第16話 熱
「ただいま」
玄関の扉を閉めるなり、リリーは居間の方を見た。
「シオン?」
返事がない。
いつもなら、この時間には夕食の匂いがしていることが多い。
でも今日は家の中は何の匂いもせず、妙に静かだった。
『今日は静かだったぞ』
階段の途中からルウが顔を出した。
「ルウ、静かだったって何が?」
『あいつ、昼からずっとあそこにいる』
ルウが尻尾で示した先を見る。
居間のソファでシオンが横になっていた。
——珍しい。
シオンがこの家に来てから、ソファで寝ているところなど見たことがなかった。
「シオン」
近づくと、ようやく紺碧の目が開いた。
「……おかえり」
声が少し掠れている。
「どうしたんですか」
「何が」
「具合が悪いんですか?」
明らかにいつもと違う。
リリーは鞄を置くと、シオンの横にしゃがみこんだ。
「少しだるいだけだ」
紺碧の目が少し潤んでいる。
「熱は?」
「知らない」
顔がほんのり赤い。
「寝てれば治る」
シオンが目を逸らしてつぶやく。
「あなたの場合、ただの熱かどうか分からないでしょう」
リリーは呆れながらシオンの額に手を当てた。
「……熱い」
「そうか?」
「そうか、じゃありません」
触れた手のひらに、はっきりと熱が伝わってくる。
リリーは眉を寄せた。
「昨日、結界の外に何度も出たせいじゃないですか?」
「昨日は何ともなかった」
「五回も出ておいて、何を言ってるんですか」
リリーが口早に言うと、
「たった五回だろ」
シオンは軽く自嘲した。
「その五回で、どれだけ魔力を失ったと思ってるんです?」
シオンが口を閉じた。
リリーはそのまま手首を取って目を閉じた。
シオンの魔力を探る。
家の中にいるおかげで、魔力そのものは昨日より戻っているし、大きな乱れもない。でもだからといって、安心していいのかは分からない。魔力の回復と身体の消耗は話が別だ。
「今日はよく寝てください」
きっぱりとリリーは言った。
「夕飯は……」
起き上がろうとするシオンを、そのまま横にならせた。
「私が用意します。何か食べれそうですか」
「いや、俺はいい。お前、ちゃんと食べろよ」
具合が悪い時にも人の食事の心配をするなんて、と思いながらリリーは答えた。
「私の分は何とでもなります」
「お前、昼もろくに食べないくせに」
リリーはたじろいだ。
「今日は、食べました……」
「何を」
シオンがすかさず聞いてくる。
「……ちゃんと食べました」
危うくこの間と同じやり取りになるところだった。
シオンが小さく息を吐く。
「それより」
そこでリリーは、帰ってきたときに話そうとしていたことを思い出した。
「今後、王立魔法研究所の資料を閲覧できるかもしれません」
「王立魔法研究所?」
シオンが怪訝な顔をした。
「はい。実は今日——」
思わず身を乗り出しかけて、やめた。
病人のシオンに、今話す話ではない。
「……いえ。これは明日でいいです」
「気になるだろ」
シオンは不満気な顔をした。
「今はとにかく寝てください」
リリーは有無を言わさない態度で言った。
「途中まで話しておいて?」
「元気になったら話します」
シオンが憮然とした顔でリリーを見る。その顔が少し面白くて、いつもなら笑っていたかもしれない。けれど今は笑えなかった。
「立てますか?」
「そこまで悪くない」
シオンがゆっくり起き上がろうとする。
「二階の部屋まで行けます?」
「…………」
ソファに座ったシオンがなかなか動かない。
「歩けないなら手伝います」
「歩ける」
シオンはソファから立ち上がった。
その瞬間、わずかに身体が揺れ、リリーは反射的に腕を掴む。
「……ほら」
「ちょっとふらついただけだ」
リリーは短く詠唱し指を動かして、シオンの周りに風魔法をかけた。
「シオンを風魔法で運ぶのは、これで三回目です」
「……この魔法」
シオンは一瞬驚いた顔をした。
「何ですか」
リリーが尋ねると
「いや」
シオンはふっと笑って言った。
「相変わらずお前、すげえ奴だな」
*
夜になっても、シオンの熱は下がらなかった。
自分の夕食は、簡単なものを済ませた。
シオンには水だけ飲ませたが、食欲はないらしい。
リリーは何度目か分からない魔力の確認を終えて、小さく息を吐いた。
異常はなさそうだ。
「だから寝てれば治るって言ったろ。大丈夫だ」
