第22話 母の部屋
二階へ上がり、廊下の奥へ向かう。
母の部屋は、リリーの部屋から二つ離れたところにある。廊下を進み、シオンが使っている客室の前を通り過ぎたところで、ロイが何気なく扉を見た。
「そういや、ばあちゃん、昔この部屋使ってたよな」
「そうなのか」
シオンも客間の扉をちらりと見た。
リリーはうなずいた。
「はい。マーサさんは母がいなくなったあと、しばらく一緒に住んで面倒を見てくれたんです。私が一人で暮らせるようになってからは、通いで手伝いに来てくれました」
マーサは母マリーが生きていた頃からの付き合いだった。だからこそ、マーサはこの家やマリーのことをよく知っている。三人は客間の前を通り過ぎ、一番奥の扉の前で、立ち止まる。
「ここです」
母の部屋。今でも時々、掃除や換気のために入ることはある。
それなのに今日はなぜか、すぐに扉を開ける気になれなかった。
今まで掃除はしても、母の私物、遺品を確かめることはしなかった。
なんとなく見る気になれなかったのだ。
リリーにとって、母との記憶は曖昧で、母は遠い人だった。
「リリー?」
ロイに呼ばれ、リリーははっとした。
「あ、うん」
ドアノブに手をかけた。
「何でもない」
扉を開ける。窓から差し込む午後の光が、静かな部屋を照らしている。
母がいなくなったあと、マーサが大きな家具は整理してくれていた。
今残っているのは、魔法関連の本が並ぶ本棚、洋服箪笥、小さな机と椅子、そして窓際の鏡台だ。掃除しているので埃はかぶっていないが、長年使われていない家具は、年月以上に古びて見えた。
——探すのは指輪に関する手がかりや資料。
リリーは一つ息をつくと、まず本棚へ向かった。
本棚には、古い魔術書がぎっしりと並んでいた。
結界術。魔道具。魔力制御。
背表紙を目で追っていく。
「専門書ばかり……」
何冊か抜き出してみる。リリーが仕事で使うものより古い本もあれば、見覚えのある著者のものもある。その中に、薄い冊子が何冊もまとめて差し込まれていた。
「これは……」
一冊を抜き取る。
表紙には題名と、その下に著者名が記されていた。
『多重結界術式における魔力損失の低減について』
——王立魔法研究所 マリー・コレット
「え?」
リリーがその文字を目にして固まっていると、シオンが覗き込んだ。
「どうかしたか?」
「これ、お母さんが書いた論文……みたいです」
リリーはまだ意味が掴めず、後ろに立つロイを振り返った。
「ロイ、お母さんが王立魔法研究所にいたなんて知ってた?」
ロイはすぐに首を振った。
「え、マリーさんが?そんなの、聞いたことねえよ。そうなのか?」
ロイも初耳のようだった。
「うん。ここにはそう書いてあるけど……」
リリーは手にした論文のページをめくった。
細かな文字と術式図がびっしりと並んでいる。
数ページ進んだところで、表紙へ戻る。
「他にもあるぞ」
シオンが隣の冊子を抜き出した。同じ名前が記されている。
『循環術式を用いた結界維持魔力の効率化』
——お母さんは研究者だったんだ。
その事実が、思っていたよりもリリーの胸に響いた。
さらにマリーの論文は次々と出てきた。
結界の長期維持。
複数術式間における魔力伝達。
術式内で生じる魔力損失。
外部魔力による術式への干渉。
「……結界術関連が多いな」
シオンが言った。
「そうですね。でも、それだけじゃない」
リリーは数冊を机へ運んだ。
「魔力をどう使えば、少ない消費で術式を維持できるか。その研究も多いみたいです」
「効率化ってことか」
シオンが興味深そうに冊子をめくっている。
「ええ、おそらく」
リリーは一冊を開いた。
数ページ読んだところで顔を上げ、つぶやいた。
「…………難しい」
母の論文は、リリーが普段読む研究資料よりも、明らかに複雑な応用理論を前提としていた。術式そのものは何とか追えても、その後に難解な計算や論理がいくつも挟まれて、途中から分からなくなる。
「半分くらいしか分からない」
リリーが残念そうにため息をつくと、横からロイが目を丸くして言った。
「こんな難しそうな論文、半分もわかれば十分じゃないか?」
向かい側で別の論文を読んでいたシオンが、ふと口を開いた。
「……これ」
リリーはシオンの読んでいる論文を覗き込む。
「分かります?」
シオンは首を横に振った。
「全部は無理だ。でも、ここは分かる」
シオンが紙面の一部を指差した。
「この術式、一つ目を動かしたあとの魔力を、次の術式に流してる。師匠が似たようなやり方をしてた」
指が術式図の線を辿る。
「お師匠さん?」
以前、一緒に暮らしていたというシオンの魔法の師匠。
確かギャディオンという名だった。
こんな複雑で高度な術式を使うなんて、一体どんな人物なのだろう。
シオンは異常に魔法が強かったと言っていたが——
「ああ。こんな理屈で説明されたことはないけどな」
シオンの言葉に気を取り直して、リリーは図を見直した。
