第1話 始まりの雨
なんとなくついていない日。
そんな日はジタバタしても無駄なので、大人しく一日をやり過ごすしかない。
その日も何もかも、少しずつついていなかった。
朝から少し寝坊し、慌てて焼いたパンは焦げ、履こうとした靴下には小さな穴が空いていた。
担当した仕事先では、聞いていたより結界の損傷がひどく、修復には予定の倍の時間がかかった。さらに報告書をまとめるのにも倍の時間がかかり、帰り際には雨まで降り出した。
だから、雨除けのフードを目深に被って足早に街道を抜け、ようやく我が家が見えた時には、リリーの望みはたった三つしかなかった。
温かいスープ。
温かいお風呂。
明日の朝まで誰とも話さずぐっすり寝ること。
ところがついていない日はとことんついていないのだ。
家の玄関前に、人が倒れているのを見た時、リリーは自分の今日の不運を呪った。
「…………」
正確には青年が倒れていた。雨に濡れた石畳の上に、うつ伏せになっている。
リリーはしばらく呆然と立ち尽くした。
雨を吸った深い赤銅色の髪が頬に張りついている。
リリーは鬱陶しそうにそれを耳へかけた。
——見なかったことにしよう。
一瞬、本気でそう思った。
回れ右をして、もう一度角を曲がり、少し時間を潰してから戻ってくればいい。その頃には誰か別の親切な人が見つけて、治療院なり衛兵の詰所なりへ連れていってくれているかもしれない。
そうしたら自分は何も知らなかった顔をして家に帰れるだろう。
完璧だ。
——いやいや、それはちょっと人としてどうなの。
リリーは自分の考えを即座に否定した。
そもそも、なぜ自分の家の玄関前で人が倒れているのか。
何かの罰だろうか。ついていないにも程がある。
でもこのまま放っておいて、手遅れなんてことになったら、それはそれで夢見が悪い。それ以前に自宅前で人が死んだなんて気持ち悪いし、事件性があるか何かで事情聴取されるのも面倒な事この上ない。
「…………」
リリーはしばらく男を見下ろしたが、男は全く動かない。
仕方なく、しゃがんでツンツンと肩をつつく。
一度目…二度目…
「…………」
反応なし。
三度目は少し強めにつつく。
「あの!……ちょっと」
我ながら、倒れている人間にこれはどうなのだろうと思うが他の方法も思いつかない。
すると男の指が、わずかに動いた。
——よかった、とりあえず生きている。
「うう……」
男の目がゆっくり開いた。
頬には泥がつき、濡れて色を深めた銀灰色の髪が額に張りついていた。
服もところどころ破れていてボロボロだ。
そんな格好とは対照的に顔立ちは妙に整っている。
リリーは眉をひそめた。
——ますます怪しい。
美形だから怪しいというのは我ながら理不尽だと思うが、こんな夜更けに、こんな場所で、こんな姿で倒れている時点で十分要注意人物だ。
そこに必要以上に整った顔立ちまで加わると、もはや関わるなという警告にしか思えない。
男の唇が動いた。
「水……」
水。
リリーは固まった。
この状況で水を与えないという選択肢はないだろう。だがしかし、水を渡すということはこの男を助けるということで、助けるということはつまり、この男に関わるということで……。
ぐるぐると回る思考はパンク寸前だ。
「少し待ってて」
家へ向かって一歩踏み出し、止まる。
——いや、ちょっと待て。
リリーは振り返った。
知らない男、雨の夜更け、自宅前、行き倒れ。
どれもこれも、厄介ごとの予感しかしない。
さすがにこのまま放置していては人に知られる可能性がある。春先とはいえ夜の冷たい雨が降り続けるこの状況、まずはこの人間を屋根の下に収容する必要がある。
だがいくら死にかけているように見えるとはいえ、このまま家に入れるほどリリーは不用心ではない。
男のそばにしゃがみ込む。
「まずは、調べさせてもらいます」
返事はないが、了承したことにする。
まず魔力だ。
意識を集中させ、男の身体に軽く触れる。
——ない。
リリーは少し眉を寄せ、もう一度調べた。
わずかな残渣は感じるが、ほぼない状態に等しい。
——魔力が……ない?
魔力切れの状態だろうか。
本当に魔力がこれしかない状態なら普通は動けない。
次に武器。
腰回り、懐、靴。何もない。
魔力なし、武器なし、おまけに意識もほとんどない。
見事なない物尽くしで、ひとまず家の中に入れても安全そう……
ただし謎すぎて、怪しさだけでお釣りがくる不審者だ。
「…………」
雨脚が強くなり、男が小さく咳き込む。
フードから覗く赤銅色の髪の先からも雨が滴り、指先はすっかり冷えきっていた。
リリーは小さく息を吐いて天を仰いだ。
「……一晩だけです」
返事はなかった。
仕方なく男の上半身を起こして腕を自分の肩に回す。
立ち上がろうとして、すぐに諦めた。
「うっ……!」
重すぎる。全く動かせない。
当然だ。
成人男性一人をそのまま担げるほど自分は鍛えていないし、この男性、背は高いし体も鍛えてあるようで筋肉質だ。しかも意識を失う寸前で、力はほぼ入らない。
諦めてリリーは周囲に人がいないことを確認した。
小さく呪文を詠唱して指先を動かす。
風が男の身体を包み、衣服がふわりと浮く。リリーは自身の身体にかかる重みが一気に減ったことを確認し、男の体を立たせると、軽く男を支えながら玄関を開け家の中に入った。
家の中は明るく暖かで、冷たい雨から逃れただけでホッとした。
居間のテーブルには、今朝、寝坊して置きっぱなしにした朝食の皿やコップが残っていた。壁際には専門書を詰め込んだ本棚と、小さな暖炉、その前にはソファとローテーブルがある。吹き抜けになった居間の片側には、二階へ続く木の階段が伸びていた。
飾り気のない簡素な部屋の向かいの窓辺には、黒猫が一匹くつろいでいた。
黒猫は主人の帰宅を認め、それから主人が担いでいるものを見た。
金色の目が細くなる。
『なんかでかいもの拾ってきたな』
「違うから」
『どう見ても拾ってるだろ』
「倒れてたの」
『どこに』
「家の前よ、すぐそこ」
『で、それを拾ってきたんだろ』
「……とにかく、今晩一晩だけよ」
黒猫は呆れたように尻尾を一度振った。
『お前の「一晩だけ」は信用ならんな』
「うるさい」
思わず大きな声を出したせいで、男がわずかに顔を上げた。
「うっ……猫?」
リリーの動きが止まった。
「……何でもありません」
『何でもなくないだろ。立派な黒猫だ』
「うるさい」
「猫と……話す……?」
「…………」
リリーは男を床へ落としてしまいたい衝動を、どうにか堪えた。
とりあえず、居間のソファに寝かせて水を与えた。体を軽く拭いてから風魔法で乾かし、毛布をかけて暖かくすると、男性はすやすやと眠ってしまった。
「はあ……」
今日の運のなさと言ったら……何かの呪いだろうか。
一人で気ままに過ごす時間すら奪われた。
リリーはため息をついてから、濡れた衣服を着替え、最低限の食事、身繕いを済ませて自分のベッドに沈み込んだ。念のため、寝室に結界魔法をかけることだけは忘れなかった。
お読みいただきありがとうございます。
第一章は書き上げていて、毎日更新予定です。
続きも楽しんでいただけたら嬉しいです。




