第13話 手合わせ
翌日の夕方、本当にロイはやって来た。
仕事を終えて家に戻ったリリーが玄関の扉を開けると、すでに見慣れ始めた銀灰色の頭と、昨日まではなかった赤茶色の頭が並んでいた。
「ちょっと……何してるの?」
「おかえり」
先に答えたのはシオンだった。
「お、リリー待ってたぞ」
続いてロイがこちらを見て言う。
「どうして私の家で、ロイが私を待ってるの」
「昨日言っただろ、今日も来るって。俺の方が少し早かったな」
「本当に来たの……」
リリーが呆れてそう言うと、
『ロイはいい奴だぞ、リリー』
ロイの足元で、ルウが上機嫌に尻尾を揺らしている。
「あ、そうそう。ルウの好きそうな魚持ってきたから、あとで食べようぜ」
台所を覗くと、紙に包まれた立派な魚が置かれている。
「帰りに市場で見つけたんだ。こいつ、昔から魚好きだっただろ」
『なかなか見どころがある奴だ』
「ありがとう、ルウも見どころあるって喜んでる」
リリーが伝えると、
「だろ?」
ロイは満足そうだ。まずルウを味方につけるロイは、リリーの家を熟知している。隣でシオンが魚を覗き込んだ。
「新鮮な魚だな」
「ルウにやるんだから勝手に食うなよ」
ロイがシオンを牽制すると、
『魚はシオンに渡せ』
魚のそばで魚の匂いを嗅いだルウが言った。
「ルウがシオンに渡せって」
「おい」
ロイが慌てている。
『こいつの料理はうまい』
「シオンに料理してほしいそうです」
リリーは半ば呆れながら伝えた。
「お前、数日でルウに何したんだよ」
ロイがシオンに詰め寄る。
「飯を作ったくらいだな」
「それだけか?」
「まあな」
ここにも既にルウを味方につけていた男がいた。
シオンが魚を持ち上げ、少し考える。
「貝とトマトがあったな。一緒に煮たら美味そうだ」
「あ」
リリーは思い出した。
「それなら、美味しい白ワインがあります。発泡酒の方がいいかも」
「……お前も飲む気満々じゃねえか」
ロイが呆れて言う。
「せっかくだしね」
リリーはさっそく冷やすワインを取りに食料庫に向かった。背後でロイが何か言いたげな顔をしていたが、気にしないことにした。
*
夕食までにはまだ時間があった。シオンが魚を冷蔵庫にしまうのを見ていたロイが、不意に言った。
「なあ。お前、剣は使えるのか?」
シオンが振り返る。
「まぁ、人並みには」
ロイの眉が上がった。
「じゃあ、ちょっと付き合えよ」
「何に」
「ちょっと身体動かすだけだ。手合わせしようぜ。庭、借りていいだろ?」
最後の一言はワイン片手に戻ってきたリリーに向けられる。
「庭を壊さないでよ」
「壊さねえよ」
「怪我をしないように」
「分かってるって」
「結界にも近づかないで」
「……注文多いな」
当然である。
庭に出ると、雨上がりの空気がまだ少し湿っていた。
最近よく雨が降る。
ロイは自分の剣は使わず、物置から古い木剣を二本見つけてきた。
——あんな剣、物置にあったっけ?