一つ目の術式から、二つ目、さらに三つ目へ。
そして最後の線が——
「……戻ってる」
リリーは息を飲んだ。
「だろ?」
シオンも興奮した様子で図を目で追っている。
「循環させてるんだ」
もう一度、リリーは自分が読んでいた論文を最初から読む。
先ほど意味の分からなかった一文が、急に違って見えた。
「ちょっと待ってください。だとしたら、ここの式も……」
バラバラだったピースが急に繋がっていく。さっきまで意味をなさなかった式が、急に形を持ちはじめた。リリーはその高揚感に、少し頬を紅潮させた。
「たぶん同じだ。使い終わった魔力を次へ流してる」
シオンが答える。
一人では意味の取れなかった術式が、二人なら繋げることができる。
リリーは別の論文を引き寄せた。
「これも見てください。さっきの術式と似てるけど、これは結界を一枚ずつ独立させてるのに、魔力の経路だけは共有してる」
シオンは驚いた顔をした。
「本当だな」
「これなら一つが壊れても全部は止まらないのかも……?」
言いながら、ふと地下室の光景が脳裏に浮かんだ。石床いっぱいに刻まれていた、巨大な術式。一つ一つが独立して完成しているように見えながら、複雑に繋がっていた。
「……シオン」
リリーははっとシオンの顔を見た。
「ああ」
シオンも同じことを考えたらしい。
「地下室にあった術式に似てるな」
シオンの紺碧の瞳が、同じ物を共有した視線を返してくれる。
「はい」
全く同じ術式ではない。
術式の形も文字も違う。
「考え方が似てる」
魔力を流し続けるのではなく、循環させる。
独立した術式同士を繋ぎ、一つの大きな仕組みとして動かす。
「母は、地下室のことを知っていた……?」
リリーはこの論文を書いた母に思いを巡らせる。
「それはまだ何とも言えないな」
シオンは冷静に答えた。
「そうですね」
リリーは頷きながら、次の論文へ手を伸ばした。
「でも、もし知っていたなら、この論文のここの部分も——」
ここまで話して横から声がした。
「おい」
ロイは並んで座るリリーとシオンの頭を、後ろから鷲掴みにした。
「ちょっと待って。今いいところだから」
リリーが言うとロイは声を強くして言った。
「何がいいところなのか、俺には全然分からない。俺、一応手伝いに来たんですけど」
鷲掴みにした二人の髪をぐしゃぐしゃにする。
「助かってるよ」
シオンは冷静に言った。
「静かに見守ってくれて」
思いっきりシオンの頭をはたくロイ。
「もう俺、帰るぞ」
シオンは笑顔で謝った。
「冗談だ」
ロイはリリーの方に顔を向けて言った。
「お前、何しにこの部屋に来たんだ?」
まだ半分、論文の内容を考えていたリリーは即答した。
「母の研究を——」
「おい、違うだろ」
今度はリリーが軽く小突かれた。
リリーもシオンも押しだまった。
「……指輪」
ポツリとリリーが言う。
「そうだよ」
満足気にロイが頷く。
「忘れてました」
うなだれるリリーを見てロイは呆れ顔で肯定した。
「だろうな」
ロイがため息をつく。
シオンが軽く口角を上げる。
「悪い」
「お前もだぞ、まったく!お前はリリーを止める役だろうが」
ロイはシオンを後ろから羽交締めにする。
リリーは名残惜しく論文を閉じた。
「これは後で読みます」
本来の目的に戻り、本棚を端から確認する。
魔道具に関する本。
魔力抑制についての資料。
母自身の研究ノートらしきものも何冊か見つかった。
三人で手分けして調べたが、指輪そのものについて書かれたものは見つからなかった。
「ないですね……」
今度は机へ移る。
引き出しを一つずつ開けた。
古い筆記具や束ねられた紙。
途中まで書かれた研究ノート。
研究所から届いたらしい書類。
どれも興味深いものではあったが、探している情報ではない。
「これも違う」
リリーは最後の引き出しを閉めた。
「指輪については何もないな」
シオンが言う。
「そうですね」
「そもそも、研究とは関係ないんじゃないか?」
ロイが壁際にもたれながら言った。
「確かに……」
ここまで探しても何の手がかりも見つからないのだ。
リリーも認めざるを得なかった。
部屋の中を見回すと、反対側の壁際で視線が止まった。
「……あそこは?」
午後の光の中に、古い鏡台があった。
母が使っていた鏡台。
掃除のために表面を拭いたことはあったが、引き出しの中まで開けたことはない。
「……見てみます」
リリーは鏡台へ近づいた。
古い木の縁には、細かな傷がいくつか残っている。
鏡に映る自分の顔を見ると、不意に子供の頃の自分の顔と重なった。
鏡の前に、小さな女の子が座っている。
後ろから髪を梳く手。
『動かないで、リリー』
頭の上からそんな声が聞こえた気がした。
リリーは瞬きをする。
鏡には、今の自分しか映っていない。
「どうした?」
シオンが鏡越しにリリーの顔を見た。
「いえ……」
リリーは鏡を見たまま言った。
