第21話 ミートパイ
「そうだ」
ロイが突然声を上げた。
「何?」
リリーは顔を上げた。
「ばあちゃんから預かってたんだ。あぶねえ、渡すのすっかり忘れてた」
ロイが机の上の鞄を引き寄せる。中から出てきたのは、大きな布包みだった。
「マーサさんから?」
リリーは首を傾げた。
「昼飯にしろって。どうせリリーは何も用意してないだろうってさ」
「……そんなことは」
リリーが言いかける。
「図星だな」
一瞬黙ったリリーを見て、シオンが笑う。
「今から考えるところでした」
苦し紛れにリリーが言うと、ロイも呆れた様子で笑った。
「それを何も用意してないって言うんだよ」
ロイが布をほどく。途端に、見覚えのある焼き色が目に入った。
「あ」
思わず声が出た。こんがりきつね色に焼けたホールのパイ。
生地の端から、肉と玉ねぎの具が少しはみ出している。
「ミートパイだ!」
リリーは目を輝かせた。
「お前、これ好きだろ」
ロイがリリーを見て満足そうに言った。
「うん、大好き」
即答すると、ロイが笑った。
「ばあちゃんもそう言ってた」
子供の頃から、マーサはよくこれを作ってくれた。リリーと一緒に暮らしていた頃も、そしてマーサが自分の家へ戻ってからも、ことあるごとに焼いてくれたマーサのミートパイ。焼きたてを待ちきれずに手を伸ばして、熱いから待ちなさいと何度言われたことか。
「あと、スープもある」
ロイが今度は蓋のついた容器を取り出した。
「それから林檎な」
「……完璧すぎる。さすがマーサさん」
リリーは思わず胸の前で手を合わせた。
「温めてくるわ」
台所でスープを鍋に移そうと蓋を開けると、豆と根菜の匂いが立った。スープを火にかけている間に、ミートパイもフライパンでじっくり温め直す。少しすると、香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
「いい匂いだな」
シオンが覗き込む。
「マーサさんのミートパイ、美味しいですよ」
リリーは思わず笑顔で言った。
「お前がそこまで言うなら期待できそうだな」
シオンもパイを見ながら笑った。
「お前、自分が好きな食い物の話あんまりしないだろ」
そうだっただろうか。
「シオンが好きな食べ物は肉でしたよね」
庭での会話を思い出す。肉がたっぷり入ったマーサのミートパイなら、シオンもきっと気に入る。
「ああ、よく覚えてたな」
シオンは少し驚いたような顔をしてから言った。
「お前の好物も覚えておくよ」
温め直した食事を並べ、りんごは皮を剥いてお皿に盛り付けた。催促するルウの前にもお皿を置いて三人で食卓につくと、ミートパイにナイフを入れた。薄い生地がさくりと割れ、中にはひき肉と細かく刻んだ玉ねぎがぎっしり詰まっていた。
「マーサさん、いただきます」
リリーは感謝しながら一口食べた。瞬間、生地のバターと肉汁や玉ねぎの旨みが口の中いっぱいに広がる。
「……おいしい」
昔と同じ味だった。少し濃いめの肉の味と、よく炒めた玉ねぎの甘さ。生地の端はさくさくしていて、中は肉汁を吸って少し柔らかい。
「うまいな」
シオンはすでに二口目を食べている。
「だろ?」
なぜかロイが得意そうに言った。
豆と根菜のスープを飲むと身体が温まった。午前中ずっと外にいて、思っていた以上に身体が冷えていたらしい。飲み込むたびに、緊張した身体からようやく力が抜けていくような気がした。さっきまで訓練場で実験していたことが、遠く感じる。
リリーはもう一口、ミートパイを食べた。ふと、マーサの顔が浮かんだ。
「おやおや、リリー、またいじめられたのかい」
マーサのふっくらとした体に包まれた感覚。
「そんな奴らは放っておいで。リリーは何も悪くないよ」
頭の後ろを優しい手がずっと撫でてくれている。
「さ、ミートパイをお食べ。力が出るよ」
