第5話 生活必需品
——別に急ぐ必要はないのだ。
家の中にいればシオンの魔力は少しずつ戻るはずだし、ルウも見ていてくれている。
——何も問題はない。
そう思いながら歩いていたところで、ふと足が止まった。
「あ……」
帰る前にやることがある。買い物だ。
家には一人暮らしのリリーが食べるのに足りる程度の食材しかない。
今朝は二人で朝食を食べ、昼はシオンに残っているものを適当に食べるよう言ってきた。おそらくすぐに、家の冷蔵庫の中は空になる。
リリーは家とは反対方向へ足を向けた。
食料を買わなければ。それから——。
「服もいるよね」
シオンは昨日から同じ服を着ている。
しかも雨の中、路上で倒れていた時にはボロボロで汚れていた。
そもそもあの男は着替えどころか、荷物一つ持っていないのだ。
しばらく家にいるのなら、最低限の生活用品は必要になる。
リリーは頭の中で必要なものを並べた。
歯ブラシ、タオル。着替えと寝間着、靴下。
それから……
——下着。
往来の真ん中で、リリーは立ち止まった。
これは……自分が買うのだろうか。
とは言え他に買う人間はいない。
本人は家から出られないのだから、必然的に自分が買うしかない。
理屈は分かる。分かるのだが。
「…………」
リリーは無言で再び歩き出した。
深く考えるのはやめよう。
ただの生活必需品だ。
*
結局、必要なものを一通り揃えるだけで、思った以上に時間がかかった。
食料はいい。歯ブラシもタオルも問題ない。
服も、とりあえず無難なシャツとズボン、寝間着を二組ずつ選んだ。
問題は、やはり下着だった。
「……分からない」
男性用の下着が並ぶ棚の前で、リリーは途方に暮れていた。種類もサイズも分からない。
シオンは背が高く、肩幅もある。身体つきを見る限りかなり鍛えていて引き締まっている。
では腰回りは……。
「…………」
今朝、台所に立っていたシオンの姿が頭に浮かんだ。
リリーはすぐに記憶を振り払った。何を真剣に思い出しているのだ。
そもそも、服の上から見たところで正確なサイズなど分かるはずがない。
しばらく売り場で悩んだ末、意を決して店員に声をかけた。
親兄弟に買うのだと、誰に対してかわからない言い訳を心の中で繰り返しながら店員に声をかけたら、驚くほどあっけなく決まり、勧められたものをそのまま買った。
合わなければ本人にどうにかしてもらおう。
そこまで面倒を見る義理はない。
すでに下着まで買っている時点で、十分すぎるほど面倒を見ている気もしたが、考えないことにした。
*
家に着くころには、日はだいぶ傾いていた。
リリーの家は、王都の外れの静かな地区に立つ、石造りの家だった。
先祖代々住んでいる古い家で、壁にはところどころ蔦が這っている。
中心地から歩けない距離ではないが、あちこち寄り道をしているうちに、思いのほか時間がかかってしまった。
「……重い」
両手には食料と生活用品の入った袋。
早く帰るつもりだったはずなのに、いつもより帰宅が遅くなっている。
リリーは玄関の前に荷物を置き、鍵を取り出した。
とりあえずシオンに渡すものを渡して、夕食を作って、それから今後のことを考えよう。
使ってもらう部屋も決めなければならない。
シオンにかけられた魔法についても調べたい。
「はぁ、疲れた。なんでこんな面倒なことに……」
思わずこぼしながら、玄関扉を開けた。
その瞬間リリーは動きを止めた。
「………?」
いい匂いがする。肉を焼いた香ばしい匂い。
何かを煮込んでいるらしい、温かな香り。
そして奥から、かすかに鍋の音が聞こえる。
家を間違えたかと思った。
もちろん、そんなはずはない。
見慣れた玄関。見慣れた壁。見慣れた家具。
でも妙に家の中が片付いている気もする。
「…………」
荷物を抱え直し、リリーは家の中へ入った。
居間の窓辺では、ルウがいつになく満足そうな顔で丸くなっていた。
『遅かったな』
「色々買い物していたのよ」
『俺には関係ない』
「ルウのものも買ってきたんだけど」
『なら許す』
「何様ですか……」
買ってきた袋をテーブルに置く。
台所から、包丁の音がした。リリーはそちらへ目を向けた。
シオンが袖を肘までまくり、まな板に向かっている。
朝と同じく、まるで以前からこの家の台所を使っていたかのような馴染み方だった。
台所前で棒立ちになっているリリーに気づいて、シオンが顔を上げた。
「あ、おかえり」
一人暮らしでは聞き慣れないその何気ない一言に、リリーは一瞬たじろいだ。
「た……、ただい……ま、です」
最後の語尾は聞き取れないくらい小声になった。
「あの……何してるんですか」
「夕飯を作ろうと思ってな。もうすぐできる」
「食材、ありましたか?」
「あるもので作った」
「……私の分まで作ってるんですか」
「当たり前だろ」
あまりにも当然のように返されて、また言葉に詰まる。
『俺が作れって言った』
「ルウ?」
