第6話 夜中のココア
「使ってもらう部屋なんですが、二階に客間があります」
食事を続けながら、リリーはそう切り出した。
二階には、昔客間として使われていた部屋がある。少なくともリリーが一人で暮らすようになってからは、誰かが泊まったことはない。それでもベッドや最低限の家具はそのまま残してあり、時々掃除をして寝具も干している。
「そこを使ってください」
「いいのか?」
「他に空いている部屋がないので」
「いや、そういう意味じゃなくて」
シオンは何か言いかけて、それから小さく息を吐いた。
「……なんでもない。ありがとう」
食事を終えると、二人と一匹で二階へ上がった。
階段を上がった先には三つの扉が並んでいる。そのうちの一つを開ける。
客間は広くはない。
ベッドと小さな箪笥、窓際に一人用の机と椅子、あとはベッド脇にサイドテーブルがあるくらいの簡素な部屋だった。
「長い間使っていませんけど、掃除はしてあります。寝具もこの前干したので、そのまま使えると思います」
「使ってない部屋なのに?」
「使っていなくても埃はたまりますから」
「……まめなんだな」
「普通です」
実際のところは、整理したり家具を捨てるのが面倒で、最低限の維持をしていただけなのだが、リリーにとってはそれが「普通」だった。
シオンは部屋の中を見回した。
簡素な部屋なのに、妙に感心したような顔をしている。
「何から何まで悪いな」
「それから——」
リリーは先程シオンに見せた紙袋を差し出した。
「お風呂に入ってください」
「風呂?」
「はい。着替えも入っています。さすがにいつまでもその格好では気持ち悪いでしょう」
シオンは自分の姿を見下ろした。
服はところどころ破けて薄汚れている。
「ああ。助かる」
「サイズが合うかわかりませんが」
「分かった」
「特に下着とかは、よくわからなかったので」
「…………」
言ってから、なぜそこだけ念を押してしまったのだろうと気まずくなった。
『そんなに心配なら俺も一緒に確認してやろうか』
「黙って」
ルウを睨む。
「今、何て言った?」
「何も言ってません」
『こんな親切なネコいないぞ』
「行きますよ」
それ以上余計なことを言われる前に、リリーは二人を連れて一階へ戻った。
浴室は居間を通り抜けた奥の部屋にある。
「お湯はここの魔石に魔力を流せば出ます。温度はこっちで——」
「ああ、分かる」
そう言われれば、これ以上説明することもない。
「では、ごゆっくり」
浴室へ続く扉を閉めると、リリーは一つ息を吐いた。
妙に疲れた。
家の中に他人がいるだけでこうも疲れるものなのか。
リリーは夕食の片づけを始めた。
食器を洗い終える頃、浴室の扉が開く音がしてリリーは振り返った。
「…………」
そこに立っていたのは、当然ながらシオンだった。
肩にはタオルを掛け、リリーが買ってきた寝間着を着ている。大きめのサイズを買ったつもりなのに少し足首が見えていた。
ただ、それだけなのにリリーは目を離せなかった。
雨と泥でくすんでいた肌も髪の色も、思っていたよりずっと明るかった。濡れた銀灰色の髪は灯りを受けて淡く光り、その間から深い紺碧の瞳が覗いている。
汚れが落ちただけで、ずいぶん印象が違う。
倒れていた時にも思ったが、実際はさらに目を引く容姿だったようだ。
「何だ?」
見すぎていたらしい。
「いえ。服はどうですか?」
「ちょうどいい」
「そうですか。よかったです」
それ以上は触れず、リリーはテーブルの上に果実水を置いた。水に薄く切った柑橘を浮かべて冷やしただけだが、ほのかな酸味が気に入っていた。
「この水は冷蔵庫にあるので、好きな時に飲んでください」
「ありがとう」
シオンは一息に半分ほど飲むとグラスを置き、濡れた髪に手をやる。
小さく詠唱すると指先がわずかに動いた。
ふわり、と風が起きた。
「え?」
リリーは目を見開いた。
濡れた銀灰色の髪の間を、柔らかな風が抜けていく。
強く吹きつけるのではなく、髪をすくい上げるような絶妙な加減の風が、少しずつ水気だけを奪っていく。ごく自然な動作だった。
「……ずいぶん戻りましたね」
昨日、この男の中には魔力がほとんど残っていなかった。
それが今は、風魔法を使っている。
シオンが不思議そうにこちらを見る。