子供の頃よく遊びに来ていたとは言え、ロイが剣の存在を知っていることに、リリーは少し驚いた。ロイが剣の一本をシオンに放ると、シオンは片手で受け取った。
その動きを見て、ロイの目がわずかに変わった。
「本当に使えるようだな」
「そう言っただろ」
「人並みって言ってたけどな」
シオンは木剣を軽く振った。
何度か重さを確かめるように手首を返す。
構えらしい構えは取らない。
それを見ていたリリーには、シオンがどのくらい強いのかまったく分からなかった。ロイが強いことは知っている。子供の頃から身体を動かすのが好きだったし、騎士団に入ってからはさらに鍛えている。実戦経験もあるし、騎士団でも活躍していると風の噂で聞いた。
一方のシオンについてリリーが知っているのは、毎朝妙な運動をしていることくらいだ。最近は日中に庭でも体を動かしているようだが、詳しくは知らない。
「本当に無茶なことはしないでよ」
リリーが念を押すと、
「分かってる」
シオンが答えた。
「ロイに言ってるの」
「なんで俺だけなんだよ」
ロイが不満気に言った。
「シオンは怪我人みたいなものだから」
「怪我人みたいって何だ?」
シオンが小さく笑った。
「さ、始めるぞ」
先に動いたのはロイだった。
木剣同士がぶつかる乾いた音が、庭に響く。
——思ったより速い。
リリーは瞬きをした。ロイの鋭い剣を、シオンが受ける。すぐにもう一度、今度は違う角度からの一撃、それもシオンが受けるとさっきよりも強い音がした。三度目はシオンが身体をずらしてかわした。
「……へえ」
ロイが笑った。
「何だ」
シオンが平静な顔をして聞く。
「いや。人並みねえ」
次の一撃は、先ほどより明らかに速かった。
「ロイ」
「大丈夫だって」
言いながら、まったく速度を落とさない。シオンも受けるばかりでなく踏み込んだ。木剣が交差する。ロイが半歩下がるがすぐに踏み返す。その顔から、さっきまでの気軽さが少し消えていた。
——楽しそう。
リリーは呆れた。
どうして男の人というのは、棒を持って打ち合うとこうも楽しそうなのだろう。
『どっちが勝つと思う?』
足元のルウが楽しげに聞いた。
「知らない」
リリーは勝敗には興味はない。
『賭けるか?』
「賭けません」
ルウの提案を却下した、その時だった。ロイの剣を避けたシオンが、大きく後ろへ下がった。その瞬間、周囲の魔力が大きく揺れた。
「シオン!」
シオンの右足が庭の端、結界の境界を半歩だけ越えていた。
リリーの声に、二人が止まった。
シオンもすぐに気づいたらしい。
「戻って」
言いかけて、リリーは止まった。
何かがおかしい。
「いや、戻らないで」
「どっちだよ」
異変を察知したロイが木剣を下ろす。
「シオン、そのまま動かないでください」
「戻らなくていいのか?」
「少しだけ。そのままで」
リリーはシオンに駆け寄り、魔力を測る。
間違いなくシオンの魔力が減っている。
でも魔力の減り方は遅く、また均等ではない。
「……足」
リリーがつぶやいた。
「足?」
動けないシオンが訝しげに聞いてくる。
「足元が一番減ってる」
リリーはその場にしゃがみ込んだ。
「リリー?」
「動かないで」
右足の周囲へ意識を集中させる。
足先から足首、そこから膝へ。
上へ行くほど、魔力の減り方は弱くなっているが、魔力が空気中へ散っている様子はない。むしろ下だ。地面の方向へ、引かれている。
「……おかしい」
「何が?」
「魔力の減り方が、地面に近い所ほど強いんです。魔力は空気中に散ってもいない」
リリーは地面に手をついた。
湿った土の冷たさが掌に触れる。
そのさらに下にわずかだが、魔力の流れがある。
「地下に流れ出している……?」
思わず声が漏れた。
シオンとロイが顔を見合わせた。
「何か分かったのか?」
「まだです」
反射的に答えてから、リリーは立ち上がった。
「シオン、右足を少し上げてもらえますか?」
「こうか?」
シオンが足を浮かせる。リリーは目を閉じた。
——弱くなった。
「もう一度、地面につけて」
シオンが足を地面につくと流出が強くなる。
「もう一回上げて」