シオンは熱のせいか少し掠れた声で言った。
「熱を出している人の『大丈夫』ほど、信用できない言葉はありません」
シオンは物言いたげな顔をしているが、今は言い返す元気もなさそうだ。
「とにかく今日は寝てください」
「ああ」
シオンは素直に目を閉じた。
リリーは静かに部屋を出てから、片付けと寝る準備をした。
お風呂に浸かって、ようやく今日初めて一息ついた気がした。
今日は朝から妙に疲れた。長官に呼ばれて本庁へ行き、王立魔法研究所の資料閲覧の許可をもらえた。同時に制約魔法という思いがけない手掛かりも見つけた。
明日、シオンの熱は下がるだろうか。
下がったらちゃんと報告しようと思いながら風呂から上がる。
寝る前に、もう一度シオンの様子を確認しに部屋に入った。
シオンは小さな寝息をたてて眠っていた。
リリーはそっと額に手を当てた。まだ熱は高い。シオンの額のタオルを冷たいものに換えてから、リリーはベッド脇の椅子に座った。しばらく様子を見てから自分の部屋へ戻るつもりだった。
窓の外では風が強まっていた。時折、窓がガタガタと揺れる音が部屋に響いた。
どのくらい経っただろう。
シオンの呼吸が少しずつ浅くなり、小さく唸り声をあげた。
「……やめろ」
「シオン?」
返事はない。シオンの眉間に皺が寄っている。
リリーは立ち上がり、もう一度額に手を当てた。
熱はまだ高い。
「……やめてくれ……」
シオンの目は閉じたままだ。
夢でも見ているのだろうか。シオンの手が、何かを掴もうとするようにシーツの上を動いた。
「……俺の……ために……」
掠れた声だった。リリーは聞き取ろうとして、少しだけ顔を近づける。
「……死ぬな」
胸の奥が、妙にざわついた。
どんな夢を見ているのか、誰に言っているものなのか。聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、リリーは身体を起こした。
そのとき、手首を掴まれた。
「……シオン?」
強い。
眠っているとは思えないほどの力だった。
「ちょっと、痛いです」
返事はないが、離そうとするとさらに指に力が入った。
困った。起こした方がいいのだろうか。
でも、シオンの呼吸はようやく少し落ち着いてきている。
リリーはしばらく考えたあと、椅子へ座り直した。
「ここにいます。大丈夫です。寝てください」
リリーの手首を握ったシオンの手の上に、リリーはそっともう片方の手を置いた。そのままにしていると、しばらくしてシオンの呼吸がゆっくりになった。
風が木を揺らす音が聞こえる。
シオンはどんな夢を見ていたんだろう。
リリーはシオンの手を包みながら思いを巡らせた。シオンの過去や、置かれている状況は全く知らない。聞こうにも、あの魔術のせいで本人は話すことができない。
家の前で倒れていた時と比べたら、随分元気になったとはいえ、今日までずっと気が張っていたはずだ。体調を崩したのも当たり前のように思えた。
——死ぬな。
その一言だけが、妙に胸に残った。
そこまで考えたところで、瞼が重くなった。
いつの間にかリリーは目を閉じていた。
*
明るい。
暖かな陽射しが、庭いっぱいに降り注いでいた。
リリーは自分の小さな手を見る。
「もう一度やってみて」
横から優しい声がする。
リリーは両手を前に出した。
指先に意識を集中する。
ふわり、と小さな光が生まれた。
けれどすぐに形を崩して、いくつもの光の粒になって消えていく。
「あ……」
失敗した。
そう思った時、隣から笑う声がした。
「上手ね、リリー」
頭に手が触れる。暖かい手だった。
「でも、消えちゃった」
「最初はそれでいいのよ」
声もとても温かい。
「お母さんみたいにできない」
「できるようになるわ」
母の笑い声が聞こえた。
声の方へ顔を向けたが、陽射しが眩しくてよく見えない。
「リリー」
頭を撫でる手だけが、はっきりと分かる。
「この力はね、大切な人のために使うのよ」
はっきりと聞こえる。
「たいせつなひと?」
「そう」
「じゃあ、お母さんのために使う」
一瞬、間があった後、母の笑い声が聞こえた。
「そうね。お母さんも……」
*
目を開けると、薄暗い部屋だった。庭も、温かな陽射しもない。
カーテン越しの窓の外が、淡い朝の光に変わっている。
「……夢」
久しぶりに、母の夢を見た。
