第四章 - 犬猿の決戦(Ⅳ-11)
これから始まる死闘に期待を膨らませていたギャラリーたちが沈黙する。
熱気に包まれていたフィールドが、一気に沈静していく。
「……なに、言ってるの……?」
静寂を切り裂いたのは、怒りに震える声だった。
その声の発信源が、息もつかせず、怨嗟に彩られた目で俺に詰め寄ってくる。
「どういうつもりよ……?」
一歩ずつ距離を狭めるたびに、コマ送りのように、涙が湧き出る。
俺のすぐ目の前。
互いの呼吸が感じられるような位置で。
――ぱしんっ。
と、乾いた音。
狗上が俺の頰を思い切り打った音だった。
「説明しなさいよぉッッッ!」
さらなる注目を集めることも厭わず、激情を叩きつけてくる。
怒りをあらわにする狗上に、俺は。
「アホか、お前は」
頭の中に渦巻く無念も。
胸の内に秘めた葛藤も。
すべて押しとどめて、いつものように口を開く。
「ケガ庇ってんの見え見えなんだよ。無理して肘ぶっ壊したらどうすんだ」
「…………ッ!?」
「気づかないわけねえだろ。ペアなんだから」
努めて穏やかに告げると、狗上の目に驚愕の色が芽生えた。
やがてそれは形を崩して……感情の奔流に飲み込まれる。
「……ぅぅっ……ぐすっ……」
泣いたら、からかってやろうと思っていた。
綺麗な顔が台無しだぞ――とかなんとか言って。
けれど、そんなのは野暮だ。
ここまできて悔しいのは俺も一緒だ。
それが相手への負けでなく――自分への敗北なら、その辛さは倍増する。
けれど、狗上の口から漏れ出たのは、俺の想像とは少し違う言葉だった。
「でも……ぐすっ、……でも、……ぇぅ、こっ、ここで、勝たないと、優勝できないもん……! あんただって、大学に行きたいんじゃないの? そのためにあんたは、あたしとここに来たんでしょう!? あんたは……それでいいの……?」
初めて目にするその姿は、俺の心を揺さぶるには充分すぎるくらいの威力を持っていた。
「やだよぅ……」
まるで幼い子どものように。手首で涙を拭いながら、狗上はボロボロと涙をこぼす。
「えぅぅ……、ぐす……っ! あ……あんたは、いつだって前向きで、一生懸命じゃない……! あんたの歩く道を……あたしが潰すなんて……そんなのやだ……やだよぅ……っ」
こいつ……俺のことを考えてくれていたのか?
俺のために、泣いてくれるのか?
少なくとも、狗上優姫という女は、そんな感情とは無縁の生き物だと思っていた。
なのに、他人を切り捨てる選択をしたお前が――俺のためだけに、泣いてくれるのか?
感情が込み上げてくる。だからこそ、毅然とした姿で、伝えるべき言葉を届ける。
「俺の道は、潰れてなんかいない」
俺だって悔しい。
栄光の目前で、そこに届かないもどかしさに喉元を掻き毟りたくなる。
けれど。
「狗上。俺の夢は『テニスを続けて生きていくこと』だ。お前だってそうだろ?」
なだめるように語りかけると、狗上はしゃくりあげながらコクリと頷いた。
そう、目的はテニスを続けること。その手段として大会に出て、優勝して、賞金とって、実績を作るという道を選んだ。そして今、こうして俺と狗上はこの場に立っている。
優勝することは手段のひとつであって、目的ではない。
巡り巡った思考は、最終的にそこに帰結した。
「これは俺たちふたりの夢なんだ。ふたりが夢を描くなら、それは未来だ。お前が倒れたのに俺だけ先を急いだら、それは単なる俺のエゴになっちまう」
ふたりで力をあわせてたどり着いた、高天原オープンの決勝戦。
ひとりではスタートラインにすら立つことが叶わなかった舞台。
だから――俺が狗上をないがしろにする選択肢などありえない。
「それでもお前が申し訳ないと思ってくれるのなら、そうだな――」
俺は狗上へと握手を求めながら、こんな提案をしてみた。
「――いっしょに回り道をしよう。いつかまた、俺とペアを組んでくれないか」
「……ばかじゃないの……ほんとうにいいのね……?」
狗上はぐしゃぐしゃの顔を袖で拭って、無理やり口角を上げる。
そして俺の手を取りながら――提示した『約束』への答えを告げた。
「あたし……もう、あんた以外とは組めないわよ。責任、取りなさいよね」
「ありがとう」
俺はにっこりと、笑って頷いた。
こういうことだろ、ねえさん?
「さあ、次の未来を探しに行こうぜ。相棒」