「おい、遊んでるのか」
足を上下させるシオンを見てロイが言った。
「必要な確認なの。ロイは黙って」
リリーは頭の中で情報をまとめていた。
「地面に近いほど、シオンの魔力が強く失われていて、逆に地面から離すと弱くなる。でも止まるわけではない」
「地面の方向に魔力が吸われてるということか?」
シオンも同じことを考えていたようだ。
「まだ断定はできないです。シオン、体調はどうですか」
「魔力は減っているが、前ほどの勢いじゃない。今は大分魔力も戻っているし、問題ない程度だ」
「前って何だよ。魔力が減る?何のことだよ」
ロイが混乱しているが、ひとまずリリーは無視した。もう一つ試したい。
「シオン。もう少しだけ我慢してください」
「何する気だ?」
答える代わりに、リリーは指先を動かした。
薄く魔力を広げる。
——大きくなくていい、シオンの右足を覆うだけ……。
靴の表面に沿わせるように、薄い膜状の結界を張った。
「うまくいったかも」
またシオンの足元の魔力を探る。
「やっぱり弱くなった!」
リリーが目を輝かせて言うと、
「何が弱くなったんだ?」
ロイが混乱した様子で聞いてくる。
「足に結界を張ることで魔力の流出量が減ったの。さっきより明らかに少ない」
リリーはしゃがみ込み、さらに結界を調整した。厚くする必要はない。
外部との接触を断つように術式を一部変える。
すると魔力の流出量がさらに減った。
「やっぱり……!」
「リリー」
シオンが自分の右足を見下ろしている。
「お前、今の結界、どうやって張った?」
リリーも自分の作った結界を見る。
「足を覆ってるだけですけど」
シオンが呆れた顔で続けた。
「結界を固定してないだろ」
「シオンが動くので」
「普通、結界は一定の場所に張る。これは俺の足に合わせて形を変えながらついてきてる」
「小さいですから」
「……お前、本気で言ってるのか?」
シオンは驚いた顔をしているが、リリーには何がそんなに不思議なのかわからなかった。もう一度結界に意識を向ける。
「これ、家の結界と同じなのかもしれない」
今度は二人とも黙った。
「同じ?」
「完全に同じとは言えません。でもシオンの魔力の流出を抑える効果がある」
リリーは家を振り返った。
地上だけではなく、地下まで完全に閉じた古い結界。地下を走る、古い魔導路。
そして今、地面へ向かって流れていったシオンの魔力。
「この家の結界は——」
リリーは確かめるように続けた。
「シオンと何かの繋がりを、切ってるのかもしれない」
沈黙が落ちた。シオンもずっと黙って何かを考えている。
「何かって何だよ?地下にあるのか?」
ロイが聞いた。
「それはまだ分からないわ」
リリーは顔を上げてシオンに言った。
「とにかく、もう戻りましょう。これ以上は危険です」
「あぁ、流石にちょっと疲れた」
結界の中へシオンの右足が戻った途端に、流出が止まった。リリーはそれを確認してから、ようやく息を吐いた。思っていた以上に気を張っていたらしい。
その時、ロイが低い声で言った。
「……ちゃんと説明してくれ」
さっきまでとは違う声音だった。
リリーはロイを見る。
「昨日は詳しく聞かなかった。でも今の見たら、さすがに放っとけない」
「ロイ」
「こいつ、外に出る度にああなるのか?」
答えようとして、リリーは口を閉じた。
「私からは言えない」
ロイの眉が寄る。
「俺にも?」
「私だけの問題じゃないから」
リリーはシオンを見る。
ロイもその視線を追った。
シオンはしばらく黙ってから、一つ息を吐いて頷いた。
「……話していい」
「シオン」
「今のを見られたんだ、話すのが道理だろう」
*
説明には思ったより時間がかかった。シオンが外へ出ると魔力を失うこと。この家の中ではそれが止まり、時間が経てば回復すること。家には普通ではない古い結界があり、それが地下まで完全に閉じていること。
古い図面には、今の家には存在しない地下室が描かれていること。そして地下には、かつて魔力を遠くまで運ぶために使われていた魔導路が存在するらしいこと。
ロイは途中で何度か質問したが、意外なほど黙って聞いていた。
