第三章 - 犬猿の発展(C-6)
授業が終わりしだいテニスウェアに着替えて、ラケットとスクールバッグを抱えてコートまでランニング。15分ほどで練習場所に到着すれば、もうウォームアップは完了している。
すっかり日課となった行動パターンだけれど、このところ発汗量が増えた。代謝は変わっていない。変化したのは気候のほうだ。梅雨が早めに明けたこともあって、すっかり夏の様相。
桃子さん指導のもとで練習をはじめてから、あっという間に時間は流れた。
「ほら悠坊、もう1球いくぞー」
「軽く言うんじゃねえ! ――っしゃ来いやッ!」
申渡は相変わらず、でたらめなトスマシンを相手にボレーの練習を続けている。驚くことに申渡は、目視するのも難しい速度のボールに、わずかな期間でもう球に慣れてしまった。
常々思うことだけれど――こいつの順応性はいったいどこから来ているんだろう。
狗上優姫に無くて、申渡悠希にはあるもの。
それはなにも、テニスに関わることだけではなくて。
たとえば、あたしはこの男の抱える事情を知っている。
他人には易々と踏み込めない、抗いようのない家庭環境がそこにはあった。
けれど申渡は悲観することなく、ソフトテニスのコーチを続けつつ、あたしという共闘者を探し出し、硬式テニスへの転向を頑張りながら、今はマシンの放つボールを受けている。
逆境に負けない、ひたむきな強さ。
それはテニスの試合にも直結する。
心から認めたくないのだけれど、あたしと申渡の間には明確な差がある。
それは男女間の性差でも、硬式と軟式の区別でもなく――『全国大会の常連』止まりのあたしとは異なり、この男は実際に全国を制している。
つまり、この男には一度も負けなかった実績があるのだ。負けるのは嫌いだ。悔しいし、あたしよりも努力を重ねている人間が目の前にいるという現実に打ちのめされるから。
――どんな景色なんだろう。
――どんな想いなんだろう。
勝ち続けた先にあるものって、なんだろう。
そんなことを考えていると。
――ひゅんっ。
あたしのすぐ脇を、桃子さんの返球がかすめていった。
「優姫ちゃんボサッとすんなよ。悠坊のボレーが返ったら、間髪入れず後衛のストロークに繋げねえと。鬼頭姉弟に限らず全ての相手に使う流れだからな? 叩き込んでおきなよー?」
「……は、はいっ」
あたしは狼狽しながらもラケットを構えて前を向く。この短期間で申渡の前衛としてのスキルは格段に上がっている。
ボレーをはじめとするネットプレー、甘く上がったロブに対するスマッシュ。
目にも止まらない速球をいとも簡単にボレーする様はまるで手品のようだった。
申渡が跳ね返したボールを、今度は桃子さんが容易く拾い、あたしのセットポジションのちょうど逆位置を狙って返球してくる。
スマッシュがあさっての方向に飛んで行った場合は代わりのボールが上がってくるため、擬似的にラリーは続く。
「――――はぁ、はぁ……っ! ――――ふっ!」
何本目になるか分からない、永遠にも思えるショットを叩きこんだところで、桃子さんの口から「休憩〜〜!」と声が飛んだ。
「おいおいねえさん、俺はまだまだ行けるぜ! もっと来いよ!」
「うるせえスタミナ無尽蔵おばけ! こっちはヤニ切れて死にそうなんだよ休憩させろ!」
「スポーツマンにあるまじき理由で休憩取りやがった……」
「アホか。ウチは元選手だっつうの。タバコくらい吸わせろや。今のうちに優姫ちゃんとプレーのおさらいしとけよ。次は優姫ちゃんのショットから展開始めっからな」
そう言って喫煙所のほうへ消えていく桃子さん。
その姿が見えなくなるのと同時、申渡があたしのところへやってきた。
「ってわけなんだが、なんか気になるところあったか?」
「……気になるところ……?」
かけられた言葉を反芻して。
「……教えて欲しい。全国大会の頂点に立つとどんな気持ちになるの? 勝ち続けた先に待っていた結果が全国制覇でしょう? その先に、いったいどんな道が見えたの?」
あたしは、思わず胸の中に湧いた疑問をぶつけていた。
申渡は「うん……?」と首をかしげる。気持ちは分かる。あたしだってきっとそうする。
「てっきりプレーのおさらいでもするのかと思ってたんだが、意外だったな」
「だってあんたのプレー、ほぼ完成してるし。それよりも聞きたいことがあったから」
「うーん……そうだなあ……」
腕組みをして目を閉じて、申渡は柄にも無く考え込んでから。
「勝ち続けた先にあるもの? なんもねえよ。ただ、今まで歩いてきた道が続いているだけ。その道を歩いていることが楽しいなら、それは続ける理由になるだろ?」
その答えを聞いた瞬間、あたしの中でなにかが吹っ切れた。
続けることが楽しいなら、その楽しさを享受し続ければいい。限界まで。
あたしは再びラケットを構え、ショットを打った。
何度も、何度も、何度も。
決戦の時がやってくる、その時まで。
何度も、何度も、何度でも。