『腹減ったからな』
「…………」
相変わらずのルウに、リリーは小さく息を吐いた。
「とりあえず、これ」
テーブルに置いた袋を一つ持ち上げ、シオンへ差し出す。
「何だ?」
「あなたにです。着替えと、生活用品。最低限しか買ってませんけど」
シオンの手が止まった。
「俺の?」
「他に誰がいるんですか」
袋を受け取ったシオンが、中を覗く。
シャツ、ズボン、靴下、寝間着。
歯ブラシとタオル。
その下に入っているものに気づく前に、リリーは顔を逸らした。
「サイズは適当です。合わなかったら知りません」
紙袋の中を覗いたまま、シオンがつぶやく。
「……いくらだ」
「え?」
「代金、いくらくらいかかった?」
「持ってるんですか?」
「いや……」
「持ってないのはわかってますから、気にしないでください」
シオンは何も言わなかった。
しばらくして小さく頭を下げた。
「悪い。でも後で必ず払うよ」
リリーは顔を横に振る。
「別にいいです」
「いや、よくない」
「必要なものを最低限買っただけですから。いちいち返さなくていいです」
シオンが黙った。
今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違った。何か言いたそうに見えたが、結局何も言わず、手にした袋へ視線を落とす。リリーはそれ以上気にせず、残りの荷物を持ち上げた。
「それより、夕飯ができるまでに荷物を片づけます。あとで部屋も決めましょう」
「ああ、わかった」
返事を聞いて、リリーは食料の袋を台所へ運ぶ。
鍋がことこと音を立て、料理の匂いが家の中に広がっている。
窓辺ではルウが眠そうに尻尾を揺らしている。
朝までとは何も変わらないはずなのに、家の中に流れる空気だけがどこか違って感じられた。
食料品を片づけ終えるころには、夕飯も出来上がっていた。
食卓に並んだのは、鶏肉と野菜の煮込みだった。
じゃがいもに玉ねぎ、にんじん、柔らかく煮えた春キャベツと豆も入っている。牛乳で煮込んだ乳白色のスープからは香草とバターが香り、まだ少し肌寒い春の夕方に、体を温めてくれそうだった。
「大した材料なかったのに、よく作れましたね」
「いや、十分あった。ただ冷蔵庫の中は大分減らしてしまったが」
「そう思って、買い物して来たので大丈夫です」
「色々悪いな」
シオンが切ったパンを籠に入れて、食卓の真ん中に置いた。
皿は二枚。
いつも使っている食卓なのに、向かい側にも料理が置かれているだけで、妙に違って見える。
『俺の分は?』
足元から声がした。
「人間と同じもの食べると病気になるよ?」
『俺様を普通の猫と一緒にするな』
そう言って胸を張る黒猫にリリーは冷たい眼差しを向けた。
「また何か言ってるのか?」
「自分にも夕飯をよこせと」
「だいたいメシの話だな」
『バカにするなよ』
「ルウは黙ってて」
ルウの皿にスープを入れているとふと思い出した。
「あ」
「どうした?」
「ワイン、飲みますか?」
シオンが少し意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「私はいつも飲んでいるので。嫌いでなければ、ですが」
「飲んでもいいなら嬉しい。俺も家では毎晩飲んでた方だ」
思わずこぼれたシオンの笑顔に、リリーは一瞬、目を奪われた。
棚からワインを取り出し、グラスを二つ出す。
こんな風にグラスを二つ並べたのは、いつ以来だろう。
考えても思い出せなかった。
向かいに座ったシオンに片方を渡し、自分のグラスにもワインを注ぐ。
さて。どうすればいいのだろう。
別に乾杯するような感じではない。
かといって、二人して黙って飲み始めるのも妙な気がする。
リリーは手元のグラスを見た。
「ええっと……今日は料理、ありがとうございます」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
シオンが一瞬目を丸くして、それから少し口元を緩めた。
「いや。こっちこそ、色々買ってきてもらったし、世話になってばかりだ」
そう言って、手にしたグラスをわずかに持ち上げた。
「借りは、いつか返す」
「……別に、返さなくてもいいんですけど」
「借りたものは返す主義なんだ」
リリーは何か言おうとして、やめた。
代わりに、自分のグラスを少し持ち上げる。
シオンのグラスと軽く触れ合って、小さな音がした。
乾杯、とはどちらも言わなかった。
ワインを一口飲んでから、煮込みを口に運ぶ。
鶏肉は柔らかく、野菜の甘みが溶けたスープに香草の香りがよく合っている。
「……おいしい」
「そうか。よかった」
シオンもパンをちぎって、煮込みのスープにつける。
ルウが足元で何か言っている。
向かいからは食器の音がする。
いつもと同じ食卓なのに、今日は音が多い。
リリーはもう一口、煮込みを食べた。
やっぱり少し、落ち着かなかった。




