第三章 - 犬猿の発展(C-2)
話がまとまって早々、桃子さんはコートの対面に移動した。
腕を軽く回したり、その場でぴょんぴょん飛び跳ねたり、運動前の動的ストレッチを淡々とこなしている。
あたしは審判台に向かおうとする申渡の背中に、恨み節をぶつけた。
「どうして黙っていたのよ。プロが身近にいるなんて」
先ほどの問いと重なる。けれど明らかにしておきたかった。
あたしたちは、お互いに『環境』を失ってコートに立てなくなった者同士だ。
元とはいえ、プロと繋がっているのなら……たとえば桃子さんの伝手でペアを探すとか、他にもやりようはあったはず。
立場を利用しなかった理由を知っておきたい。
申渡は考え込む様子もなく、さらりと答えた。
「言っただろ、必要性がなかったからだって。それに――いくらプロが身近にいるとしても、それを俺がひけらかすのは違うだろ。すごいのはねえさんであって、俺じゃねえんだ。他人の威を借りて自分を高く見せるようなやつと、ペアを組みたいって思うか?」
あたしは言葉を失った。
それが当然だと信じて疑わない態度に驚いて。
申渡はふたたび背を向けつつ――こんなことを言った。
「誰かに引っ張り上げられるなんて御免だ。俺はテニスを続けたい。続くんじゃない、続けるんだ。自分の意思で。だから、自分の力で土俵に這い上がりたいと思った。それだけだ」
審判台に登る背中をぼーっと眺めながら、申渡が提示した答えを噛み締めて反芻する。
受動的に運命を受け入れることと、能動的に未来を切り拓くことには天地の差がある。
あたしにも感じるところはあった。
あのまま自分の信念を曲げず、テニス部を続ける選択肢だってあったはずだ。
けれど、あたしはそれを否定した。
環境は違えども、この男とあたしはやっぱり……同じなのだ。
ラケットを抱えなおしてネットの中央へ向かう。サーブ権を決めるため、桃子さんもこちらにやってくる。センターベルトを挟んだ向こうから、ニヤニヤしながら声をかけてきた。
「優姫ちゃん。ウチに勝てたら悠坊の好きな女のタイプを教えてやるよ」
「必要ありません」
端的に答えると、審判台から慌てた声が飛んでくる。
「なんで賭けの対象が俺なんだ!? 巻き込まれ事故なんだが!?」
はじめに巻き込まれたのはあたしのほうなんだけど。
「んで、ウチが勝ったら悠坊の童貞をもらう」
「頼む狗上、勝ってくれ。俺はまだこんなところで貞操を奪われたくはない」
どういうことだろう。会話についていけず、あたしは静観を決め込むことにした。
「さっきからうるせーぞ、痩身長髪ドストライクの脚フェチ野郎!」
「言いやがった!? もう全部言ってるからそれ! 賭けが成立しなくなっちまった!」
騒がしいふたりをよそに、あたしはラケットをコートに立てて問いかける。
「……フィッチ?」
桃子さんは申渡とのやりとりもそこそこに、不思議と通るハスキーボイスで答えた。
「スムース!」
返答を受け、あたしは指の先でラケットをくるくる回転させ、重力にその表裏を委ねる。スムースが表、ラフが裏。試合前にサーブ権とコートを決める世界共通のルールだ。
やがて回転が止まり、グリップに描かれたエンドマークを確認して。
「おっけー、んじゃサーブもらうわ。容赦しねえから覚悟しとけよー?」
桃子さんが張り切った様子でベースラインへと向かう。
「んじゃとりあえずウォームアップといくか……ほいっ!」
ぽんっ。と間の抜けた音を立てて対面からボールが放たれる。
試合前には5分ほどウォームアップの時間が与えられる。公式戦でも同様。あたしは常に、ここで相手の利き腕やフォーム、得意な打球、苦手なコースなどを分析する。
相手が元プロだからといって、やることは変わらない。今の自分が持っている勝負勘と技術をラケットに乗せて、1本1本、堅実に走り、ラケットを振り抜くだけ。
ラリーを数本続けたのち、桃子さんはあたしの打球をいなして、素手で掴み取る。
「ついでにサーブも打っとくわ。いくぜ――――ッ!」
そのまま上空にトスを上げて、桃子さんはその場でぴょんっ、と飛び跳ねた。
――身長の低さをカバーし、より高い打点を求めるジャンプサーブ。
現役時代の桃子さんの得意球。画面越しに何度も見た特徴的なサーブ。あたしはぎゅっと地面を踏みしめて、来たる打球に身構える。
刹那。
ずどんッ! と痛烈な音が響いて、自陣へと緑色の放物線が描かれる。
「――ふっ!」
圧に負けるな。数瞬のうちに自分に言い聞かせて、息を入れ――振り抜く。
よかった、ちゃんと返った……と息をつかせぬまま、次の攻撃がやってくる。
「やるじゃん! ――おらァッッッ!」
気合いの乗った一閃を、あたしは先回りして捉えた。大丈夫だ、視える。
でも――どうして視えるのだろう?
直接戦ったこともなく、あたしよりも遥か高みに居た存在のプレーに、あたしの目が追いつく理由はいったいなんだろう。ひとしきりラリーが終わった後、改めて考えてみる。
思い浮かんだ答えは、ひどく単純だった。
――つい先日。もっと速い打球を、あたしは受けたことがあるから。認めたくないけれど、やはり申渡とネットを挟んだ経験がどうやらあたしの中に息づいているらしい。
やがてウォームアップを終え、審判を務める申渡の大きな声がコートの内外に轟いた。
「――1セットマッチ! 雉沼、トゥーサーブ、プレー!」




