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雨宿りは魔女の家で  作者: 森月 恵
第一章 魔女の家
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第2話 台所の男

 翌朝。


 リリーはトントンという軽快な音で眠りから覚めた。


「…………?」


 目を開ける。


 昨夜は気が張っていて、眠りが浅かった。

 眠い頭で天井を見つめる。


 ——何の音だろう。台所?誰が?


「…………!」


 昨夜の男。

 記憶が一気に蘇り、リリーは跳ね起きた。


 慌てて寝室を出て、居間に入ると立ち尽くした。

 部屋には何かを焼く香ばしい匂いが漂っている。


 そして、昨夜まで死にかけていたはずの男が、台所に立っていた。

 しかも勝手に鍋やフライパンを使っている。

 テーブルには焼いたパンと目玉焼き、ベーコン、湯気の立つスープまである。


 その男の足元では、黒猫が機嫌よさそうに皿へ顔を突っ込んでいた。


『こいつ、悪くないぞ』


「何してるんですか」


 リリーの声に、男が振り返る。

 男の紺碧の瞳が、リリーを捉えた。

 わずかにその目が揺れる。


「あ、おはよう。悪いが台所を借りた」


「え、ちょっと、どうして……」


 軽い朝の挨拶に、むしろリリーが狼狽えた。


「朝飯だ」


「それは見ればわかります」


「猫も腹が減ったようだったから」


 黒猫はこちらの視線を無視して、皿のスープにがっついている。


「猫の言葉が分かるんですか?」


「いや。皿の前で鳴いてた」


『お前より察しがいい』


「ルウは黙ってて」


 男が少し目を見開いてこちらを見る。


「やっぱり猫と話せるんだな」


「…………」


 違う、問題はそこではない。


「昨日、あなた死にかけていましたよね」


「ああ、確かに」


「動けませんでしたよね」


「ああ、全く」


「では、なぜ今、台所に立って朝食を作っているんですか」


 男は少し考えて小さく肩をすくませた。


「猫も俺も、腹が減ったから……かな」


 そういうことを聞いているのではない。

 リリーはこめかみを押さえた。

 すると男ははっとした顔をしてリリーに向き直った。


「いや、違った。まずは助けてもらった礼を言うべきだった。昨晩助けてくれたこと、感謝する。女性の家とは知らなかったとは言え、一晩泊めてもらい申し訳ない」


 軽く頭を下げた男を見て、リリーはふと気がついた。


 昨夜、この家に入れる時にはなかったもの……

 ごくわずかではあるが間違いない。

 リリーは男を見つめた。


「……あなた」


「ん?何だ」


「今日は魔力、ありますよね」


 男は一瞬目を見開き、ゆっくり自分の手のひらを握りしめて呟く。


「ああ、確かに少し……」


「昨夜はほとんどありませんでした。でも、今はあります」


 「…………」


 ルウだけが、呑気に皿を舐めている。



 魔力のことは気になったが、これ以上問い詰めるのはやめた。

 他人の事情に首を突っ込むと、大抵ろくなことにならない。

 それはリリーがこれまでの人生で学んだ、数少ない重要な教訓の一つだ。


「そうですか」


 それだけ言って、椅子を引く。

 男が意外そうな顔をした。


「聞かないのか」


「話したくないのでしょう?」


「…………」


 男から探るような視線を向けられ、リリーは気まずくなって話を戻した。

 そもそも、人の家の台所を我が物顔で使うのはいかがなものか。


「とりあえず、勝手に家のものには触らないで……欲しいんですけど」


 男は「悪かった」とあっさり謝った。


「腹が減って、何か食えば動けそうだと思ったんだ。勝手してすまない、もちろん使った分は返す。今手持ちはないんだが……」


「……結構です」


「必ず後日、倍にして返す」


「そういう意味では——」


『俺はそれでいい』


 ルウが口を挟む。


「ちょっと。どっちの味方よ」


 リリーは席について焼きたてのパンを一つ取る。

 悔しいが昨日はろくに食べずに寝たので、今にもお腹がなりそうだ。

 出来立ての朝食は見るからに美味しそうだ。


「食べたら出ていってください」


「ああ、わかった」


『無理だと思うぞ』


 ルウが呟いた。


「何が無理なの」


『さてな』


 リリーはルウを睨んだ。

 