「……つまり」
一通り聞き終えたロイが、テーブルの上の図面を見る。
「シオンは外では何かに魔力を持っていかれるが、この家の結界がそれを止めてるってことか」
「まだ仮説の一つだけどね」
リリーは確かめるように言った。
「でもさっき、足に結界張ったら減り方が弱くなったんだろ?」
「うん」
「じゃあもうほぼ当たってるだろ」
「可能性と断定は違うから」
「お前、本当に昔から変わらないな」
ロイが呆れたように言った。
向かいでは、シオンが図面を見ながら口角を上げていた。
リリーが何か言う前に、ルウが堪えきれないと言った様子でテーブルの上に乗った。
『おい、魚はまだか』
「あ、もうこんな時間」
話に夢中になって、夕食を忘れていた。
「作るか」
シオンが立ち上がる。
『待ちくたびれたぞ』
「ルウは何もしてないでしょ」
『待つのも仕事だ』
ロイも立ち上がった。
「魚さばくんだろ、俺がやる」
「できるのか?」
シオンは少し驚いた顔でロイを見た。
「馬鹿にすんな。遠征の野営仕込みで大体の生き物はさばけるんだよ」
「じゃあ頼む」
二人はそのまま台所へ向かった。リリーはテーブルの図面を片づけながら、二人の背中を見る。昨日初めて会ったはずなのに、今日はなぜ二人で並んで魚をさばこうとしているのだろう。
『男というのは単純だな』
「ルウに言われたくないと思う」
『俺は高尚な猫だ』
「魚一匹で買収されてたけど」
『それとこれとは別だ』
ルウが静かにリリーから離れていくと、今度は台所から声がした。
「ロイ、そこ切りすぎだ」
「食えれば同じだろ」
「火の通り方が変わる」
「お前、結構細けえ奴だな」
リリーは少し笑った。
それから冷やしておいた白ワインを取り出す。
ちょうどいい頃合いだった。
*
夕食は鍋ごと出された。
「魚と貝の白ワイン煮だ」
シオンが鍋の蓋を開けると、白身魚と貝、トマトを煮込んだ料理から、湯気と一緒に香草の匂いが立ち上る。
「うまそうじゃん」
ロイが覗き込む。
『俺の魚だぞ』
「ルウの分はちゃんとある」
シオンが取り分けた魚を皿に置くと、ルウはようやく満足したらしい。
リリーは白ワインを三つのグラスに注いだ。
「乾杯するか?」
ロイが言う。
「何に?」
リリーが聞くと、
「何でもいいだろ。シオンとこの家の謎に乾杯とか」
ロイは酒を飲む前から、すでに妙なテンションだ。
「笑えないな」
シオンが冷ややかな目をロイに向けた。
「まあでも、お前がただの怪しい奴じゃないってことはわかったよ。騎士ってのは剣を交えれば、大体わかるんだ」
「そりゃどうも」
「半分はまだ怪しいけどな。まあ、一人で抱えすぎて海の底に沈むなよ。重すぎる荷は分けりゃいい」
リリーは目を丸くした。
「ロイ……」
不覚にも、ちょっと心に沁みた。
最近気が張っていたのだと今更気づく。
シオンも目を丸くして言った。
「お前も、ただ騒がしいだけの奴じゃなさそうだな」
「お、二人とも、俺のこと見直したか。これが騎士団仕込みの団結の秘訣だ。じゃ、乾杯!」
三つのグラスが軽く触れて、綺麗な高音が部屋に響いた。
魚は美味しかった。よく冷えた白ワインも、思った通りよく合った。
男二名はよく食べ、最後にリリーは魚の白ワイン煮の出汁でパスタを作った。
「お、リリー、焦げたパンからずいぶん成長したな!」
ロイは完全に酔っている。
「焦げたパンのこと、次言ったらもうこの家に入れないからね、ロイ」
「冗談だって、すげー美味いよ、このパスタ。また作って欲しい」
ロイはあっという間に下手に出た。
「ま、俺の魚料理がないとこの味は出ないがな」
ちゃんとシオンが締めた。
片付けを終え、ロイは帰り支度をして玄関まで来ると、当たり前のように言った。
「じゃ、また明日な」
「毎日は来なくていいって言ったよね?」
リリーは訝しげに聞いた。
「今日は色々分かっただろ。明日も何か分かるかもしれない」
「仕事は?」
「終わってから来る」
「暇なの?」
「お前、俺を何だと思ってるの?遠征後だから今は割と時間があるんだよ」
リリーの後ろでシオンが笑っていた。




