非日常の校舎から離れた場所で
結局最初の数ページしか読めなかった「不思議の国のアリス」とついでに「鏡の国のアリス」をカウンターに持っていって、貸出手続きをしてもらった。
ちょっとしか読んでないけど、読み終わらずにいるのもなんだか嫌で、結局借りてしまった。
エアコンの効いた図書室から一歩出ると、なんとなく廊下が蒸し暑くて思わず顔を顰める。
いつも通りの学校の廊下から、装飾だらけの廊下まで戻ると、進行方向の先に軽く人だかりができているのが見えた。
……どこの誰だか知らないけど、やるなら人の迷惑にならないようにしてほしいなあ。
教室に戻るにはあそこを通るしかないのに。
ため息をつきながら、人だかりに突っ込もうとした時、人だかりを割って誰かが私の方に走り抜けてくるのが見えた。
つい最近まで教室でよく見た、服飾係の子たちの悪ノリでできた、やたらと格好良くなった時計ウサギ。
正確にはミュージカルの王子様役みたいな服装に、ウサみみのついた仮面がついてる時計ウサギの原型がない衣装。
さっきどこの誰だか知らないと思ったけど、正確にはうちのクラスの男子の誰かだろう。
人だかりができていたのも、あんな格好で顔が分からないから、女子がはしゃいでしまったせいだろう。
ともかく、時計ウサギが人混みを割ったおかげで、私は無事に教室に戻れそうだ。
さっきまで人だかりになっていた場所では、興味をなくして別のところに移動する人、好奇心で時計ウサギを追いかける人で別れたおかげで、普通に人が通れるようになっていた。
クラスの誰かはわからないけど、女子との追いかけっこには頑張って逃げ切ってほしい。
時計ウサギとすれ違いながらそう心の中で祈っていたら、その時計ウサギに手を掴まれた。
そしてそのまま引っ張られるものだから、私も時計ウサギと一緒になぜか逃避行をする羽目になっていた。
「え、ちょっと!ねえ!転けるってば!」
時計ウサギは私の声を聞く気はないようで、グイグイ手を引っ張ってくる。私がブレーキになってしまっているせいで、一部の女子に追いつかれそうだ。
時計ウサギもそれに気づいて手を離してくれた。変なことから解放されたと安心したのもほんの一瞬で、気がついたら私の両足はなぜか床から浮いていた。
「は?」
持ち上げられたと気づくのに時間がかかった。
そのまま時計ウサギは私を抱えているのにも関わらずさっきよりもスピードを出して、女子たちを置き去りにしていった。
午前中に乗った人力コーヒカップよりもひどい揺れに、私は目が回ってしまって、私は学校のどこを通っているのかさえわからなくなった。
私が目を回して、とうとう気持ち悪くなりかけた時に、急に時計ウサギは止まって、ガラガラと扉を開く音が聞こえた。
どこかの教室に入ったらしい。教室の割には薄暗いし、なんだか埃っぽい。
時計ウサギがドアを閉めて、またガラガラと扉の音が聞こえたところでようやく私の両足は地面についた。
やっぱり酔ってしまったみたいで少し気持ちが悪い。そのまま座り込んで、
私がこうなった原因の時計ウサギを見上げると、若干慌ててるように見えた。こんな気持ち悪くなってなかったら文句の一つでも言ってやったのに。
「おい、大丈夫か?」
時計ウサギからものすごく聞き覚えのある声が――具体的には保育園の頃からほぼ毎日聞いてる声が出てきて、私の吐き気は一瞬で引っ込んだ。
朝のステージといい、この男は今日一日どれだけ驚かせることができるのかチャレンジでもしてるんだろうか。
驚きのあまり反応できずに固まってしまったのを見て、本当に体調がやばいと勘違いしたのか、わざわざかがみ込んで顔色を窺ってくる。
無意識なのか距離が近い。心配してくれてるんだろうけど、ウサギの仮面の下から朔の声が聞こえてくるからなんだか違和感がすごい。
「なあ、お前本当に大丈夫か?顔色わる――」
「ごめん、その顔で近づかないで。気持ち悪くなる……。」
「……。平気そうだな。心配して損した。」
ものすっごく言葉選びを間違えた気がする。とんでもない言い方をした。
違和感すごいから仮面外してくれるとか、もうその仮面外してもいいんじゃないとか、色々言いようはあったはずなのに、何も考えずに出てきてしまった言葉がこれだ。
それでも朔は憎まれ口を叩きながらも仮面を外してくれるあたり、なんだかんだ優しい。そしてその優しさに私は無意識に甘えてしまっているんだろう。
仮面を外していつも通りの朔の顔になったのに、着ている服は王子様みたいになっているから、ちょっと面白いことになっている。
思わず笑うと鋭い目線が飛んでくる。どうせ怒ってるわけじゃなくて照れてるだけだろうから。
「ねえ、その服どうしたの?時計ウサギは別の人がするはずだったよね?」
「……瑠璃と翠にやられた。もう寸劇は終わったからせっかくなら着ろってさ。」
「大人しく着てあげたんだ。」
「翠のやつにいつの間にか早着替えさせられた。」
「どうしてあんなとこいたの?」
「教室追い出されたんだよ。」