どんな顔をしていたのか思い出そうとするが、うまく浮かばない。
声も手の暖かさも思い出せるのに、顔だけが曖昧だった。
「……起きたか」
すぐ近くから声がして、リリーは顔を上げた。
シオンがこちらを見ている。
銀灰色の髪の下、紺碧の瞳はまだ少し虚ろだが、昨日よりは力がある。
「起きてたんですか?」
「ああ」
昨日、シオンの様子を見にきてそのまま眠ってしまったらしい。
ふと繋がれた手が目に入る。
「あの……。手、離してもらっていいですか」
見ると、昨夜からずっと手を握られたままだった。
「お前が起きるから」
ちょっと意地悪そうにシオンの口角が上がった。
「もう起きました」
「そうだな」
ようやく指がほどける。
リリーは離された手首をそっともう片方の手で包んだ。
ずっと握られていた手。
「熱は?」
ハッとしたようにリリーは聞いた。
「もう大丈夫だ」
「確認します」
額に手を当てる。
まだ少し熱いが昨夜よりは下がっている。
「夜よりは下がってますね」
「だから言っただろ」
掠れていた声も随分元に戻っている。
「まだ平熱ではありませんから」
リリーが念を押して言うと、シオンは少しバツが悪そうな顔をして言った。
「腹減った……」
*
リリーは台所に立ってから、何を作るか少し考えた。病み上がりなら、胃に負担の少ないものがいい。
——パン粥にしよう。
鍋に牛乳を入れ、火にかける。
しばらくすると、静かな湯気が立ち始めた。
あとは野菜スープも作ろうかと考えていると、
『珍しいな』
足元から声がした。
見下ろすとルウが座っている。
「何のこと?」
『リリーが朝から料理してる』
「私だって料理くらいするわ」
『自分のためにはあまりしないだろ』
確かに自分一人なら適当に済ませてしまうところだ。
「……まあ、今日は必要だから」
『俺の分も忘れるなよ』
ちゃっかりした猫だ。
しばらくして背後で足音がした。
振り返ると、シオンが入口に立っている。
「寝ててください」
「もう寝飽きた」
シオンは少し気怠げに言った。
「熱が完全に下がるまでは寝てないとだめですよ」
シオンが鍋を見る。
「……何作ってるんだ」
「朝食です。パン粥と野菜スープにしようかと」
シオンの口元が少し緩んだ。
「へえ……」
「座っててください」
リリーは冷蔵庫から出した果実水をコップに注ぎ、居間のテーブルに置いた。
シオンは珍しく素直に従った。
出来上がったお粥と野菜スープを器によそい、目の前に置く。
「熱いので気をつけてください」
「分かった」
シオンが匙を取る。
一口食べるのを、リリーはじっと見ていた。
「……どうですか」
「うまい」
シオンは次々と匙を口へ運ぶ。
そんなシオンの姿を見ていて、ふと昨夜の夢を思い出した。
——大切な人のために使うのよ。
母の声だけが、不思議なくらい鮮明に残っている。
なぜ今になって、あんな夢を見たのだろう。
「そういえば」
シオンの声に顔を上げる。
「昨日、話しかけて途中でやめただろ」
「あ、そうでした」
リリーは自分の匙を置いた。
「制約魔法というものがあるそうです」
シオンが顔を上げる。
「制約魔法?」
「特定の知識を他言できなくする魔法です。王立魔法研究所では、禁術区分の資料を閲覧した人間に使われています」
シオンの表情が真剣なものに変わる。
「あなたにかけられているものと、少し似ていると思いませんか?」
しばらく沈黙が落ちた。
シオンは匙を置いた。
「……似てるな」
「同じものとは限りません。ただ、同系統の術式なら調べる価値はあります」
確かめるようにリリーが答えた。
「ああ」
「閲覧の許可が出たら、まずそれを調べようと思います」
リリーは言ってから、お粥を一口食べた。
シオンは何も言わない。
視線を感じて顔を上げると、シオンの紺碧の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
「何ですか?」
「いや」
シオンは微笑んで首を振った。
「ありがとな」
不意の言葉にリリーは戸惑った。
「……何がですか」
「色々」
曖昧すぎる。
何に対する礼なのか分からない。
資料を調べることなのか、お粥なのか、昨夜そばにいたことなのか。
聞こうかと思ったが、やめた。
「どういたしまして」
窓の外では、いつの間にか風は止み、鳥のさえずりが聞こえていた。




