第19話 病み上がり
——なぜこの指輪が?
薬指にはめた指輪には、今も青白く輝く術式が浮かび上がっている。
しばらくその光を見つめていたリリーは、見守る二人に向き直った。
「これは、母からもらった指輪なんです」
「マリーさんから?」
ロイから母の名を聞いたのは久しぶりだ。
「そう、私の魔力を抑えて安定させるためのものだと聞いていたのだけど……」
リリーは指輪の術式から目が離せない。
「少し試してみるわ」
リリーは部屋の中央の結界に近づいて膝をつき、指輪と同じ術式のある部位に右手をそっと置いた。それからゆっくり魔力を流してみる。
「…………」
ロイとシオンはリリーをじっと見守っている。
「何も起きないみたい」
しばらく魔力を流しても何も起きないことを確認すると、リリーは立ち上がり、部屋をぐるりと見回した。
「地下の部屋はここで終わりのようだし……」
いつまでもここにいるわけにもいかない。
今は落ち着いて整理したい情報がたくさんある。
「そろそろ一旦戻りましょう」
*
地下室から戻り、重い石造りの扉を閉めた途端に、家の中の音が戻ってきたような気がした。
窓の外を渡る風の音。
どこかで鳴る木の葉音。
そして自分たちの足音。
普段の静かな夜だが、あの地下深くにあった静けさを知ったあとでは、妙に耳についた。
『どこ行ってた』
足元から声がした。
見下ろすと、いつの間にかルウが座っている。
金色の目が、リリー、ロイ、シオンを順番に見た。
「あ、ルウ。私達、地下室に行ってたの。この家の地下に部屋があるなんて、ルウは知ってた?」
ルウの耳がぴくりと動いた。
『……あの部屋に行ったのか?』
リリーは足を止めた。
「知ってたの?」
『知らん、あそこは嫌いだ。静かすぎる』
ルウは、尻尾を一度床に打ちつけた。
「ルウ、あそこがどういう場所か分かる?」
リリーの質問は無視して、ルウはさっさと窓辺の方へ行ってしまった。
「まったく、気まぐれなんだから」
リリーが呆れて言うと、シオンが肩をすくめて言った。
「とりあえず、俺たちも座らないか。今までのこと、整理した方がいいだろう」
三人でテーブルを囲み、リリーは紙とペンを持ってきた。
地下で分かったことは多い。
いや、正確には……
「分からないことが増えましたね」
何から始めようか、とリリーが思案していると、シオンが三人分のコップと果実水の入った水差しを持ってきた。
「おい、リリー。シオンの方が気が効くぞ」
「え? あ、シオン、ありがとうございます」
リリーは慌ててシオンを見る。
「気にするな」
シオンは何気なく言うが、ロイは横目で、
「……少しは気にした方がいいぞ」
と言ってくる。
「話を戻します」
リリーは軽く咳払いをして、紙に視線を落とした。
まず、地下への階段の壁に刻まれた古い術式、異常なほど良好な状態で残されていた書斎、さらに最奥の部屋にある床一面の巨大な術式。
「あれは結界……だと思うんですけど」
「まだ分からないのか?」
ロイが聞く。
「私が知っている結界術とは構造が違いすぎるの。術式の一つ一つが独立しているように見えるのに、全体として繋がっている。それに——」
リリーが少し考えるように言葉を切った。
「魔力が循環してる、だったか」
シオンが言った。
「そう。外から供給され続けているようには、見えませんでした」
魔法陣や術式だけでは、魔法は発動しない。
人間か、あらかじめ魔力を込めた魔石からの供給が必要になる。
リリーは紙に疑問点をまとめていく。
——魔力源は?魔力の循環?
