第20話 指輪
翌朝は休日だった。
リリーはいつにも増してぐっすり眠っていたようで、起きると窓の外はいつもより明るかった。居間に降りるとシオンが朝食を並べているところだった。
「おはよう。やっと起きたな」
「おはようございます。シオン、病み上がりなのに朝食は……」
リリーはまだ働かない頭を動かして、寝ぼけた顔でシオンに言った。
「もう病み上がりじゃない。これ以上寝坊するなら起こしに行こうかと思ったくらいだ」
シオンはやれやれと言った具合でお皿を並べている。
『俺のも忘れるなよ』
ルウのいつもの鳴き声を聞いて、シオンは無言でルウの前に皿を置く。
『こいつ、すげー早起きだったぞ。起きてから風呂入ったり、鍛錬したり、色々してたんだぜ』
ルウが報告する。
「シオン……いくら元気になったからといって、朝から飛ばし過ぎないでください」
リリーが呆れて言うとシオンはルウを見た。
「またこいつ何か言ったのか。大丈夫だ、ここ数日寝過ぎて体がなまってるんだ」
シオンは反対の肩に手を当て、腕をぐるぐる回して言った。
「熱は……」
リリーが手をシオンの額に向けると、シオンがリリーの手首を掴んだ。
「流石にもういいだろ」
「…………」
いきなり手首を掴まれて驚いたリリーは、そのままの姿勢で固まった。
「嫌……でしたか」
リリーが尋ねると、シオンは目を逸らした。
「そういうことじゃない。もう元気だし大丈夫だ」
リリーは瞬きを数回して、少し考えてから言った。
「それならよかったです。なんだか頭がまだ寝ぼけていて。コーヒー淹れますけどシオンもどうですか?」
リリーの手首を離してシオンは短く言った。
「ああ、俺の分も頼む」
それから二人でゆっくり朝食を食べた。
こんなにゆっくりとした朝はいつぶりだろうとリリーは考えた。
昨日、この家の地下室に行った事が嘘のようだ。
コーヒーを飲んでようやく覚めてきた頭で、昨日のことを思い出していると、玄関のドアがノックされた。リリーとシオンは目を合わせたが、二人とも誰が来たか、もうわかっていた。
「よう」
リリーが扉を開けると、ロイは片手を上げて玄関の前に立っていた。
「お前ら、朝から地下に潜ろうなんて考えてないだろうな」
「考えてないから」
リリーはロイに呆れた視線を向けた。
「本当か? お、コーヒーのいい匂いがするな。俺にも淹れてくれよ」
ロイは当然のように居間のソファに座って言った。
「で? 今日はそれを試すんだろ?」
ロイにコーヒーを出すと、リリーの右手を見てロイが言った。
右手の薬指には、いつもの金色の指輪があった。
「もちろん、そのつもり」
昨夜、地下で見つけた術式と同じものが刻まれていた指輪。これが家の結界と同じように、外部からの魔力的な干渉を遮断するものなら、シオンは家の外でも魔力を奪われずに済むかもしれない。
「ただ、ここで試すのはやめた方がいいな」
ロイが言った。
「どうして?」
リリーは家の前で試すことしか考えてなかった。
「お前のことだから、魔法を使ったり色々実験するんだろ。家の前で三人並んで魔法使ったら目立ちすぎる」
言われてみればその通りだった。
「じゃあ、どこならいいんだろう?」
リリーは考えたが思いつかない。
「この近くに騎士団の旧訓練場がある。昔はよく使われていたけど、今は新しい訓練場ができたからな、こちらはほとんど人が来ない」
ロイがコーヒーを飲みながら答える。
「そんな場所が近くにあるなんて知らなかった。でも私達が入っていいの?」
リリーが聞く。
「俺がいればな」
騎士というのは、こういう時に便利らしい。
「ロイ、すごい!たまには気が利くのね」
リリーが目を輝かせて言うと、
「お前なあ」
ロイは呆れ顔だが嬉しそうでもある。
「まあここから十分もかからない。何かあってもすぐに家へ戻れるし、最高だろ?」
リリーは頷いた。
「行きましょう」
「待て」
ロイが慌てて止めた。
「お前、今すぐ行くつもりか?せめて何を試すか決めてから行け。それにコーヒーくらい飲ませろ」
リリーは少し考えた。
「まず、指輪を身につけた状態でシオンが家の外へ出られるか。それから、家から離れても効果が持続するか。指輪をつけてどのくらい魔法が使えるか、出力に変化があるか。それと魔法をどのくらい防ぐのか。あとは——」
指を折りながら確認していくリリーをロイは呆れて止めた。
「分かった。もういい」
シオンが小さく笑っている。
「何ですか」
「いや。目が覚めたようでよかった」
*
家を出る直前、リリーは指輪を外した。
何年もそこにあったものがなくなると、右手だけが妙に軽い。
「シオン、これを」
シオンに指輪を渡す。
シオンは受け取った指輪を指先でつまみ、自分の手と見比べた。
「入らないな」
「……ですよね」
リリーよりずっと手が大きい。
「取りあえずこれに付けてみるか」
