなんてありませんから」
「そうか」
シオンはそれ以上聞かなかった。
リリーはベッドから足を下ろす。
そこでふと時計を見ると、まだ早い時間だった。昨日よりはずっと早い。
「……起こしてくれたんですね」
「昨日、起こせって言っただろ」
「言いましたけど」
リリーは時計をもう一度見た。
「今日、休みです」
シオンは驚いたように目を見開いた。
「……そうなのか?」
「仕事の日以外は起こさなくていいです」
「悪かった」
悪びれた様子もなく言う。
本当は寝室には入らない約束だったことも一言言いたいところだけど……
リリーは小さくため息をついた。
「まあ私も休みの事言わなかったですし、もう起きます」
「ああ。朝飯できてるぞ」
「もう作ったんですか?」
「起きてたからな」
シオンはそう言って部屋を出ていった。
閉じた扉を見つめる。
いつもなら目覚めてからもしばらくは、夢の恐怖から抜け出せないが、今朝はいくらか気持ちが軽かった。
——朝食、か。
リリーは一人で気ままに食べる休日の朝食が好きだった。それなのに今朝は、誰かが朝食を作って待っていてくれることが、妙にありがたかった。
*
朝食を終える頃には、いつもの調子を取り戻していた。テーブルの上には昨日借りてきた本が積まれている。昨夜読めなかった本がまだ三冊ある。
「今日はどうするんだ?」
シオンが聞いてきた。
「この本の続きを読みたいところですけど、買い出しにも行かないと」
するとシオンが、台所から一枚の紙を持ってきてリリーの前に置いた。
「これ」
「何ですか?」
「足りなくなってきたものを書いておいた」
玉ねぎ、じゃがいも、牛乳、バター、鶏肉、卵、香草……その下にもまだ続いている。
「結構ありますね」
「悪いな……」
少し眉を寄せてシオンが謝る。
「食料庫にもありませんでしたか」
「あるにはある。でも偏ってる」
「偏ってる?」
「ワインはたくさんある」
「…………」
リリーは紙を折った。
「分かりました。買ってきます」
「頼む」
いつの間にか、台所の主導権を完全に奪われている。シオンに料理してくれと頼んだ覚えはないし、今まで自分は普通に料理をしていたはずなのに、おかしい。
リリーは視線をテーブルに広げてあった古い結界図へ向けた。
「店が開くまで時間があるので、昨日の続きを少し調べませんか?」
「結界か」
「はい」
地下深くに存在する、魔力の通り道。
そしてこの家の結界は、図面を見る限り、地面より下にも続いている。
「図面だけでは分からないので、実際のこの家の結界を見てみようと思うんです」
「外に出るのか?」
「庭までです」
リリーはガラス戸の外を見る。この家には小さな庭があり、居間のガラス戸からテラスを通って出られるようになっている。
「庭は結界の内側です。この家の結界がシオンの魔力減少を防いでいるのであれば、庭に出ても大丈夫なはずです」
「はず、か」
「実際に確認してみないとなんとも言えませんが」
「実験してみたいと」
「仮説の検証には必要かと。無理にとは言いませんが……」
シオンは軽く両手を上げて肩をすくめた。
「了解、やれることは何でもやるよ」
庭に出ると、朝の空気はまだ少し冷たかった。雲の切れ間から薄い日差しが落ちている。
リリーは家の外壁に沿って歩いた。後ろをついてくるシオンの様子は全くいつも通りだ。
「魔力はどうですか?」
「特に変わらないな」
「気分は大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない」
「周囲の魔力は?」
「それはお前の方が分かるだろ」
「そうでした」
リリーは意識を広げる。
庭の中にはいつも通りの魔力の流れがある。風にも、土にも、木々にも、穏やかに魔力が流れ、シオンの周囲だけが不自然に空白になることもない。
「大丈夫そうですね」
「ああ」
さらに庭の奥へ進んで結界の境界に近づく。
「ここから先は出ないでください」
「分かってる」
リリーは結界のある場所に片手を伸ばし、目を閉じた。薄く魔力を流す。
普段の点検では、結界に欠損がないかを見るだけだが、今日は違う。術式そのものを辿って結界の範囲を確認する。
地上から屋根の上まで家の周囲をぐるっと取り囲む結界。そして——
「本当だ……」
「どうした?」
「地面の下に続いてます」
もう一度、慎重に魔力を流した。結界は地面で終わっておらず、地下へ潜っている。
——しかもかなり深い。
「地下のどこまで続いてる?」
「待ってください」
シオンに答えながら注意深く魔力を流し続ける。
深く。さらに深く。
「あ……、ここで閉じてる?」
リリーは地面を見た。
「地下で反対側の術式と繋がっています」
シオンがこちらを見つめている。
「どういうことだ……?」
「この家の結界、地下まで全部囲っています」
「それは、球みたいに地下を覆っているということか?」
「おそらく。こんな結界、聞いたことありませんが」
言葉にすると、余計に奇妙だった。
現在使われている家屋用の結界で、そんな構造は見たことがない。
家を守るだけなら、地上だけで十分なはずだ。
「普通地下まで必要ないだろ。何のために?」
「……分かりません」
昨日から、そればかり言っている気がする。
地下に張り巡らされている魔導路の存在を知った。
そして地下まで完全に閉じた、この家の結界。
「やっぱり、関係があるんでしょうか」
「ありそうだな」
「でも、まだ断定はできません」
「お前ならそう言うと思った」
少し笑われた。
リリーは何となく気に入らず、もう一度結界へ意識を向けた。
図面通り、本当に地下まで覆っていたこの家の結界。
そしてその結界の内側である庭にならシオンは出られることがわかった。
——少しずつ、前に進めている。
春の日差しの下、リリーはなぜか心が落ち着かなかった。




