伊藤あかねは自覚する
教室の中は沈黙が支配してるのに、相変わらず鼓動は鳴り止まないし、赤くなった顔は元に戻らない。
きっと朔もそうだと思っていたい。
そんなお互い真っ赤になって硬直した状態で、先に痺れを切らしたのは、朔の方だった。
唐突に視線が私の顔から外れた。
それを見て、私の高鳴った鼓動は、悪い意味で早まった。
そして、やらかしたと思い込んだ脳が、赤くなった顔から血の気を引かせるよりも早く、朔が口を開こうとしていて、何を言われるか分からなくて、感情が期待と後悔でぐちゃぐちゃになった。
「俺は……」
朔がそこまで言いかけたところでポケットに入れたままだった携帯が激しくなった。
その音で私は一旦冷静になってしまった。
そして、やっぱり私は臆病だった。
朔の続きの言葉を聞くよりも、電話に出ることを優先した。
――つまり、逃げた。
「もしも……」
そこまで言いかけて、電話の相手が誰なのかさえ確認していなかったことを思い出す。
一瞬よぎった、変な電話に出たかもという不安は電話口からの怒鳴り声で、あっという間に消えた。
『ちょっと、あかね!今どこにいるの?もうみんな帰ってるんだけど!』
「あ、いや、その………」
『いいから早く帰ってきてよね!荷物も置きっぱなしで日直の亜矢が帰れないんだけど!あと比良坂見てない!?あいつ衣装着たままどっかいくから!ちゃんと見といてって言ったでしょ!』
『……ちょっと、………そ……に、怒ら……』
優子からお怒りの言葉が聞こえてきたかと思えば、多分亜矢がそれを収めようとしている声も途切れ途切れに聞こえてきた。
「えっと、ごめんちゃんと鍵しめて帰るから先に帰ってていい……」
『どっかいくなら誰かに行ってからにしてよね!全員困るじゃない!片付けもサボってたし!もう先帰ってるからね!鍵は頼んだよ!』
きっと固定電話だったら、がちゃんと言う音がしてただろう。
そのぐらい勢い任せに電話が切れてしまった。
さっきまでと違って今度は明確に気まずい沈黙が今度は教室を支配する。
何かを言いかけていた朔は、ピッタリと口を閉ざしてしまった。
「ごめん、その……先に教室に戻るね。」
「………おう。」
色々な意味で居た堪れなくなった私は、逃げるように立ち上がった。
そして小走りになりながら、教室の扉まで向かう。
朔の返事が心なしか元気なさそうだったのに、心がチクチク痛む。
このまま別れるのも、正直、よくないとは思ってる。きっと、振替休日明けの火曜日は、朔との間にぎこちないことになるに違いない。
このままじゃあれだけ壊れるのを恐れていた色々なことが壊れてしまう。そう思うと、教室に向かおうとする足が止まってしまう。
「おい、戻らなくていいのか?」
きっとまた寝そべったであろう朔が私を気遣うような声をかける。
それにまた申し訳なさと、自分が何て情けないんだという後ろめたい気持ちが溢れてくる。
せめて、何か言わなきゃ。
「きょ、今日のことは、本当になかったことにしていいから!文化祭で浮かれ過ぎてたみたい!」
「お、おう。」
朔の声が戸惑いと、ほんのちょっと落ち込んだように聞こえた。
違う、こんなことを言いたかったわけじゃない。
こんなこと言ったら本当に色々な意味でダメになる。
どうせ、変な形だけど|保育園から一緒の幼馴染《一線》は超えてしまったんだ。
だから、否定するような言葉じゃなくて――
「わ、私!今度はちゃんと聞く……じゃなくて言うから!だから、その、えっと……一旦待ってて!」
私の頭はきっと模試でも、高校入試の時にもこんな速度で回らなかっただろう。そのぐらい、一瞬で色々な考えが浮かんで、出てきた言葉は、やり直しを要求する言葉だった。
朔の返事も聞かずに勢いよく扉を開けて、閉めることもせずに走り出した。今度こそ、私は文字通りにその場から逃げ出した。
よく分からないまま、走り抜けると、見慣れた廊下が見えてきた。どうやって、あの教室に行って、戻ってきたのか分からないけど、なんとか教室までは戻れそうだ。このまま走って戻れば、顔が赤いことの言い訳はうまくできるはず。