シオンは服の中から首につけていた細い鎖を出し、それを器用に外した。そして、指輪を通してまた首に着ける。
「それは?」
リリーは尋ねた。
そう言えば、シオンはずっとその鎖を身につけていた。装飾品とは思えなかったが、記憶の中のシオンはいつも首元からその鎖を覗かせていた。
「師匠の形見みたいなものだな」
シオンが指輪をつけた鎖を服の下へ入れる。
「そうですか」
リリーはそれ以上は聞かなかった。指に嵌めなくても指輪の効果が出るかはわからないが、これ以外の方法は思いつかない。
「少しずつ行きましょう」
リリーは玄関の扉を開けて外へ出る。家の結界は、玄関と背の低い石積みの門扉の間で切れる。境界ギリギリのところで足をとめた。
「ここで結界が切れます。最初は一歩ずつ行きましょう」
リリーがシオンを促すと、シオンは頷いて一歩足を踏み出す。
「…………」
リリーとロイがじっとシオンを見守る。
何も起きない。
シオンが二歩、三歩と進む。
「どうですか?」
シオンはしばらく黙っていた。
自分の内側を探るように目を伏せ、それから顔を上げる。
「……大丈夫そうだ」
「本当に?」
リリーの胸が高鳴った。
「……ッ?」
その瞬間、ぞくりと悪寒が走り、思わず胸を押さえた。
「どうした、大丈夫か?」
異変に気づいたシオンがリリーの顔を覗き込んでいる。
「えぇ……大丈夫、何ともありません。先に進みましょう」
悪寒は一瞬だった。
リリーは自分の気持ちを落ち着かせるように言った。
「じゃあ行くか。こっちだ」
ロイが先導し、二人は後に続いた。
角を一つ曲がりさらに通りを進む。
「どうですか?」
リリーは常にシオンの顔色を伺いながら隣を歩いた。先程の悪寒はすぐに収まったが、何だかそわそわと落ち着かない。自分の魔力に違和感がある。それを忘れるためにもリリーはシオンの観察に集中した。
「大丈夫だ」
リリーにずっと観察されて、シオンは少し歩きづらそうだったが、文句は言わなかった。
古い訓練場は、本当に近かった。高い石壁に囲まれ、大きな鉄製の門扉がしっかり閉ざされていたが、ロイが門の鍵に魔力を流すと門が開いた。広い敷地の地面は固く踏み締められ、ところどころ雑草が伸びていた。奥の方にはいくつかの訓練用の的が立っている。
「今日は誰も使う予定はないから、好きにしていいぞ。壊さない程度にな」
敷地を見回すとロイが言った。
「こんな広い場所だったのね……」
——ここなら思う存分、色々試せそう。
リリーはもう次にやることを考えていた。
「今のは特にお前に言ったからな、リリー」
ロイはリリーに念を押したが、リリーには聞こえていなかった。
家からは随分離れているが、シオンは平然としていた。
「魔力は大丈夫そうですか?」
「ああ、ほとんど減ってない」
「すごい……」
思わず声が漏れた。
あの指輪は、家の結界と同じ働きをしている。
完全に同じではないとしても、少なくともシオンから魔力を奪う作用を遮断しているのだ。
——これならシオンは、家の外へ出られる。
「リリー」
呼ばれて顔を上げる。
「さっきからお前こそ変じゃないか?」
シオンが怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。
「いえ、大したことはないんです。ただ、自分の魔力が落ち着かないと言うか、ちょっと不安定な感じがするだけで……」
少し気を抜けば、自分でも制御できなくなるのではないか。
そんな底知れぬ不安が、頭の隅をかすめる。
——でも今は、指輪の実験をちゃんとやり遂げたい。
その気持ちが、不安な気持ちに蓋をした。
「では指輪の実験を始めましょう」
リリーはシオンに笑顔で言った。
まずはシオン自身の魔法を試すことにした。訓練場の奥に置かれた石の標的へ向け、シオンが手を上げる。小さな光が集まり、一直線に飛んだ。石の表面で弾ける。
「……弱いな」
シオンは自分の手を見ていた。
「思った以上に魔力が抑えられている」
シオンは何度か魔法を繰り返したが、結果は同じだった。
魔法は発動するが、明らかに出力が低い。
「この指輪は、外部からの魔力の干渉を防ぐ一方で、身につけた人自身の魔力も抑えるということですね」
「お前がずっとつけていたのも、そのためなんだろ?」
ロイに言われ、頷く。
「母にそう言われたと思う。でも、はっきりした記憶があるわけじゃないから……」
「外からの魔法に対してはどうなんだ?」
シオンが尋ねた。
「試してみましょう」
リリーは続けた。
「私が攻撃します」
「待て」
ロイがすぐに止めた。
「ちゃんと加減しろよ、わかってるな」
「もちろん」
そう言いながらもリリーは少し緊張した。
シオンは少し離れた場所に立つ。
「いいぞ」
「では、いきます」
狙いを定める。
必要なのは、指輪の結界が反応するか確認できる程度の強さ。
いつもと同じように、魔力を絞り、放つ。
「——っ!」
轟音が響いた。