 朝食後、律儀に食器の片付けまで済ませて男は言葉少なに出ていった。


「世話になった。感謝する」


「いえ」


 リリーはなるべくあっさり返事する。

 ピリッとした警戒心は途切れさせなかった。


 男が出ていき、扉が閉まった。


 リリーはしばらく扉を見つめた後、ふう……と小さく息をつく。


「……終わった」


『何が』


「面倒ごと」


 窓辺で毛繕いをしていたルウが顔を上げた。


『そうか?』


「そうよ」


『だといいけどな』


 相変わらずの含みのある言い方が気に入らないけれど、言い返すのも面倒なくらい朝から疲れていた。


 昨夜突然現れた、名前も知らない男。

 一晩泊めて、朝食を食べて、たった今出ていった。

 それだけだ。もう会うこともない。


 台所に立つと、使った鍋や調理器具はきれいに洗われ、元の場所に戻されていた。

 昨夜、自分が疲れに任せて置きっぱなしにした皿やカップまで洗われている。


「……几帳面な人」


 そう呟きながら、別に悪い気はしなかった。

 それでも、静かになった部屋にはほっとする。


 やっぱりこれがいい。


 リリーは一人の時間が好きだった。

 

 誰かに気を遣う必要もなく、話したくなければ話さなくていい。

 自分の好きなときに食べ、好きなときに眠る。

 ここ数年はずっとそうして暮らしてきたし、これからもそうやって暮らすつもりだ。


 ルウはいるが、ルウは別だ。そう思いながら視線を向けると、ルウがこちらを見た。


『何だ』


「何も言ってないけど」


『相変わらず俺のことが大好きだな』


 いつもの朝だ。

 リリーは満足して仕事へ向かう支度を始めた。


 ***

 

 家を出てしばらく歩いたところで、リリーは足を止めた。


「……?」


 何かがおかしい。


 辺りを見回す。いつもと変わらない朝の街だった。まだ冷たい空気の残る雨上がりの朝、通りには仕事へ向かう人々が行き交い、店先では開店の準備が始まっている。目に見える範囲に、特に変わったものはない。


 ――でも。


「……何、これ」


 魔力の流れがおかしい。


 魔力は人間や魔物の体内だけでなく、大気にも、土にも、水にも、ごく薄く満ちている。リリーは普段から、そうした周囲の魔力を無意識に感じ取ることができた。けれど今、その流れが街の一か所だけ、不自然に途切れている。まるで緩やかに流れていた川の途中に、ぽっかりと穴が開いているようだった。


 ドキドキと鼓動が早くなる。嫌な感じしかしない。リリーは流れを辿った。

 大通りから一本外れた、細い路地のその奥。


「…………」


 人が倒れていた。


 見覚えのある服が視界に入った瞬間、嫌な予感は確信に変わる。


「…………」


 一歩、後ろへ下がった。

 見なかったことにしよう。


 ――いやいやいや。

 昨日と同じ思考の自分に、リリーは呆れつつ額を押さえた。


「なんで……」


 つい先ほど出ていったばかりではなかったか。

 

 恐る恐る近づくと、やっぱりあの男だった。

 壁に背をつけたまま力尽きたのか、路地の端に崩れるように倒れている。

 朝にはずいぶん顔色も戻っていたはずなのに、今は昨夜と変わらないほど青白い。


「ちょっと」

 

 呼びかけるが、返事はない。


 しゃがみ込んで観察すると呼吸は荒く、顔は苦悶で歪んでいる。

 リリーは男が生きていることにひとまず安堵しつつ、すぐに眉をひそめた。

 

 おかしい。男の魔力が、また消えかかっている。

 それに男を中心にして、周囲の魔力まで薄くなっている。


 魔力を持たない人間はいない。

 人は生まれながらに魔力を持ち、それなしでは生きられない。

 量には個人差があり、魔法として操れるかどうかはまた別の話だが、魔力が急にこんな短時間で減ることは滅多にない。さらには人間一人を中心に、周囲の魔力まで消える……そんな現象は聞いたこともない。


