第三章 - 犬猿の発展(C-3)
――40分後。
申渡の声が耳に届いた。
「6対2で試合終了、勝者は狗上(ゲームセット・マッチ・ウォンバイ狗上! 6ゲーム・トゥ2!)!」
「…………は?」
つい今しがた試合を終えたばかりなのに、あたしは思わずそんな声を漏らしてしまった。
あっさり勝ってしまった。元プロに。
なにが起こったんだろう。自分でもわからない。
動揺を抑えながら対面を見ると、桃子さんが汗みずくで息を荒げていた。
「ぜえ……ぜえ……しぬぅ……脳が運動を拒否してるぅ……」
しぬぅ、しぬぅ、と干からびたような声を出しながら苦しむ桃子さんに、審判台から降りた申渡がペットボトルを手に駆け寄っていく。
「引退してから一切運動してねえとは聞いてたが……なんて体たらくだ……」
「はぁ……はぁ……み、水……」
まるで飢えた犬みたいに舌を出して水分を欲する桃子さん。
「昨日話してなかったか? 昼間でも動けるようにしとけよって。なんなんだあれ。途中からぜんぜん足動いてなかっただろ。とんだ噛ませ犬じゃねえか。ドーベルマン対チワワかよ」
「そんなことより水ぅ……しぬぅ……」
「そんなに水が欲しいのか? それなら頼みかたがあるんじゃないか?」
「水をください悠希さま」
「ほら、たんと味わえよ」
そう言って申渡は桃子さんの首筋に冷水を浴びせた。「んひゃぁ」と歓喜の声が上がった。
なんだろうこれ。
目の前のやりとりを視認しながら、疲労した頭をフルに使って思考した。
2ゲーム取られたところまでは覚えている。
サーブの精度、強力なショットに緩急のついたボール回し。ほんとうに半年間ラケットを握っていなかったのかと疑いたくなるようなプレーが何度もあったし、悔しいけれど……中盤までは敗北を覚悟していた。
けれど、この試合は6ゲーム先取の1セットマッチ。
3ゲーム目から桃子さんの動きは目に見えて精彩を欠き、みるみるうちに崩れていった。
雉沼桃子というプレーヤーの代名詞でもあった粘り強さは鳴りを潜めて、きわどいコースを攻めるだけで、たやすく勝敗が決してしまった……ということ。
「ごめんごめん優姫ちゃん、途中から完全に燃料切れだったわ。ホントはサクッと勝って、今日からウチがお前らのコーチだー! ってドヤ顔する予定だったんだけど」
「……いえ、あの、戦えて光栄でした。特にあのサーブとか、試合中継で何度も見てたし」
なにを言うべきか分からず、もにょる。
すると桃子さんは、そんなあたしに握手を求めてきた。
「実際に戦ってみて分かった。優姫ちゃんは強い。上手いだけじゃなくて、強い。テニスって競技は自分の失敗が相手の得点に直結するスポーツだ。つまり相手がどんな状態であれ、自分のプレーと向き合う集中力を持ってるやつが強い。……実際、優姫ちゃん、試合が終わるまでずっと集中して、この1本をどこに叩き込むかってことを考え続けてたんだろ?」
はっきりと言い当てられて驚いた。
たしかにその通りだ。
だからこそ、試合が終わってから何がなんだかわからなくて動揺したわけだし。
「さてと……。優姫ちゃんが全力で戦ってくれたおかげで、ウチもなにをしてやればいいのかを掴めたよ。元プロの力を貸してやるぜ、頼りにしてくれよな。これからよろしく!」
「……は、はい」
未だに混乱が残ったままのあたしの手を握ってから、桃子さんは振り返って。
「いい相棒を見つけたな、悠坊」
「だろ?」
言葉少なに交わされるそんな会話に、少しだけ頰が熱くなるのを感じた。