「これっぽっちで?」
「髪を乾かせるくらいには戻ってるじゃないですか」
「まだほとんど戻ってないぞ」
「……ほとんど?」
「ああ。この程度なら赤ん坊と大して変わらない」
今度は別の意味で、リリーは黙った。
「……あなたの言う赤ん坊って、ずいぶん器用なんですね」
「そうか?」
本気で分かっていない顔をしている。
リリーは改めてシオンを見た。
使っている魔力そのものは多くないが、その扱い方が妙に滑らかだった。限られた力を、ほとんど無駄なく動かしている。
昨日まで死にかけていた人間の魔法には、とても見えない。
「何だ?」
「いえ」
やっぱり、気になる。
この家にいるだけで、シオンの魔力は確実に戻っている。
では、このままここにいたら。
いったい、どこまで戻るのだろう。
*
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
リリーはこれから風呂に入るため、シオンには先に部屋で休んでもらうことにした。自分の風呂上がりを見られるのは、ちょっと……というのもある。
この同居生活、どこまでがよくてどこからがダメなのか、自分でも境界線が曖昧だった。
ルウ以外におやすみを言うのも慣れない。
やっとこの緊張感から解放されると思うと心底ほっとした。ゆっくりお風呂に入り、柑橘の香りがする冷たい果実水を飲んだ後、ベッドに入り目を閉じる。
昨日、シオンの魔力はほぼ空だった。
それが、この家へ連れ戻してから少しずつ回復し始め、今日一日ここにいただけで、風魔法を使えるまでになっている。
リリーは目を開けた。
——やはり、おかしい。
そもそも魔力は、休めば多少は回復するが、ほぼ空になった人間の魔力がこんなに早く戻るものなのか。それに、外ではシオン自身だけでなく、周囲からも魔力そのものが消えていた。でもこの家ではそれが起こらない。
——違いは何?
場所。家。それとも結界。
リリーは起き上がった。気になって寝られない。
寝間着の上から羽織りものを引っかけ、足音を忍ばせて一階へ降りる。
居間の戸棚の一番下には、この家に関する古い書類がまとめて突っ込んである。土地の権利書や何度か行われた修繕の記録、いつのものか分からない配管図。その他、捨てていいのかどうか判断できず、そのままになっている紙の束。その中に、確か結界に関するものもあったはずだ。
「あった」
何冊かの古い帳面と、丸められた紙の束を引っ張り出し、食卓いっぱいに広げた。
現在この家を覆っている結界なら、リリーも把握している。侵入防止と防火、防水。それに簡単な魔力感知。何度か修復もしているから、術式の構造もだいたい頭に入っていた。
けれど、古い図面は違った。
「……何これ」
現在使われている術式の下に、見覚えのない線が幾重にも走っている。
古いせいか薄れている部分も多い。ところどころ読めない記号もあるが、後から書き加えられたものではない。むしろ今使っている結界の方が、この古い術式の上に重ねられている。
「こんなの、あったっけ……」
顔を近づける。線を指で追う。
ここが起点。こちらが外周。
なら、この記号は——
「そこ、逆じゃないか」
「ひっ!」
突然背後から声がして、リリーはビクッとしてから振り返った。
シオンが立っていた。
銀灰色の髪はすっかり乾いている。
先ほどの寝間着姿のまま、片手で髪をかき上げていた。
「……何してるんですか」
「それはこっちの台詞だ」
視線が食卓へ落ちる。
「何を見てる?」
「この家の結界の図面です」
「結界?」
シオンが近づいてくる。
「あなたの魔力がこの家にいる間だけ戻るなら、原因は家の結界かもしれないと思って」
「それを今から調べるのか?」
「はい、気になったら眠れなくて」
「……そうか」
シオンは少し黙った。
「あなたは?」
「俺も眠れない」
「どうしてですか」
「分からない。久しぶりに体に魔力が戻ってきたからかもしれないな」
--なるほど。
リリーは再び図面へ視線を戻した。
「それで、さっきの逆って何ですか」
「これ」
シオンが隣から図面を覗き込み、一つの記号を指した。
「お前、ここを魔力の流入口だと思ってただろ」
「え、違うんですか?」
「反転だと思う」
「反転?」
リリーは目を細めた。