急に昔のことを思い出した。何度、マーサの腕の中で泣いただろう。
そう言えば最近、マーサの顔を見ていなかった。そう遠くに住んでいるわけではないのに、仕事を言い訳に、つい用事がある時にしか顔を出さなくなる。
「……ロイ」
美味しそうにパイを頬張るロイに声をかけた。
「ん?」
ロイは顔を上げた。口の端にパイが付いている。
「この器、今日返しに行ってもいい?」
「いや。今度でいいだろ。急ぐもんでもないし」
ロイは軽く答える。
「久しぶりにミートパイ食べたら、マーサさんの顔が見たくなっちゃった」
リリーの一言にロイはふっと笑う。
「お前から行くって言うの、珍しいしな。ばあちゃんも喜ぶよ。じゃあ一緒に行くか」
「ロイも?」
「元々俺が持ってきたんだからな。それに、リリーを連れて行って手柄を立てるチャンスだ」
リリーは頷いた。
「じゃあ、食べ終わったら行こう」
リリーはふとシオンを見た。
「俺は留守番してるよ」
「すみません」
シオンも行けたらよかったのに、という言葉は飲み込んだ。
「なんで謝るんだよ」
そう言って、シオンは残っていたミートパイを一口食べた。
「これ食えただけでも得した気分だ」
「でしょう?」
リリーは自分が作ったわけでもないのに、少し嬉しくなった。
食事を終える頃には、鍋のスープもほとんどなくなっていた。
リリーは空になった器を洗いながら、もう一度マーサの顔を思い浮かべた。
会えばきっと、仕事はどうだ、ちゃんと寝ているのか、食事はしているのかと、いつものように聞かれるのだろう。
そんなマーサとの会話も含めて楽しみだった。
*
マーサの家は、リリーの家から歩いて十五分ほどのところにある。小さな二階建ての家の玄関脇には季節の花が植えられ、窓辺には白い布のカーテンがかかっていた。
ロイが扉を叩くと、ほどなくして中から足音がした。
「はいはい、どちら様?」
扉が開き、中から現れたのは、リリーより頭一つほど背の低い、ふっくらとした女性だった。
「あら」
マーサの目が丸くなった。
「リリーかい」
「こんにちは、マーサさん」
変わらないマーサに、リリーは笑顔で挨拶した。
「まあまあ、どうしたの、急に。久しぶりじゃないか」
途端に顔をほころばせて、リリーの手を取る。
「ちゃんと食べてる?少し痩せたんじゃない?」
予想通りのマーサの言葉にリリーは少し苦笑した。
「食べてるよ。ミートパイもありがとう。本当に美味しかった」
マーサは嬉しそうに頷いた。
「それはよかった。あんた、昔から好きだったものねえ」
その後ろから、ロイが空になった器を差し出す。
「ばあちゃん。俺もいるんだけど」
マーサはロイを認めると急に声色を変えた。
「おやおや、今朝は早くしろとか何とか言って、散々ぶつくさ言いながら持っていったのに、ちゃんと器を返しにくるとは殊勝な心がけじゃないか」
マーサのロイへの視線は冷ややかだ。
「扱い違わない?」
呆れた様子でロイが言う。
「当たり前だよ」
即答だった。
ロイが何か言いたそうな顔をしたが、マーサはもうリリーの腕を引いている。
「ほら、入りなさい。お茶くらい飲んでいくんだろ?」
「はい、お邪魔します」
リリーはマーサに手を引かれて家の中に入った。ロイはマーサに言われる前にそそくさとリリーの後に付いて入り、慣れた様子で扉を閉めた。
居間も、昔とほとんど変わっていなかった。少し低いテーブルに、使い込まれた椅子。棚の上には小さな花瓶が置かれている。リリーは勧められるまま椅子に座った。
「待ってなさい。今お茶を淹れるから」
台所に行こうとするマーサにリリーは声をかける。
「私も一緒にやるわ」
するとマーサは手を振って断った。
「いいのよ。たまに来た時くらい座ってなさい」
マーサが台所へ向かう。ロイも椅子を引いて座ろうとした。
「ロイ、あんたはさっさとお菓子と茶器の準備をするのよ。気が利かないね」