そして……外部からの魔力がない。
その下に線を引く。
「あの場所では、外からの魔力が全く感じられなかった」
リリーが確かめるように言う。
「それは俺も分かった」
シオンが自分の掌を見る。
「この家の中にいる時も、外にいる時みたいに魔力が引かれる感じはしない。でも、あそこはさらに違った。本当に静かすぎるくらい静かだった」
シオンが思い出しながら言葉を重ねる。
リリーは紙に情報を記していく。
「あと、指輪の件ですが……」
リリーは右手を見ながら話を続けようとした。
「待った、待った。もう俺、限界」
急にロイが割って入った。
「限界?」
リリーが目を丸くしてロイを見る。
特に体調が悪そうには見えない。
「俺、昼から何も食ってないんだけど。腹減って死にそう……」
お腹をさすりながらロイが言う。
ロイに言われて、リリーも急に空腹を感じた。
考えてみれば、仕事から帰ってきて、そのまま地下へ降りたのだ。
「確かにお腹空きましたね」
「気づくの遅くね?お前、ほんと何かに夢中になると他が全て抜けるよな」
ロイが言う。
「じゃあ何か作ります」
立ち上がると、今度はシオンも立とうとした。
「俺も——」
リリーは慌ててシオンを制する。
「座っててください」
「大丈夫、もう熱は……」
シオンが言いかける。
「病み上がりは大人しくしてろ」
ロイが先に言った。
「……お前、ちょっと楽しんでるだろ」
シオンがロイを恨めしそうに睨んだ。
「今日は俺が一番まともだからな」
ロイは胸を張る。
「簡単なもの出すから、ちょっと待ってて」
リリーはそのままキッチンへ向かった。
時間も遅い。
手の込んだものを作る気にはなれなかった。残っていたパンを切り、卵とチーズ、それからある野菜でスープを作ることにした。フライパンに落とした卵が小さく音を立てる。
チーズが溶ける匂いが広がると、さっきまで地下にいたことが、急に遠い出来事のように感じられた。居間からロイとシオンの話し声が聞こえる。
窓辺にいたルウは、匂いと音につられて足元にやってきた。
『魚はないのか?』
ルウの催促も含めて、いつもの家だった。
ただ、この家の地下に、あんな場所があると知ってしまっただけだ。
「できました」
皿を運び、パンと一緒に並べる。
最後に冷やしてあったワインを出した。
「お」
ロイが嬉しそうな声を上げる。
「少しだけね」
グラスを二つ並べた。
シオンの前には先ほどのコップを一つ、果実水を注いだ。
「……俺だけ違わないか?」
明らかに不服そうにシオンが言う。
「病み上がりですから」
リリーは当然という顔をする。
「もう熱はない。一杯くらい……」
「駄目です」
リリーはシオンの言葉を途中で遮った。
ロイがワインのグラスを持ち上げた。
「諦めろ」
少し顔がニヤついている。
「お前は飲むのか」
「俺は病み上がりじゃないからな」
二人のやりとりを見て、リリーは真面目な顔でシオンに言った。
「……シオン」
「ん?」
「昨日熱を出したばかりなのに、地下まで連れていってしまって。すみませんでした」
「俺が大丈夫だと思って行ったんだから、大丈夫だ」
シオンは、なんでもないことのように言った。
「でも、少し無茶でした。体調は?」
リリーは今になって、急にシオンの体調が気になった。
昨夜は高熱でうなされていたのだ。
今朝から随分元気そうだったとはいえ、もう少し安静にしてもらうべきだったのではないか。興味のあることに夢中になって、自分のことを疎かにすることはよくある。けれど、それに誰かを巻き込むのは違う。
リリーの真剣な顔に、シオンは少し戸惑った様子で言った。
「全く問題ない。もう熱もない」
「念のため確認します」
リリーは立ち上がると、シオンの隣まで回った。
「おい、何を——」
言い終わる前に、その額へ手を当てる。
昨夜よりずっと冷たい。熱はなさそうだ。
「……大丈夫そうですね」
リリーはほっと息をついた。
「だから言っただろ」
なんだかシオンが少し慌てている。
「なあ、リリー」
ロイの低い声がした。
「何?」
振り返ると、ロイがじっとリリーを見ている。
「俺も測って」
ロイが自分の額を指差している。
「……なんで?」
「俺も地下まで行って帰ってきた」
リリーは呆気に取られた。理屈がよくわからない。
「熱はないでしょ」
「なんか熱っぽい」
目を閉じたロイは明らかに仮病だ。
「元気でしょう」
「シオンだって、元気だって言ってたのに測っただろ」
ロイが聞き分けのない子供のようになってきた。
「シオンは病み上がりだから」
「じゃあ俺も病み上がりかもしれない」
横でシオンが吹き出した。
「笑うなよ」
ロイが抗議する。
リリーは呆れて席へ戻った。
「測りません」
そう断言すると、ロイは明らかに不服そうだ。
「扱い違わない?」
「違わないよ」
リリーは自分のグラスにワインを注いだ。
「じゃあ、ロイも果実水にする?」
「すみませんでした」
ロイは即答して黙った。
そんなやりとりを見て、シオンがまた笑った。
その顔を見て、少なくとも本当に熱は下がったのだろうと、リリーは少しだけ安心した。
三人でグラスを合わせるほどのことでもなく、そのまま食事を始めた。
空腹だったせいか、簡単に作っただけのものがおいしい。しばらくは地下の話もしなかった。ルウがパンを寄越せと要求する。地下深くの術式も、古い書物も、指輪の光も、今だけは、テーブルの外に置いておいていい気がした。
食事の片付けをして、再び三人でテーブルを囲む。