「本当に何なの、あなた」


 当然、答えはなかった。


 リリーは立ち上がり周囲を見た。

 ここで衛兵を呼ぶのが一番まともな判断だ。

 治療院へ運んでもらって、あとは専門家に任せればいい。

 そうすれば自分は仕事へ行ける。完璧だ。


 ――わかってるけど。


 リリーはもう一度、男を見下ろした。


 昨夜、魔力はなかったのに、朝になるとわずかに戻っていた。

 そして家を出た今、再び限りなくゼロに近くなっている上に、周囲の魔力まで消えている。


「…………」


 気になる。ものすごく気になる。


 そして気になってしまって後戻りできない自分が、一番嫌だった。


「ああ、もう……!」


 小さく呪文を唱える。


 昨日と同じように風が男の身体を包み、その重みを軽くした。

 

     *

 

 玄関を開けると、ルウがいた。

 男を支えて帰ってきたリリーを見るなり、金色の目を細める。


『お、早かったな』


「見ればわかるでしょ」


『俺様の予想通りだな』


「うるさい」


 リリーは男を支えたまま部屋へ入った。


『捨てても無駄だったな』


「捨ててないから」


『拾うのが好きなやつ』


「…………」


 否定する言葉が思いつかなかった。


 男を再びソファへ寝かせる。

 家の中の魔力の流れは正常だった。路地裏で感じた、あの奇妙な欠落もない。


「……どういうこと?」


 リリーは男のそばにしゃがみ込んだ。

 朝にはあった魔力が、今はまたほぼ全て消えている。


 ――でも、これは……。


 家のソファに寝かせた男は、路地裏で見た時の苦しげな表情は消え、穏やかな顔で寝息を立てている。

 リリーはしばらく様子を見ているうちに、ごくわずかな変化に気がついた。


 ほんの微量。

 でも確かに、男の中に魔力が生まれ始めている。


「…………」


 昨夜は気づかなかったし、よく観察もしなかった。

 でも今は確かに、この家に入る前と後では、何かが変わっている。


『どうした』


「……外では、なくなる」


『何が』


「魔力のこと」


 リリーは考えながら呟いた。


「でも、ここに入ると……戻ってくる?」


 ルウの尻尾がゆっくり揺れた。


『面倒ごと、終わったんじゃなかったのか』


「……そのはずだったんだけど」


『だけど……?』


 ルウが金色の目を細めた。


「何、その顔」


『猫の顔だ』


「ばか!」


 リリーがついルウに悪態をついたところで、ソファから小さな呻き声がした。


 男が目を開ける。


 しばらくぼんやりと天井を見つめ、それからリリーに気づいた。


「……ここは」


「私の家です」


 男が目を瞬いた。


「え、……また?」


「またです」


「…………」


 ゆっくり身体を起こした男に水を渡すと、一気に飲み干した。


「私も聞きたいことがあります」


 今度は、聞かなければならない。

 関わらずに済ませられる話ではなくなってしまった。


 リリーは男を真っ直ぐ見つめた。


「何だ」


 男も紺碧の瞳で視線を返す。


「名前を教えてください」


 男が少し意外そうな顔をした。


「……今さら聞くんだな?」


「今さらです」


 一瞬、男は黙り、何かを考えているように見えた。

 一夜限りと思っていたのはリリーだけではなかったようだ。

 やがて男は口を開く。


「俺はシオンだ」


「シオン……」


 リリーは一度、その名前を確かめるように呟く。


「私はリリーです」

「リリー」


 確かめるように呼ばれて、リリーは小さく頷いた。


『ルウだ』


 横から黒猫が口を挟んだ。


「ニャア」


 聞こえたのは猫の鳴き声だけだが、シオンはそちらに目を向けて言った。


「お前はルウだったな」


『ほう。覚えていたか』


 ルウは金色の目を細めた。


「……なんで分かるの」


 驚いたリリーが思わず問うと


「朝、そう呼んでいるのを聞いたからな」


『なかなか見込みがある奴だ』


「褒めなくていいから」


 シオンがリリーを訝しむように見る。


「やっぱり猫と話してるよな?」


「話してません」


『話してるだろ』


「うるさい」


 シオンはしばらくリリーとルウを交互に見ていたが、それ以上は追及しなかった。

 リリーも説明するつもりはなかった。

 

 ——名前を知った。知ってしまった。


 昨日までは名前すら知る必要はないと思っていた男が、シオンになった。

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