目を上に向けたロイは諦めたように返事をした。
「はーい」
リリーは少し笑った。
ほどなくして、湯気の立つお茶と、小さな焼き菓子までテーブルに並んだ。
「それで?今日はどうしたの。器を返すだけならロイに持たせればよかっただろうに」
「うん」
リリーはカップを両手で持った。
「ミートパイ食べたら、マーサさんに会いたくなって」
一瞬マーサが黙り、それから、目尻の皺を深くした。
「……そうかい。なら、いつでも来なさい。用なんてなくていいんだから」
その言葉に、リリーは少しだけ目を伏せた。
「仕事はどう? 忙しいの?またろくに休んでないんじゃないだろうね」
マーサはいつもリリーの身体を気遣ってくれる。
「今日は休みだよ」
リリーがそう答えたそばからロイが余計な一言を言った。
「こいつ、朝から魔法で地面に穴開けたんだぜ」
慌てたリリーは、飲んでいた紅茶で盛大にむせてしまった。
「ロイ」
「何だよ。本当だろ」
ロイはからかい半分といった様子だ。
「地面に穴?」
マーサが怪訝そうな顔をする。
「何してたんだい」
リリーは何とかむせ込みを落ち着かせて説明した。
「ちょっと実験してたの。この指輪の機能について」
リリーは右手を上げた。金の指輪が、窓から入る光を小さく返す。
「これを外して実験していたら、自分の魔力が上手く制御できなくて……いつも通りに放った魔法が、想像以上の威力だったってわけ」
地面を抉るつもりなど毛頭なかったのだ。
「ああ、そりゃそうだろうね」
マーサは頷いた。
「だってあんた、マリーの娘じゃないか」
当然という顔をしてマーサはリリーを見る。
「お母さん?」
リリーが聞き返す。
「魔力の強さはお母さん譲りだろう?」
リリーは思わずロイを見た。ロイも少し驚いた顔をしている。
「……お母さんも、そんなに魔力が強かったの?」
「ああ、とんでもなく強かったって聞いてるよ」
マーサは当たり前のことのように答えた。
「私には魔法のことなんて詳しく分からないけどね。あの子も昔から魔力がとても強かった事だけは知ってる。だから、あんたが小さい頃に随分強い魔力を持ってるって聞いた時も、やっぱり親子だねえって思ったものさ」
知らなかった。母が魔法を使えたことは知っていたが、その魔力がどれほどのものだったのか、自分と似ていたのか、そんなことは考えたこともなかった。
「じゃあ、お母さんも魔力を抑えてたのかな」
リリーは自分と似た母を想像する。
「さあ、そこまでは知らないよ」
マーサは首を傾げた。
「でも、その指輪はお母さんとお揃いのやつだろ?」
「…………え?」
今度は、リリーもロイも同時にマーサを見た。
「お揃い?」
リリーが繰り返す。
「違うのかい?」
マーサの方が不思議そうだった。
「マリーもよく似た指輪をしてたよ。うん、いつも指にはめていたね」
リリーは自分の右手を見た。金の指輪。幼い頃から、当たり前のように身につけていたもの。
「……知らなかった」
リリーがつぶやいた。母が指輪をしていた姿を思い出そうとするが、何も浮かばなかった。指輪どころか、母の手すら、はっきりとは思い出せない。
「俺も覚えてないな」
ロイが言った。
「まあ、あんた達は子供だったからね。人の指輪なんていちいち見ちゃいなかっただろ」
マーサはお茶を一口飲んだ。
「金色の、飾りの少ない指輪だったよ。今リリーがしてるのと、よく似てた」
リリーは指輪を指先でなぞった。
「マーサさん、お母さんの指輪について、何か知らない?どこで手に入れたとか、どういう魔道具だったとか」
何か少しでも指輪に関する情報が欲しかった。
「さあねえ。そこまでは聞いたことないよ」
やはり、マーサも知らない。
「マリーの部屋には何か残ってなかったかい?」
マーサは少し考えるように目を細めた。