「この指輪についてですが」
リリーが切り出した。
地下で淡く光った指輪は、今は何事もなかったように指に収まっている。あの結界の部屋を出て、赤い絨毯の居室に戻ると、指輪の光も嘘のように消えたのだ。
「その指輪って、魔力を抑えるためにつけているんだろ?」
ロイの問いに、リリーは頷いた。
「そう認識してる」
「認識してる?」
シオンが聞き返す。
「古い魔道具だし、子供の頃からずっと身につけているから、正直あまり意識したことはなくて」
リリーは指輪を指先でなぞった。
「母に、魔力を抑えるためのものだから、必ず身につけているように言われた……と思うんですが」
「……と思う?」
シオンが怪訝そうに聞いた。
「母とは幼い時に死に別れて、正直記憶が曖昧なんです」
リリーは僅かに苦笑した。
「まあでも、マリーさんの言うことに間違いはないんじゃないか。おまえ、昔からずっとそれ身につけてたもんな」
ロイが当たり前のように言う。
「うん、もうほとんど意識せず身につけていたから。でも、この指輪に地下の結界と同じ術式が使われていて、しかも反応した。それがどういうことなのか……」
地下で見た、大きな円形の術式。
あれが、この家を地下まで丸ごと覆う結界の中枢なのではないか。
そしてその術式の一部が、この指輪にも使われているのだとしたら——。
「シオン……」
リリーはシオンをまっすぐ見つめた。
「ん?」
シオンはリリーに視線を返した。
「指輪、つけてみませんか」
シオンがリリーの指輪を見る。
数秒遅れて、その意味を理解したらしい。
「いいのか?」
「はい。もしこの指輪にも、家の結界と同じように魔力の流出を防ぐ作用があるなら、シオンが外に出ても大丈夫かもしれません」
うまくいけば、シオンがこの家から出られるかもしれない。
「なるほどな」
シオンの表情が変わる。
「じゃあ試して——」
リリーが言いかけたところで、ロイが割って入った。
「今日はやめとけ」
リリーとシオンが同時にロイを見る。
「え、どうして?」
リリーは思わず聞き返した。
「どうして、じゃない」
ロイはシオンを指差した。
「こいつ、昨日熱出して寝込んでたんだろ。お前もついさっき無茶だったって反省したばかりなのに、もう忘れたのかよ。これだからリリーは……」
ロイは心底呆れたという顔をしている。
「確かに……」
リリーは今度ばかりは、ぐうの音も出なかった。
「今日はもう寝ろ」
きっぱりと言われ、リリーもシオンも黙った。
「じゃあ、明日だな」
ロイは帰り支度を始めて言った。
「来るの?」
リリーが尋ねる。
「来るよ、明日は非番だ」
ロイは何故か自慢げに胸を張る。
「お前ら二人だけでやらせられると思うか?一人は昨日熱出して寝込んでて、もう一人は自分の魔力を抑えてる指輪を外そうとしてるんだぞ」
ロイは呆れた顔で続けた。
「とにかく絶対、俺がいる時に確認しろよ」
ロイはリリーの鼻先に指を向けて念を押すように言う。
「分かったわ」
リリーは観念した。確かにロイの言うとおりである。
「あともう一つ」
ロイは人差し指を立てて言った。
「リリー、地下には絶対一人で行くなよ」
「え?」
意外なことを言われてリリーは一瞬たじろいだ。
「いいか?今日のお前の顔見てたら、絶対また調べたい事が見つかって、一人でも地下に向かいそうだ」
今日はロイに念を押されてばかりな気がする。
「え? それはちょっと……私のどんな顔見るとそう思うわけ?」
「分からないことが増えて嬉しいって顔」
ロイは即答した。
「それは確かに言えるな」
同意したシオンをリリーは睨んだ。
「シオンまで」
「実際、一人でも行くだろ。お前なら自分で扉も開けられるしな」
ロイはまだ疑っている。
「行かないよ。……たぶん」
リリーは正直に言ってしまった。
「ほら!」
ロイが声を上げた。
「分かった。絶対一人では行きません」
リリーは片手を上げて宣誓した。
「約束だぞ」
それでもロイはまだ信用していない顔をしている。
ロイは今度はシオンを見た。
「シオン。止めろよ」
「分かった」
シオンも即答した。
「こいつが行こうとしたら寝かせろ」
リリーを指さしてロイが言う。
「どうやって」
シオンが軽く笑って言った。
「知らん。お前の方が強いだろ」
「何の話をしてるのよ」
リリーは行かないと言っているのだ。
シオンはしばらく考えてから、真面目な顔で頷いた。
「善処する」
「しなくていいです」
シオンとロイが笑った。
地下へ降りる前より、ずっと気の抜けた笑い方だった。
玄関先でロイを送り出し、扉を閉めてリリーが振り返ると、シオンが小さく欠伸をした。リリーはそれを見逃さなかった。
「シオン、寝てください」
「分かってる」
シオンは眠たそうな目で答えた。
「明日までは、私も何もしませんから」
「今日やれなくて残念そうだな」
シオンは小さく笑っている。
「……否定はしません」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
階段を上がっていく背中を見送ってから、リリーはテーブルへ戻った。空になった二つのワイングラスと、少しだけ果実水の残ったグラス。
その向こうで、ルウが大きく伸びをする。
リリーはもう一度、右手の指輪を見た。
見た目はなんの変哲もない金製のリングだ。
表面にうっすら術式が彫り込まれ、中央に小さく輝く石が嵌め込まれている。
——お母さん、この指輪は何?
顔さえうまく思い出せない母に、リリーは一人問いかけた。




