第二章 - 犬猿の宣誓(B-6)
「どうして……」
言いかけた言葉を飲み込む。
一切の挙動を失くしたあたしの横から、真尋がつかつかと前へ出る。
「真澄、お待たせ。頼まれてたシリコンとグリップテープ、これでいいかな」
「おっそーい! 待ちくたびれたんだけど! 面張り替えるのにどれだけかかってるのさ!」
「それが、たまたま優姫と出くわしてしまって」
真尋の影、申渡の横から、ぴょこんとこちらを覗くその姿。
嫌な想像が形を成して、そこに存在していた。
「あー! 狗上優姫さんだ!」
そいつはタタタッとこちらに小走りで駆け寄ってくる。
「こうやって話すのは初めてだよね。いつもおねえちゃんがお世話になってます」
快活な挨拶に対して社交辞令的な受け答えをするのには慣れていたはずなのに、本能がそれを許してくれなかった。代わりに喉を通って出たのは相手の名前のみ。
「……鬼頭……真澄……ッ!」
「え? なに、いきなり睨まないでよぉ。怖いなぁ、仲良くしよ?」
艶めくボブカットの髪。眠そうな二重まぶたの瞳。小ぶりな唇。あたしよりも少しだけ低い身長。人好きのする笑顔。女性かと見紛う愛くるしい容姿。
しかし、あたしは知っている。
真尋と同様、この男が――心に『鬼』を飼っていることを。
油断すれば喰われる。
だからあたしは、あえて突き放す選択をした。
「あいにくだけれど、『鬼』と慣れ合うメリットなんて存在しない」
酷薄さを前面に出して告げると、真澄はわざとらしく傷ついたような顔をする。
「そんな悲しいこと言わないでよ。ていうかそれ、周りの人が勝手につけた呼び方だし。正直、気に入ってないんだよねえ、かわいくないし」
「……白々しい。あんたのテニスを見て『かわいい』なんて形容が出てくる人間がいるなら、そいつはとんだバカでしょう」
「ひどくない!? 初対面だよね!?」
精一杯の悪態をつく。強がりだと自分でも分かっていた。
――と、そんなあたしの視界の端で。
「そうか! 優姫のペアとはきみなのか! まさか優姫がダブルスを組むなんて!」
「おう。真尋さんも高天原オープンに出るんだな。お互い頑張ろうぜ!」
「真澄とも仲良くしてくれてありがとう。姉としてとても嬉しいよ!」
「おう! ……あれ、姉ってことは……先輩……っスか……?」
「いいや、真澄とは双子なんだ」
「似てねぇ!?」
真尋と申渡が、ごく自然に打ち解けていた。
あのふたりの行動力と社交性はなんなのよ、腹立たしい……。
「あっ、もうこんな時間だ。おねえちゃん帰るよー。あと、ゆうくんに迫っちゃだめだよ?」
「なぁッ!? 私はそんなふしだらな女じゃないぞ真澄ッ!?」
「おねえちゃんの無駄にでっかい乳が、男子高校生にとって目の毒だって言ってるの」
無駄とか言うなよぉ……と涙目になる真尋の手をとって、鬼頭真澄は申渡と言葉を交わす。
「じゃあ、またね。ゆうくん、今度は試合会場でねっ!」
「おう、またな真澄。当たったら全力でぶつかろうぜ!」
目の前で繰り広げられる爽やかな――あたしからすれば能天気にしか思えない会話を終えて、真澄は踵を返し、出口へと向かう。
ほっと胸を撫で下ろそうとした、その時だった。
「ねえ、狗上さん――」
去り際。あたしにだけ聞こえる声で、鬼頭真澄がこっそりと囁いた。
「足、震えてるよ?」
ずぐんっ、と。千枚通しで身体を串刺しにされたような衝撃。
それを気取られないように、あたしは無言で脇を通り過ぎる。
こいつにも視えるのだ。相手の『肯綮』――弱点、急所が。
やがてふたりの姿が見えなくなり、入れ替わるように申渡が声をかけてくる。
「……おい狗上、汗すごいぞ。どこか具合悪いのか?」
「なんでもない」
「なんでもなくはないだろ。明らかに様子おかしいし」
「うるさい! あんたはどうして、なにも――」
なにも知らないのよ、と言いかけた声を引っ込めた。
だめだ。他人に当たるな。
なんの発展性もない行為だ。ぐっと理性で押し留める。
無知は罪だと思う。そんな言葉はないけれど。
それに、土俵が異なるスポーツにおける、表に出ていないある種の禁忌を事前に知っておけというのも理不尽な話だと、冷静な自分が告げていた。
思考を巡らせていると、申渡が心配そうにこちらを気遣ってくる。
「……どうした? なんか気に障ったのなら謝るけど」
「なんでもないわ。ちょっと考えごと」
はぐらかして、無言でテニスコートへと向かった。不可解そうな目をした申渡が後ろをついてくる。今はなにも思考するな。
大会まであと2ヶ月。
課題はたくさんある。
今はそれを地道に潰していくだけでいいんだ。
そうだ……結論を出すのは帰ってからでいい。




