第87話『唯一の異性』
診療所は住宅街のなかでひっそりと建っていた。どこにあるのか、話は聞いていたものの、サディアスがいなければ、迷いこんでたどり着けなかっただろう。そういうところは頼りになる存在だ。
診療所のドアをノックすれば、すぐに髭面が現れた。サディアスを治してくれたお医者さんだ。お医者さんは目を見開いたあと、髭をたくわえた口元を上げた。笑っている。
「おー、薬が効いたようだな。どうだ、体の調子は?」
「何ともない。あんたのおかげだ、礼を言う」
「いいや、俺に礼を言うよりも、お嬢ちゃんの看病のおかげだろう。倒れたお前さんを見るお嬢ちゃんは何とも切なげでなあ、何度、こう、抱き締めたくなったことか」
「もう、やめてください!」
この医者は、口を開けばセクハラまがいのことしか言わない。だからいつでもマージさんに怒られているのだ。ちなみに髭面をしているため、かなり歳上に見えるが、実際は40前半らしい。わたしにしてみれば、お父さん世代だ。
そんなセクハラまがいの医者だけど、「まあ、がんばれや」とわたしの頭をぽんと叩いた手つきに、不覚にも泣きそうになった。髭面に似合わない絶妙なぽんだった。
診療所を後にして路地裏を歩いていると、何を思ったのか、サディアスが吹き出した。口元は隠しているけど笑っているはずだ。どうせ、ろくでもないことだろうと予想はついた。
「異性に好かれて良かったな」
「こんなの好かれたうちに入らないから!」
「そうか、それは残念だな。お前を好む唯一の異性だったかもしれんのに」
「何で、あのおじさんが唯一の異性なのよ! それにわたしにはクラウスさんがいるし!」
サディアスの足が突然、止まる。あまりに突然だったから、わたしが数歩前に出てしまうかたちになった。
「お前とクラウスが?」
「何よ、悪いの?」
「いや」
めずらしくサディアスの口がもごもごしている。「お前とクラウスが釣り合うわけないだろう」とか、「自分の容姿をわきまえろ」とかひどい言葉を浴びせられると思ったんだけど、違った。こちらの調子が狂ってしまう。
「べ、別に、恋人だとかそんなんじゃなくて、わたしの一方的な片想いだから」
「そうか」
だから、何で反論してくれないのだろう。「それはそうだ。あの副団長殿がお前を選ぶわけがないだろう」とか、「せいぜい片想いをこじらせてろ」とか、言ってくれないといつもの調子が出ない。わたしも「う、うん」とうなずいてしまって、気まずさの段階がまた上がった。