放たれた魔法が地面を抉りながら大きな渦となってシオンへ向かう。次の瞬間、シオンの胸元で強い光が弾けた。衝撃が訓練場全体に広がり、土煙が舞い上がる。
しばらくは土煙で何も見えず、静寂が辺りを包んだ。
徐々に土煙が薄れ、ようやく煙の向こうから姿を現したシオンは、無傷だったが目を大きく見開いている。
「……」
「……」
「おま……」
最初に口を開いたのはロイだった。
「加減しろって言っただろ!」
「したつもり……だったんだけど」
リリー自身が一番驚いていた。
もっとずっと小さな魔法を放つつもりだった。
シオンが抉れた地面を見てから、リリーを見る。
「俺じゃなかったら、やばかったな……危うく防御結界を張るところだった」
「だから、そんなつもりじゃ……」
言いながら、自分の右手を見る。
薬指には何もない。
「指輪がないから……?」
いつもと同じように魔力を放ったつもりだった。
でもその「いつも」には、必ず指輪があった。物心ついた頃からずっと。
「私……こんな魔法使えたの?」
自分の手なのに、知らないものを見ているような気がした。
ロイが呆れた顔をする。
「お前、自分のことなのに本当に知らなかったのかよ」
「外したことがほとんどないの」
「なるほどな」
シオンが胸元の指輪に触れた。
「俺の魔法が弱くなったのも同じ理由か」
「たぶん」
それだけではない。
「これだけの魔法を受けて無傷なんだ。この指輪、魔法に対する防御力はかなり高いな」
抉れた地面を見て、シオンが落ち着いた声音で言った。
「つまり、防御力は上がるが、攻撃力は落ちるってことか」
「そうなりますね」
では、魔法の種類や距離によって変わるのか、耐久時間はどうか、疑問は次々浮かぶ。
「次は——」
リリーが言いかけたのと同時に、ロイが突然、腕を上げた。
——バンッ!!
ほとんど同時に、乾いた音がした。
ロイの拳を、シオンが片手で受け止めている。
「……何のつもりだ?」
シオンはロイを睨んだ。
「やるな」
ロイは口角を上げた。
「え?」
リリーは目を丸くしている。
「必要な実験だろ? 物理攻撃に対する防御力の確認だ」
シオンがロイの拳を押し返す。
「先に言え」
「不意打ちの状況下の方がいいかと思ったんだ」
ロイは飄々としている。
「確かに……」
リリーははっとした。
「指輪……、今、全く反応しなかった。物理的な攻撃には、結界が発動しないのかもしれません」
ロイが満足そうに頷いた。
「ほら。必要な実験だっただろ」
「本当、お前ら二人を相手に気を抜くと大怪我しそうだ」
シオンは呆れ顔で言った。
「それならもう一回、違う種類の魔法を——」
リリーの言葉をロイが遮った。
「もうやめとけ」
「でも」
せっかくの機会なのだから、できるだけ確認したい。
「お前、今度は何を撃つつもりだよ。そもそもこの抉れた地面、報告書ものだぞ」
ロイは小さくため息をついた。
「あ、ごめん……」
リリーは初めて周囲を見渡した。
訓練場の地面はシオンが立っていた場所めがけて大きく抉れており、背後の訓練用の標的も薙ぎ倒されていた。
「リリー」
シオンの声音が少し変わった。
「何ですか」
「お前、本当に大丈夫か?」
心配そうな目がこちらに向けられている。
「魔力、漏れてるぞ」
リリーはハッとした。
言われて初めて、自分の周囲に薄く魔力が滲んでいることに気づいた。
意識すれば抑えられるが、気を抜くとすぐに広がろうとする。
「もう十分だろ、一度帰ろう」
シオンに言い切られて、リリーは黙った。
「はい」
帰り道、シオンは何度もリリーを見た。
反対側ではロイが笑っている。
「何?」
リリーはロイを横目で見た。
「いや。お前ら、行きと逆だなと思って」
*
家の中へ足を踏み入れると、リリーはホッとした自分に気づいた。
「ほら」
シオンはすぐに首から鎖を外し、指輪を差し出す。
リリーは受け取り、右手の薬指にはめる。
途端に、自分の中で広がりかけていた魔力が、すっと収まった。
リリーは安堵のため息をついた。
「……やっぱり、お前にはこれが必要だな」
シオンが言った。
リリーは指輪を見つめた。
「そうみたいです」
リリーは、緊張が解けて妙に重い身体をソファに預け、少しずつ思い返した。
「大丈夫か」
シオンが果実水を入れたコップを渡してくれる。
ほのかに柑橘の風味がする冷たい水が身体に沁みた。
「この指輪をこんなに長い間外したのは初めてで……。今思うと指輪を外している間は、本当に落ち着きませんでした。中身が溢れそうなコップを恐る恐る運んでいるような、割れる寸前の風船を慎重に持ち歩いているような、そんな怖さがあるというか……」
この指輪があれば、シオンは外へ出ることができる。
でも、この指輪をシオンに渡すことはできない。
「もう一つあればいいんだけどな」
ロイが何気なく言った。
——もう一つ
その言葉が、なぜか引っかかった。