なんだか尋問じみた会話だ。
別にただ、気になることを聞いてるだけなのに。
埃っぽい教室は締め切ってるせいか少し暑い。パタパタ手で仰いでいると、朔も暑かったのか、無駄に重ね着している上着を一枚脱いだ。
そしてそのまま、窓を開けにいった。こういうところは昔から気が回る人だった。私も後に続いて他の窓を開けに行く。会話は一旦そこで途切れた。
とりあえず教室の窓を全部開けると、カーテンがひらひら揺れて陽の光が少しづつ途切れ途切れに入ってくる。床に反射する光はまるで水面のようだった。
なんとなく教室を見渡していると、窓際のあたりだけ埃が積もっていないことに気づいて、そこに座り込む。すると、朔も隣に座り込んだ。
きっと私の隣ぐらいしか綺麗じゃなかったのが理由で、多分、特に他意はない。
ちょっと涼んで、体調も元に戻ったところで、一番、朔に聞くべきことを聞いてないことに気づいて、口を開く。
「なんであんなことしたの?」
「……あんなこと?」
「いや、女子から逃げるのに、なんでわざわざ私を抱えてまで連れてきたの?」
「いやだって……お前。……まさか。」
私からそんなことを聞かれるなんて思ってなかったのか、朔が言葉を詰まらせる。
私はなんで朔が言葉に詰まったのかも、さっきみたいな行動をしたのかも分からなかった。
言葉に詰まった朔は何かがわかったらしく、ひどく苦々しい顔をした後に、若干苛立ったかのような声で言った。
「なんでもない。」
「流石になんでもないことはなくない?」
私の追求に朔はまた言葉を詰まらせる。
じっと朔の顔を見ていた。朔が何か言うまで目を逸らすつもりはなかった。
朔は何を言おうと考えているのか、いつも通りの無表情に近い顔は変わらないけど、目があちこち泳いだり、口が動いたりしている。
高校に入ってから表情があんまり変わらなくなったけど、そう言うところは昔から変わらない。
翠とかと一緒にバカなことをして、先生たちやおばさんたちに怒られて、言い訳していた時と変わっていなかった。
そして、とうとう諦めたのか口を開いた。
「……桐山とかに嵌められたんだよ。」
「え?亜矢に?一体何言われたの?」
想定外の名前が出てきたことに驚いて、思わず聞き返す。
今度こそ朔は目すら泳がせずにいつも通りの無表情を保っていた。
これじゃあきっといくら聞いても、これ以上のこと教えてくれないだろう。でも、気になるものは気になる。しつこく追求を繰り返す。
今度こそ本当に尋問のようになってしまった。朔はそれに耐えきれなくなったのか、今度は不機嫌そうに口を開いた。
「うるせえな。どうだっていいだろ。」
「でも、気になるものは気になるし。」
怒られてしまった。それでも引けなくて私はあの手この手で朔から聞き出そうとした。
それでもやっぱり朔は教えてくれない。そんなやりとりを数回繰り返すと、朔は諦めたのか、深々とため息を吐いて、今度は呆れたように口を開いた。
「わかったよ。うるせえから教えとく。ただ……。」
「ただ?」
やっぱり、なんだかんだ朔は優しい。それかきっと私に対して甘いんだろう。子供みたいな真似をしている自覚はあったけど、結局こんな時に朔は折れてくれる。
どんな言葉が続くのか気になって、また朔の顔をじっと見る。朔は私から目を逸さなかった。
「代わりにバレンタインの時、なんであんなことしたか言えよ。」
「えっ、あ、ちょっと!なんで今更!」
唐突にバレンタインのことを引き合いに出された。
予想外の反撃を喰らって、思わず立ち上がってしまった。
そんな状態でも朔は私から目を逸さないものだから、なんとなく恥ずかしくて教室の隅に視線を向ける。
朔が笑う声が聞こえた気がする。さっきまで私の方が朔に、色々追求していたのに、立場がまるっと入れ替わってしまった。
そしてここまでされてようやく私は、朔が言った「亜矢に嵌められた。」の意味が分かった。
バレンタインの時の私みたいに、外堀やらなんやら色々と埋められて、ああした行動をする羽目になったんだろう。
具体的にどんなことをされたのかは分からないけど、私はこれ以上何も聞けなくなった。
だって、これ以上追求して仕返しにバレンタインのことを色々聞かれるのも恥ずかしいし、「じゃあなんで本当にちゃんとチョコを渡したんだ?」とか聞かれたら、何を言っても墓穴を掘る気がしていた。
あとあと考えれば、悠月ちゃんを私も買収するとか、朔と口裏合わせるとか色々やりようはあったのに、私はしなかった。
その理由を聞かれても説明できないし、下手なこと言っても良くない。
「私も言いたくないからもう聞かない。」
「そうかよ。」
相変わらず目線を逸らしたまま、また座り込んだ。
鏡がないから分からないけど、なんとなく顔が赤い気がして、朔の方に顔を向けられなかった。
そして、お互い黙り込む。
カーテンが風に揺れる音だけがしばらく教室の中で響いていた。いつもだったら沈黙に耐えきれなくて何か話しかけるんだけど、今日はなぜかこの沈黙が心地よかった。