「ここで、母に髪を結ってもらったことがあったような気がして」
「気がする?」
シオンが繰り返す。
「よく覚えてないんです」
リリーは苦笑した。
後ろで少し黙ってからロイが言った。
「結ってもらってたぞ、お前」
リリーは振り返る。
「そうなの?」
「ああ。マリーさん、お前の髪よく結ってた。お前も鏡の前に座るの好きそうで、色々な髪型にしてもらってたな」
ロイは自分の頬をぽりぽり掻きながら、遠い記憶を思い出すように言った。
「そう……なんだ」
リリーは鏡を見つめる。
やはり母の顔は浮かばない。
ただ、髪を梳かれる感触だけが、どこか遠いところに残っているような気がした。
「ロイの方が覚えてるね」
母のこと、昔の思い出、自分には何かが欠けている気がする。
「お前はまだ、ちっちゃかったからな」
大したことないと言ったふうにロイが言った。
「大して年の差ないのにね」
リリーが不服そうに言うとロイが否定した。
「四歳差は結構あるぞ?子供なら尚更だ」
ロイは優しいなと思いながら少しの寂しさを心の隅に追いやり、リリーは鏡台の引き出しを開けた。
櫛や髪飾りに混じって、奥に小さな箱が収まっている。
取り出してみると、深みのある赤色をしたアクセサリーボックスだった。
木製の蓋には細かな彫刻が施され、長い年月を経たせいか、ところどころ艶が薄れている。
リリーはそれを鏡台の上に置き、そっと蓋を開けると、中にはいくつかの装飾品が、静かに収まっていた。
細い金の鎖のネックレス。
細かい細工の髪飾り。
小さな瑠璃色の石のついた耳飾り。
リリーは耳飾りを手に取った。
どこかで見たことがあるような気がする。
その瞬間、また急に思考が飛んだ。
『これ、つけたい』
今より少し高い自分の声がした。
鏡の前で、母のアクセサリーを触っている小さな手。
『リリーには、まだ早いわ』
頭の上からまた穏やかな声がする。
『ちょっとだけ』
そこで思考は途絶えた。
リリーは耳飾りを掌に載せたまま、しばらく見つめた。
「……これ、お母さんがつけてた?」
ロイが覗き込む。
「どうだったかな。見たことはある気がするけど」
「そう」
リリーは耳飾りを元の場所へ戻した。
箱の中をさらに探す。
アクセサリーボックスは二段仕様になっており、下の段は引き出しになっていた。リリーが下の段の引き出しを引くと、そこは一面クッション状の仕切りで埋まったリングケースだった。
「あ……」
リングケースの溝には、たった一つ、金色の指輪が差し込まれていた。
リリーは指を伸ばして金色の指輪を取り出した。
指輪を左手で持ち、自分の右手と並べてかざしてみる。
リリーの指輪と、よく似ている。
全く同じではなさそうだが、表に細く刻まれた模様は似ていた。
リリーは指先にごくわずかな魔力を集める。
「おい待て。また何かする気か?」
ロイが慌てて止めた。
「少し見るだけ」
ロイに答えながら、ほんの少しだけ魔力を流した。
金の表面に、淡い光が走った。
「……」
三人とも黙ってじっと指輪を見る。
地下で見たものと同じ、青白く発光する術式が見えた。
「……同じ術式みたい」
慎重にリリーが言った。
「じゃあ、それがあれば」
言いかけたロイを、リリーが制した。
「まだ確定ではないわ。実際に同じ効果があるかは試してみないと」
「はいはい」
呆れたように言うロイを横目に、リリーは二つの指輪を見比べた。この指輪にも自分の指輪と同じ効果があれば、今度こそシオンが外に出れるかもしれない。そう思ったところで、リリーははっとした。
「……でも」
リリーはたった今浮かんだ疑問を消せずにいた。
「どうした?」
シオンが聞く。
リリーは掌の指輪を見つめた。
「どうして、お母さんの指輪はここにあるんだろう」
リリーがシオンの顔を見て言うと、しばらく考えていたシオンもはっとした顔をした。
「どういう意味だよ」
ロイが怪訝な顔をして聞く。
「お母さんは、私にはこれを必ず身につけているように言っていたのに。魔力を抑えるためのものだからって」
リリーは続けた。
「お母さんの魔力もすごく高かった。この指輪が同じものなら、ずっと身につける必要があったはず……」
昨日、指輪を外したときの感覚を思い出す。
少し気を抜くだけで溢れそうになる魔力。
自分のものなのに、自分のものではないように感じた力。
——お母さんはなぜ、外したのだろう。
「亡くなった後に誰かが戻したとか……?」
ロイが答えたが、それならリリーに直接渡すか、戻した場所を伝えるはずだ。
こんな鏡台の奥のアクセサリーボックスに入れるのは、本人以外考えにくい。
答える者はいなかった。
母の顔は思い出せないのに、髪を梳く手と、鏡の前で聞いた声だけが、さっきから妙に近く感じられた。
リリーは掌の指輪を握った。
シオンをこの家の外へ出せるかもしれないもの。
そして同時に母が、なぜかここに残していったもの。
——私、お母さんのこと、何も知らないんだ。