あんなのほとんど言ってしまったようなものだ。そして、とうとう認めてしまった。
――私が朔のことを好きだってこと。
あんなに認めることを怖がってたくせに、不思議と後悔の気持ちは湧いてこない。
きっとずっと私は否定されるのが怖かっただけなんだろう。
朔も同じ気持ちなのかもしれないと思ったら、よく分からない勇気が出てきて、盛大に色々やってしまった。
ただ一つ後悔があるとすれば、朔にかけてしまった言葉。
『期待していいの?』とか相手に言わせるつもり満々で、なかなかずるい言葉だったと思う。
だからこそ、今日のことはちゃんと仕切り直すべきだった。それに、朔に宣言してしまったのなら、ちゃんと言わないといけない。
だとしても、『待ってて!』の言葉もだいぶずるい。
朔も同じ気持ちなのかどうかは、本当のところどうか分からない。
私が都合のいい思い込みをしてるだけかもしれない。
でも、これ以上逃げる真似はやめる。
私はきっと今までずっと卑怯だった。朔が他の人には多分しないであろう色々な気遣いを、見て見ないフリをして、都合のいい距離感を守っていただけ。
ーー私が朔のこと好きだって言わなきゃ。
文化祭マジックで浮かれてたなんてことは絶対ない。
私が認めたのも、決意を固めたのも、文化祭の形跡が一切ない、空き教室と片付けられてしまった廊下だ。
私の人生最後の文化祭は、文化祭とは関係ないところで、記憶に残る日になってしまった。
開けっぱなしになった扉を、朔は茫然と見つめていた。
うっかり口を滑らせてしまったのは俺かあかねか分からない。なぜこうなってしまったのか分からない。
桐山が、『あかねが最終問題を求める挑戦者に囲まれて困っているから助けに言ってあげて!』なんて言ったのを間に受けて、翠の悪ふざけで着替えさせられたまま向かった俺が悪かったのか?
『期待してもいいの?』
そう言って、顔を真っ赤にしながら、俺から目を離さなかったあかねのことが頭から離れられない。
赤くなった顔に、一切視線を逸らさずに俺を見る目。いつもと違って、リップを塗ってはっきり赤色を乗せた、歪ませてしまった唇。
ずるい言い方をされたから、なんとか理性を総動員させて、あかねの言葉を否定しようとした。
電話がなって、致命的な一言を言わずに済んだことに心底安堵した。
あの時ほど大河に感謝したことはない。
このまま何も言わなければ、気まずくなったふりをして、うまくあかねから離れられる。
そう思っていたのに。
『わ、私!今度はちゃんと聞く……じゃなくて言うから!だから、そのえっと……一旦待ってて!』
あかねが何を言おうとしてるのか分からないほど、鈍感じゃない。
ただ、今度こそはっきり言われたら、ちゃんと答えを言わなければならない。
俺の本心がどうかなんて関係ない。
ちゃんと手酷く振ってあげないといけない。
あかねを傷つけるかもしれないけど、俺たちの間に溝ができて、そのまま俺はあかねの日常から消えることができる。
でも、あんなずるい言葉でも理性を総動員させないと否定の言葉が出なかった俺が、面と向かって言われた時に、ちゃんと否定できるのだろうか。
「くそ……。」
思わず悪態をつく。俺はみんなと最後まで、一緒にいられない。いてはいけない。高校までが限界だ。ちゃんとそう取り決めたし、覚悟もしたはずだ。
――あかねがいつか言ってくれる日までは、いつまでも待ってもいいんじゃないか?
そんな思いが芽生えて、いつかにした決意が揺らいでいく。
あかねが決意を固めるのがいつかなんて俺には分からない。
でも、それでも。どうかその日が卒業式の日であってほしい。元々想定してた別れの日に、ちゃんと別れる理由ができる。
こんなことになるなら、今日なんてサボって仕舞えばよかった。今日サボれば、あかねの本心なんて気づかないで済んだのに。
人生最後の文化祭だからとかる気持ちで今日、学校に来てしまったことを俺は後悔していた。