「あの部屋の中の本や書き物は、ほとんどそのままだよ。大きなものは片づけたけど、私には何が大事なものなのか分からなかったからね」
リリーははっとして顔を上げた。母の部屋。掃除のために入るくらいで、中の物を詳しく見ることはしなかった。
——何か、手掛かりがあるかもしれない。
「……帰ったら、探してみるわ」
マーサは静かに頷いた。
「そうするといいよ」
マーサのお茶も茶菓子もとても美味しかった。時間はあっという間に過ぎ、リリーはお礼を言って席を立つ。玄関先まで送ってくれたマーサは、少し目が潤んでいた。
思わずリリーはマーサの肩に両腕を回し、マーサを軽く抱きしめた。
「また顔出すね」
リリーの鼻の奥も少し痛かった。マーサの身体は温かく柔らかで、リリーの記憶より一回り小さく感じた。
*
「ただいま」
「おかえり」
リリーとロイが帰宅すると、居間から声が返ってきた。見るとシオンはテーブルに本を何冊も広げていた。どれも見覚えのある表紙で、資料室から借りてきた結界術や呪術に関する本だった。
「何してたんですか?」
リリーは早速本の数々を確認する。
「もう一回読んでた」
シオンは開いていた本を少し持ち上げる。
「最初に読んだ時より、分かるようになってる。ここに来てから、結界術と呪術にはずいぶん詳しくなったな」
読んでいた本をテーブルの上に置いたシオンが言った。
「それは私もです」
するとルウがやってきてすかさず報告した。
『こいつ、本ばっかり読んでたわけじゃないぞ』
シオンが嫌そうな顔をする。
『また外で剣振ってた』
「……鍛錬してたんですか?」
リリーは呆れた声で聞いた。
「少しだけだ」
「シオン、今朝も鍛錬してましたよね?」
「もう元気だって」
シオンは大したことないというふうに手を振った。
「だったら今度、俺が相手してやろうか」
ロイが面白そうに言った。
「一人で剣振ってるよりいいだろ」
シオンが顔を上げる。
「いいのか?」
シオンは明らかに嬉しそうな顔をした。
「その代わり、本気でやらないと怪我するぜ」
ロイが口角を上げた。
「それはこっちの台詞だ」
リリーは二人を見比べた。
「家は壊さないでね」
「家の中ではやらねえよ」
ロイとシオンの声が重なった。
「……そうだ。シオン」
リリーはマーサから聞いたことを思い出す。
「ん?」
「この指輪。母も、よく似たものを持っていたそうです」
シオンの表情が少し変わり、その視線がリリーの右手へ落ちる。
「同じものなのか?」
「分かりません。でも——」
リリーは自分の指輪を指先でなぞった。
「母も魔力がかなり強かったそうです。私の魔力が強いのは、母譲りだろうって」
「じゃあ、同じように魔力を抑えるために指輪をつけていた可能性はあるな」
シオンが考えながら言う。
「私もそう思います」
もちろん、まだ推測にすぎない。
同じ形に見えるだけの、まったく別の魔道具だった可能性もある。
「母の部屋に、何か残ってるかもしれません」
リリーはシオンの顔を見て言う。
「何か?」
「例えば、指輪について書かれた本やノートです。魔道具の資料とか、研究記録とか。母がどこで手に入れたのか分かるものでもいい」
リリーはテーブルの本を見る。
確か母の部屋の本棚にもいくつか本があった。
「同じものを手に入れる手掛かりが、見つかるかもしれない」
そんなに上手くいくだろうか。
でも可能性があることならやってみたい。
「……なるほどな」
ロイが腕を組む。
「マリーさんの部屋、まだ残ってるんだよな?」
ロイが階段を顔で示しながら言う。
「うん」
「入ったことは?」
「あるよ。でも掃除するくらいで、中の物は見たり調べたりしたことはないから」
母のものを調べようと思ったことはなかった。
「見てみるか」
ロイが言った。リリーは頷いた。
「うん」
シオンが立ち上がる。
「俺も行っていいか?」
「もちろんです」
リリーは階段へ足を向けた。