「でも、ここで反転させたら外周の術式とつながらなくなります」
「直接はな」
「え?でも……」
「こっちを見ろ」
指が図面の上を滑る。
「ここで一度内側に戻してる。そのあと、たぶんここで分岐する」
「…………」
言われた通りに線を追う。
確かに途中で途切れていると思っていた線が、別の術式の一部としてつながっている。
「あ」
思わず声が出た。
「本当だ」
シオンが何でもないことのように頷く。リリーは図面から顔を上げた。
「ずいぶん詳しいですね」
「そうか?」
「そうですよ」
リリーもあまり見たことのない、古い術式だった。
「どこかで習ったんですか?」
シオンの表情がほんの一瞬止まった。
「……昔だ」
それ以上は続かない。
リリーも追及しなかった。
話したくないのか、話せないのか、今はその区別すらつかない。
「それより」
今度はシオンがリリーを見る。
「お前はこれが読めるのか?」
「ある程度なら」
「かなり古いし複雑な術式だぞ」
「そうみたいですね」
「そうみたいですね、じゃなくて」
シオンが呆れたような顔をする。
「こんな術式、どこで教わるんだ?そういう関係の仕事か?」
「いえ。勤め先は魔法管理局ですけど」
「管理局?」
「公共施設の魔道具や結界の管理をする部門ですけど、仕事でこんな術式は見たことないですね」
「じゃあ、何で分かる」
「うーん。……本を読むのが好きだから?」
考えたこともなかったので、改めて聞かれると困ってしまう。
「本?それだけか?」
「おそらくは」
「…………」
明らかに納得していないが、シオンもこれ以上は聞かなかった。リリーは図面を取り返すように自分の方へ引き寄せた。
「それより、ここです。この部分だけ術式の組み方が違います」
「どれ」
「ここです、ここ」
シオンが再び隣へ寄ってきて、二人で図面を覗き込む。シオンの銀灰色の髪が視界に入った。
術式の解読には時間がかかった。複雑なだけではない。何のために組まれたものなのか、その意図がまるで見えてこない。
こんな結界は初めて見た。
——どうして、こんなものがこの家に?
しばらく図面に向かっているうちに、身体が冷えてきた。
リリーは立ち上がりシオンに尋ねた。
「ココアでも飲みます?」
「ああ、ありがとう」
二杯分のココアを作り、食卓へ戻った。
湯気の向こうで、シオンはまだ図面を眺めている。
「ここ」
椅子に座るなり、シオンが指差した。
「この三つ、同じ術式に見えるけど少し違う」
「……本当ですね」
一つ目は遮断。
二つ目は反射。
三つ目は——。
「これ、何でしょう」
「分からない」
「分からないんですか」
「悪かったな」
図面に向かっていた二人の視線が合う。
「いえ。何でも知っていそうだと思ったので」
「お前も似たようなものだろ」
シオンは小さく笑う。
「私はそんなことありません」
「人のこと、言えないからな」
ふっと笑ってリリーはココアを一口飲んだ。
甘い。
向かいではシオンもカップに口をつけ、驚いたような顔をしてリリーを見た。
「……甘いな」
「砂糖入れましたから」
「もう少し苦いかと思った」
「甘いほうがよく眠れるかと思って」
「そうか」
「甘すぎたなら次から減らします」
「いや、これでいい」
再び二人で図面を見る。
結局その夜、古い結界が何のために作られたものなのかは分からなかった。分かったのは、今リリーが使っている結界よりはるかに古い術式が、この家そのものに組み込まれているらしいということ。
そして、もう一つ。
「ここ、さっきの反転と同じですよね」
「ああ。ただ、こっちは流れが逆だ」
「ということは——」
言いかけて、リリーはふと顔を上げた。
同じタイミングで、シオンもこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
お互い、何か言いたそうな顔をしている。
先に口を開いたのはシオンだった。
「お前、本当に管理局の普通の職員か?」
「……あなたに言われたくありません」
シオンは一瞬きょとんとした後、ふっと口元を緩めた。
紺碧の瞳が、興味深そうにリリーを見つめる。
「へえ……」
この家の結界について謎がさらに増えた。
そしてどうやら——
目の前の男についても、同じらしかった。




