第三章 - 犬猿の発展(C-1)
雉沼桃子。
150㎝に満たない小柄な体格ながら、粘り強く泥くさいプレーで戦い、ファンを沸かせた元女子プロテニスプレーヤー。
体格がパフォーマンスに直結するスポーツの世界で、その身長は明らかに
小動物を思わせる愛らしいルックスと、対照的に野犬のようにぶっきらぼうな物言いが注目を集めていた選手だ。その人気は専門誌にとどまらず、芸能誌や女性誌にも出演していた。コンビニの雑誌コーナーで何度か写真を見たことがある。
けれど彼女は――半年前に突然、現役を引退した。
故障したとか、結婚したとか、さまざまな憶測が報じられていたけれど、その詳細は表に出てこないまま。彼女は忽然とメディアから……そしてテニス界から姿を消したのだ。
「『聖峰の番犬』ちゃんにも認知してもらえてるとはなー! 服買いに出かけたときとか、外でメシ食ってるときとか、パチ屋の開店列に並んでるときとか、たまーに声かけられたりするんだよ。あの瞬間、超気持ちいいんだよなー。テニスやっててよかったなって思う!」
桃子さんはそう言いながら胸を張る。たゆんっ……と大きな胸が揺れた。
――そういえばこの人、トランジスタグラマーとしても有名だったわね。
あたしは自らのなだらかな丘陵に目を落として、思わず溜息をついた。
大敗である。
「……ふつう、逆だと思いますけど。一介の女子高生であるあたしと、いろんなメディアに顔を出してた元プロの雉沼さんとでは、圧倒的に知名度の差が――」
「桃子でいいよ。苗字で呼ばれるの、慣れてないし」
「あっ……あの、えっと……じゃあ、その……桃子、さん」
口に出しながらふと思った。もしかして、結婚報道が真実で、今は苗字が変わってしまっているから呼ばれ慣れてないとか……?
そうした思考が顔に出ていたのか、あたしの様子を見ていた桃子さんがカラカラと笑う。
「ちがうちがう。深い意味はねえから。ほら、雉沼さんって呼ばれると、インタビューに答えたりとか、テレビに出たりとか、そういう固いやりとりを思い出しちまうんだよ。こう、肩に変な力が入るっていうかさ……伝わる?」
あっけらかんと言う桃子さんの声も、事務的に脳を通り過ぎていく。
なんだろう。ふわふわしてる。
有名人と交流を持つことに浮き足立っている……という感覚とはまた異なる。
目の前に立っている人間は元プロ選手。試合をして、各種媒体に露出して、テニスを続けることで生きてきた人物。その事実は、あたしにとって大きな意味を持つ。
テニスを続けて生きていく――その人生目標に一番近い存在だから。
ぼんやりとした感覚を現実に引き戻したのは、申渡の呆れ声だった。
「……元プロっつっても、今は人間のクズだけどな」
「失礼だな。今は人生の夏休みを謳歌してんだよ。あと半年はまともに働くつもりはねえ」
「まともに働くって、ねえさんと程遠い言葉だな……」
呆れた様子の申渡。……というかこのふたり、さっきから距離が近くないかしら?
やれやれといった様子の申渡に近づいて、そっと尋ねてみた。
「……ねえ、聞いてないんだけど。あんたが雉沼桃子さんと知り合いだったなんて」
戸惑うあたしとは対照的に、申渡は平然と答える。
「言う必要がなかったからな」
「…………ッ! はぁ……あんたはいつもいつも……」
ソフトテニスの全中王者だと明かされたのも、思い返せばコートを挟んだ後だったし、昨日はあたしの家から帰る途中に真尋と食事に行っていたらしい。
極め付けに、今度は元プロの雉沼桃子さんと知己の間柄だった? 後出しばかりだ。ジャンケンなら反則負け。
「ねえさんとは地元が一緒なんだ。まあ、一緒とはいっても、俺が小学1年生の頃、ねえさんはもう中学生だったから、よく近所で遊んでもらってた程度だけど」
「ウチらの地元はマジで田舎だからなー。娯楽のバリエーションが少なすぎて、中学生は部活に打ち込むか、近所のちっちゃい子の遊び相手をするか、セッ――むぐぐっ!?」
「それ以上はやめろ。せっかく尊敬の眼差しを受けてるのに人格評価が地に堕ちるぞ」
桃子さんの背後に回り込み、口をガバッと抑え込んで諭す申渡。もがもがと暴れる桃子さんの様子は獰猛なペットみたいだった。セッ? なんだろう、窃盗? 治安悪すぎない?
ぷはぁ、と大きく息を吐く桃子さん。申渡の拘束から逃れたらしい。
「ウチがテニスやってるの見て、悠坊も真似して始めたんだよな。おねえちゃんと一緒のやつやるー! とか駄々こねてさ。あんときは可愛かったなー。今じゃ見る影もねえけど」
「うるせえショタコンロリ巨乳。さっきから昔のことをほじくり返すなよ老害か?」
「……てめぇ悠坊、ウチが下手に出てやってれば調子に乗りやがって」
「下手!? どこが!?」
おろおろとする申渡に、さらなる追撃がかかる。
「しばらくぶりの『お仕置き』の時間だ。どっちが上かを教えてやるよ」
問答無用とばかりに桃子さんがラケットを掲げて胸を張り、こう言った。
「ちょうど身体が鈍ってんだ……相手しろ」
刹那。
ぎらりと、桃子さんの眼光が勝負師のそれになる。
背筋が震えた。強者と向かいあったときの感覚が、ひとつひとつの細胞から伝わってくる。
ああ、やっぱり……この人はほんとうに、あの雉沼桃子なのだと確信した。
抜き身の日本刀を構えた剣士を思わせる桃子さんに、申渡は。
「ようし分かった、相手してやるよ――――『聖峰の番犬』こと、狗上優姫がな!」
と、勢いよく言い放った。
「へっ?」
思わず間抜けな声が漏れる。今こいつ、なんて言った?
「なっ、なっ、なんであたし!?」
「硬式に転向したばっかりの俺がねえさんに勝てるわけねえだろ。頼んだぜ相棒」
「……相棒呼ばわりはやめてくれないかしら。誤解されたら困るから」
「誤解じゃねえし!? お前、俺のペアなんだからな! 分かってるか!?」
それに――と申渡は声のトーンを落として。
「――元プロとコート挟んで本気のシングルス。やりたくねえか?」
そんなふうに言ってきた。
ずるい。
直球バカのくせに、まるであたしの心を見透かすかのような問い。
自然と、口が動いていた。
「…………や、やる!」




