第四章 - 犬猿の決戦(D-8)
いつものあたしなら――クロス方向にドロップショットを落とす局面。
経験か、直感か――それとも、強敵に対するある種の信頼か。
ラケットの入射角を寸前で変え、思い切り叫び、自らを鼓舞しながら。
一閃!
「サイドがガラ空きよッ、真尋ッッッ!」
直線上、誰も居なくなったストレートコースに全力で打球を叩き込んだ。
敵陣の空間を縦に裂き割るように、緑色の放物線が描かれる。
『すっげぇ……見たか、いまの……?』
『直前で握り方、替えてたよな……?』
『あそこからストレート打てるのかよ』
観客のざわめきと拍手が、空っぽになった脳内を満たしていく。
「よっしゃあぁぁぁぁッ! ナイスボールだ狗上ッ!」
ネット際の攻防に明け暮れていた申渡が、こちらを振り返って拳を掲げる。
あたしも反射的に、ぐっと握り込んだ左手を突き上げた。
――あんたにばかり、良いところは取らせないわよ?
そう、気持ちを込めて。
「……おねえちゃん?」
そんな折だった。
ずかずかと、真澄が真尋のもとに詰め寄っていく。
なにをするつもり……?
「ひっ」
ぐい、と真尋の首根っこが引っ張られ、短い悲鳴が上がるのはほぼ同時のことだった。
引き絞られたジャージが伸びて、細い腰つきがあらわになる。
「ねえ。その長い腕は、いったいなんのためについてるの?」
「すまない、真澄……まさか、あの場面で逆サイドを抜かれるなんて思わなくて……」
「僕が態勢を崩したから、今度もまたドロップが来るって思ったわけ?」
こくり、と真尋は頷いて。
「以前の優姫なら、ぜったいにドロップを打ってきていた。ストロークで相手を崩して、おざなりになった前の守備の間隙を突くみたいに。一片の慈悲もなく、あくまで合理的に……」
そのはずだったのに……とでも言いたげに真尋は視線を落とす。
そんな様子の姉に、真澄はあきれたように嘆息し、そして。
笑った。
「あのさぁ、目の前のアレ……いままでおねえちゃんが戦ってた狗上さんじゃないんだよ?」
そんなこともわかんないの? と鬼は問いかける。
「さっきのアイコンタクト見た? 前衛と後衛の連携、完璧だったじゃん? 聖蜂の番犬なんて呼ばれてたころの狗上さんがあんなプレーできると思う?」
「思わない……思うはずがない……!」
「だったら捨てなきゃダメじゃん。過去の記憶も、先入観も。ゆうくんはソフトテニスの経験を、狗上さんは以前のプレースタイルを、それぞれ喰ってるわけ。過去を喰って未来に変えてるわけ。だったら――おねえちゃんも根本的に思考を変えなきゃダメなわけ。わかる?」
そんな鬼頭真澄の言葉に、あたしは思わず戦慄した。思わず独り言が漏れる。
なんてこと。
「冗談、キツいわよ……」
笑う鬼――真澄は、激情だけで破壊的なテニスをしているわけじゃない。
この戦いの中で、きちんと相手を分析して、それを戦術に役立てている。
そうした知的さも兼ね備えているというの……?
こんな相手に、いったいどうやって立ち向かえば……。
「うぅ……すまない真澄……次こそはぁ……」
「言い訳はいいから、結果で示してくれる?」
非情だが、しかし的確な指摘。
結果で示す――それは、点を獲るという行為でしか成し得ない。
きっと、いまと同じコースへ、簡単に球は通らなくなる。
「……おもしろくなってきたじゃねえか」
いつのまにか、あたしの目の前にやってきた申渡が、そんな言葉を漏らした。
「おもしろいって……あんたのメンタルどうなってんのよ」
「システマチックに得点が決まるゲームなんてくだらねえだろ。一球一球が全力の殺し合い、ひとつのミスが負けにつながる駆け引き。そんなテニスのほうが、やってて楽しくねえか?」
「――――ッ」
当たり前のように返されて……思わず、頰が緩んでしまった。
「……あはっ」
そんなあたしに対して、申渡が怪訝そうな目を向けてくる。
「……怖えな。いきなり笑い出しやがって。どうした、身体より先に心がぶっ壊れたか?」
「いえ、なんでもないわ。ただ……ちょっと可笑しくって」
はじめは、どこの馬の骨とも分からないような人間で。
いつでもポジティブ思考で、諦めることを知らなくて。
能天気にも見える姿勢に、時には苛立ちもしたけれど。
「まさか、たった数ヶ月で……こんなに人間が変わるなんてね」
ああ、ほんとに――あたしの相棒は、頼りになる男だ。




