第18話 地下室
階段は、思っていたよりも地下深くまで続いていた。
リリーは壁に手を添えながら、螺旋状の階段を一段ずつ下りていく。
背後からは、ロイとシオンが階段を下りてくる足音が聞こえる。
シオンが放った光球が、少し先を漂いながら足元を照らしてくれていた。
石造りの階段は古く、ところどころ細かな亀裂も入っていた。
本当に存在した、地下室へ続く階段。
ここは、寒さも暑さもない。
ただ、音がなく静かだった。
「なあ」
後ろからロイの声が響いた。
「これ、どこまで続いてるんだ?」
「分からないわ」
リリーは正直に答えた。
もうどれくらい下りてきたのかもわからなかった。
一歩一歩確かめるように階段を降りながら、ふと手を添えていた壁へ目を向けた。ところどころに細い線が刻まれている。
「これ……」
リリーが線をなぞりながらつぶやいた。
「何かの術式に見える……しかもずっと続いてるわ」
「何がだ?」
シオンがリリーの様子に気づいて聞いてきた。
「壁に術式が彫り込まれています」
ロイが壁を見る。
「これが?」
「うん。かなり古いものだわ」
こんな術式は見たことがなかった。
「今も動いてるのか?」
シオンが重ねて聞いてくる。
「わからないけれど……」
リリーは目を閉じて魔力の流れを探る。
わずかだが魔力の流れを感じた。
「魔力は少し流れてるみたい」
そう答えて振り返ると、シオンはじっと自分の手のひらを見ていた。
「シオン?」
返事がない。
「どうしました?」
シオンは何かを考えているようだった。
「……いや、何でもない」
少し間を置いて、シオンは首を振った。
「先へ行こう」
気にはなったが、リリーはそれ以上追及しなかった。
階段はまだ下へ続いている。
壁に刻まれた術式も途切れない。
異様な静けさの中、階段を下りる三人の足音だけが響いていた。
やがて、光球の明かりの先に平らな床が見えた。
「あれは……」
正面に扉があった。
階段と同じ石造りの壁に、木の扉が嵌め込まれている。
黒に近いほど濃い茶色。表面には蔓草のような細かな彫刻が施されていた。
「開けるぞ」
しばらく三人で扉を見つめていたが、最初にシオンが取っ手に手を伸ばす。
しかし扉は押しても引いても開かない。
「ダメだ、開かない」
シオンが何度か試すが全く動かない。
「何か仕掛けがあるかも」
リリーが扉をよく観察すると、蔦の装飾と思われていた一部に石が嵌め込まれていた。
「また魔石……」
ここにも魔石が埋め込まれていた。
「多分ここです」
リリーはそっと魔石に手を触れると、ひんやりとして滑らかな感触がした。そのままゆっくり魔力を流す。反応はないが、そのまま魔力を慎重に流し続けた。
「……っ!」
三人は息を飲んだ。
装飾だと思っていた蔦がスルスルと動き始めたのだ。
蔦は円を縁取るような模様を形作り、その中心に術式が浮かび上がった。
赤く光るその術式に魔力が引っ張られる感覚があり、リリーは慌てて手を離した。
やがて術式は音もなく静かに消えた。
「……開けてみましょうか」
リリーが取っ手に手をかける。
先ほどはびくともしなかった扉は、驚くほど滑らかに動いた。三人は扉を開けた先に目を向けた。
「……え?」
リリーは思わず声を漏らした。想像していたものとは随分違い、中は深い赤色の絨毯が敷かれた、まるで誰かの『居室』のような落ち着いた空間だった。部屋の中を魔道ランプが明るく照らしている。
壁際には背の高い本棚が並び、その中央には重厚な木彫りの机が置かれている。机のそばには、一脚の揺り椅子。
三人は部屋へ足を踏み入れた。靴底が絨毯に沈む。
その感触が妙に現実的で、かえって落ち着かなかった。
古びてはいるけれど、朽ちてはいない。
木や布も、こんな地下深くに何年あったのか分からないというのに、形を保っていた。
「ずいぶん保存状態がいい。形状維持の魔法でもかけてあるのか」
シオンが言った。
「そうだとしても、こんなに維持できるものでしょうか」
この部屋には、長年誰も足を踏み入れていないはずだ。
にも関わらず、この部屋には人がいた気配さえ残っている気がするのだ。
誰かがこの机に向かい、この揺り椅子に腰掛け、この地下深くで本を読んでいた……。
リリーは本棚へ近づいた。
背表紙には見覚えのない文字が並んでいる。
指で触れるのはためらわれた。
「すごいな、これは古代文字か?」
シオンが横から覗き込む。
「たぶん」
「読めるのか?」
ロイも後ろから覗き込む。
「少しなら」
何冊か背表紙を目で追う。知らない単語が多いが、魔法に関する書物らしいことだけは分かった。
術式、魔力、結界。
それから見慣れない単語がいくつか並んでいる。
「リリー」
シオンの声がした。
