第8話 魔導路
食事を終えると、二人で食器を片づけた。
リリーが洗い、シオンが拭いて棚へ戻していく。
昨日までどこに何があるのか知らなかったはずなのに、シオンはもうほとんど迷わなかった。
「もう食器の場所わかるんですね」
「だいたいな。毎日使ってるし」
——毎日。
まだ二日だが、リリーは何も言わずに最後の皿を渡した。
テーブルの上を片づけ、代わりに持ち帰った七冊の本を並べる。
積み上げてみると、改めて結構な量だった。
「全部読むのか?」
「まあ、できるところまで読みたいですね」
「終わりの時間は?」
リリーは壁の時計を見た。
「……十一時」
「了解」
「私、先にお風呂入ってから読みます」
本は寝る直前まで読みたいし、読み始めたら途中で切り上げるのも難しそうだ。
「ああ、じゃあ先に読んでる」
シオンが一冊を手に取る。
「古代結界ですか?」
「だな、昨日の術式と似たものがあるかもしれない」
リリーは自分も読みたい気持ちを抑えて急いで浴室に向かった。昨日は湯上がり姿を見られる事を気にしていたはずだが、本を早く読みたい気持ちですっかり忘れていた。
湯に浸かりながらも、考えるのは結局シオンのことだった。
正確には、シオンにかけられた術式についてだ。
本人の魔力だけでなく、周囲の魔力まで消失する。
特定のことを話そうとすると、言葉が出ずに魔力を失う。
この家の中にいる限り魔力は少しずつ回復する。
これらの謎を解く手がかりを、何か一つでも見つけたかった。
髪を乾かし、部屋着に着替える。リリーは鏡を覗き込み、赤銅色の髪に櫛を入れた。癖のある毛先が、肩の辺りでくるりと巻いている。エメラルド色の瞳が鏡の中から見返していた。見慣れた自分の顔なのに、何だか少し変わって見えた。
居間へ戻ると、先ほどと同じ場所に座っていたシオンが本から顔を上げる。
シオンの視線が一瞬止まった。紺碧の瞳が、わずかに揺れる。
「……何ですか?」
「いや」
「何か……ついてます?」
「何でもない」
シオンは本に視線を戻したきり、顔を上げようとしない。
「何かわかりましたか」
「……えっ、ああ。昔の結界はやけに複雑だということだな。時代とともに術式が洗練されたのか、それとも今では失われた技術があるのか、まだわからないが」
シオンは少し早口に答えた。
「そうですか、古代の結界なんて今まで考えもしませんでした」
リリーが感心しながら呟く。
「では私は呪術から読みます」
「じゃあ俺も風呂に入ってくる」
リリーはシオンの背中を見送ってから、本の頁をめくった。
発言を制限する呪術。
特定の条件に反応して発動する術式。
術者と対象者の間に形成される魔力的な拘束。
それらしいものはいくつかあるが、シオンの状態と完全に一致するものはなかった。
やがて廊下から足音がした。
顔を上げると、まだ少し濡れた銀灰色の髪を無造作に下ろしたシオンが立っていた。昨夜も見たはずだが、風呂上がりのシオンはいつもとどこか雰囲気が違う。整った顔立ちが、いつもより際立って見えた。
気づけば、リリーはシオンをじっと見つめていた。
「どうした?」
「……いえ」
「何かあったか?」
「何もありません」
先ほどと同じようなやり取りをしている気がして、リリーは本へ視線を戻した。シオンも向かいの席に座り、本を開く。しばらくすると、部屋から会話がなくなった。
紙をめくる音だけが、ときどき重なる。
リリーは別に沈黙が苦手ではない。むしろ誰かと話し続けるより、こうして静かに本を読んでいる方がずっと楽だった。向かいにシオンがいても、それはあまり変わらないらしい。
二冊目の本にリリーは手を伸ばした。
魔力干渉についての古い資料だった。
かなり昔に書かれた文献を後世の研究者がまとめ直したものらしい。
最初の数十頁は、すでに知っている内容だった。
魔力同士の干渉。術式による吸収。魔導具への魔力の蓄積。
頁をめくると、その手が止まった。
「……魔導路」
小さく呟く。
「何かあったか?」
シオンが顔を上げた。
「少し待ってください」
リリーはその項目を最初から読み直した。
——魔導路。
地下深くには、自然に形成された魔力の通り道が存在する。
現在ではほとんど利用されていないが、古代にはその流れを術式によって制御し、離れた場所へ魔力を送る方法が存在したという。
「……遠くへ魔力を送る?」
今度はシオンも立ち上がった。
「どれだ?」
シオンが横から覗き込んだ。
「地下を通ってるのか」
古代には、この魔導路を使って、大規模な魔術や遠隔地の魔導具へ魔力を供給した例もあるらしい。
「聞いたことがないな。今は使われていないのか?」
「ほとんどは。魔力の流れが安定しない上に、制御が難しいとあります」
「古代では使っていた」
「そうみたいですね」
リリーはもう一度、その記述を見る。
地下。
その言葉が引っかかった。
どこかで――。
「あ」
立ち上がる。
「どうした?」
「昨日の図面」
棚に置いてあった紙の束を取り出す。
昨日、二人で見ていたこの家の結界図。
古い術式が重なり合い、現在の結界とはまるで違う構造をしていた。
テーブルの上に広げる。
「ここです」
リリーは図面の一部を指した。
地上を覆う結界の術式から、さらに下へと伸びる線。
昨日は何のためのものなのか分からなかった。
シオンも黙って図面を見る。
「この家の結界、地下にも続いていますよね」
「ああ」
「魔導路も地下にある」
「……そうだな」
二人で顔を見合わせる。
「関係あるでしょうか」
「分からない」
シオンは図面に視線を戻した。
「でも、調べる価値はありそうだ」
「そうですね」
リリーは椅子に座り直した。
もう一度、魔導路についての記述を読む。
これまでずっと、シオンの魔力は消えているのだと思っていた。
本人のものも、周囲から奪われたものも、どこにも残らず失われているのだと。
もし、そうではないとしたら。
リリーは頁の上に指を置いた。
「シオン」
「ん?」
「魔力って……消えてるとは限らないんですね」
シオンがこちらを見る。
「どこかへ送ることもできる」
しばらく返事はなかった。
やがてシオンも、開かれた本へ視線を落とした。
壁の時計が鳴った。
二人同時に顔を上げる。
十一時だった。
テーブルの上には、まだ開いていない本が三冊残っている。
「もう少しだけ……」
リリーが言いかけたところで、シオンが断言した。
「今日は終わりだ」
「まだ三冊あります」
「明日読めばいい」
「でも」
「終わりの時間は決めたんだろ」
「……はい」
仕方なく本を閉じる。
ただ、その横には魔導路について書かれた本と、古い結界図が並んだままだった。
昨日より、分かったことは一つ増えた。
同時にシオンの魔力がどこへ消えているのかという疑問は、少しだけ形を変えた。
――どこかへ、送られているのかもしれない。