振り返ると、シオンは部屋の中央に立っていた。
先ほどまでと違って、自分の手を見つめて眉根を寄せている。
「どうしました?」
リリーがシオンに近づく。
「地下に入った時から感じてたんだが……この部屋に入って尚更強くなった」
リリーが不思議そうに聞く。
「何がですか?」
シオンはすぐには答えなかった。目を閉じて、何かを確かめるように、ゆっくり息を吐いた。
「外にいた時は、ずっと魔力が引かれてる感じがする。それがリリーの家の中では、止まる。そう思っていた」
そう、リリーの家の中であればシオンの魔力は減らない。
「でもここは、もっとさらに……何もない。本当に凪いだように静かなんだ。なんと言うか、全ての違和感が取り除かれて、元通りに戻った。そんな風に思えるくらい……」
シオンがゆっくり、慎重に言った。
その言葉を聞いて、リリーは周囲の魔力に意識を集中する。
普段なら意識もしないほど微かな、外界の魔力の揺らぎ。
人や動物、植物、水や土、空気にさえ漂うわずかな魔力。
そうしたものが——
「……ない」
思わず呟いた。この部屋の中には、三人の魔力が確かにある。
それなのに、それ以外の外側にあるはずの魔力が全く感じられない。閉じ込められているという感覚とも違う。壁の向こうにあるはずのものが、全く探知できないのだ。
「外からの魔力が全くない?」
リリーは眉を寄せた。
「何、これ」
分からない。
初めての感覚に、胸の奥が少しだけ高鳴る。
「お前、またその顔してる」
ロイがリリーの顔を覗き込んで、呆れるように言った。
「何?」
「面白くなってきたって顔」
そう言うロイも少し面白そうだ。
「確かに」
シオンも口角を上げている。
「シオンまで」
最近この二人はやけに気が合う時があるようだ。
でもこの雰囲気がリリーは嫌いではなかった。
すると、シオンが部屋の奥へ目を向けて、肩を少し上げて言った。
「おい、奥にまだあるぞ」
「え?」
リリーがシオンの視線の先に目を向けると、大きな本棚の陰に、もう一つ扉があった。
今度は装飾のないシンプルな木の扉だ。
よく見ると取っ手に小さな魔石があった。
「ここにも魔石か……」
「やってみるか?」
シオンも魔石を見て言った。
「はい」
魔石の表面に手を置き、ゆっくり魔力を流す。すると、取っ手から扉全体に一瞬で波動のように光る術式が広がり、すぐに消えた。次の瞬間、取っ手が急に軽くなり、リリーの手の重さだけでガチャっと動く。
リリーは扉をそっと開けた。
床は石畳だった。赤い絨毯は、扉の手前できれいに途切れている。その向こうにはただ、広い石造りの空間があった。天井は高く、家の地下にあるとは思えないほどの広さだった。
「……あれは?」
ロイの声が、わずかに響いた。
部屋の中央、床一面に円が描かれている。
いや、描かれているのではない。石そのものに、刻まれていた。
幾重にも重なる円。
その間を埋め尽くす細かな文字と術式。
その術式は青白く発光していた。
リリーは息を呑んだ。
「これは……」
一歩、中へ入る。
「結界……?」
そう口にしてから、自分で違和感を覚えた。
知っている結界とは、あまりにも違う。
「これがこの家の結界なのか?」
シオンが聞いた。
「分かりません」
リリーはしゃがみ込み、石床へ手を伸ばした。
指先を、刻まれた線のすぐそばに置く。
「そもそも何を魔力源に?」
リリーがつぶやく。
「今もずっと動いているということは、半永久的に稼働しているのか……そんな結界術、聞いたことない」
シオンも目を丸くしている。
この初めて見る術式は、それぞれが独立して完結しているように見えて、一部で複雑に繋がっているようだ。
「魔力が循環している……?」
リリーは初めて見る術式から目が離せない。
その時、見覚えのある形が目に入った。
「この術式……」
リリーが思わず小さく声をあげた。
「今度は何だ」
ロイがリリーに声をかける。
円の一部、ほんの小さな術式だった。
全体から見れば、取るに足らないほど小さいものだが、この術式は見たことがある。リリーは無意識に、自分の右手の薬指にはめた指輪に目を落とした。
「?」
リリーは目を見開いた。
指輪が本当に僅かに、淡く光っていた。
正確には指輪の表面に刻まれた術式が青白く発光している。
「同じ術式……?」
手をかざして指輪をじっと見ているリリーに、シオンとロイが近づいてきた。
「どうした?」
二人ともリリーの指輪が光っていることに気づいて目を見開いている。
「どうして……」
リリーはその淡い光から目が離せなかった。
地下深く、誰にも知られず残されていた部屋の中、見たこともない結界術式と呼応するように淡く光るもの。
それはリリーが幼き日に母からもらった指輪だった。




